ハリガネムシ(吉村萬壱著 文春文庫 2006)

もし何人もの人間に対する開腹や整形などの手術を施す権力が与えられたとしたら、疑いなく私はそれを断行するだろう。それを思うとゾクッとした。(p103)

ハリガネムシ (文春文庫)

ハリガネムシ (文春文庫)

※以下の内容には『ハリガネムシ』のネタばれが含まれます※
人に勧められて読んだ本。短かったし、日本文学をここのとこほぼ全く読んでなかったので丁度いいとおもってよんだ。
娼婦サチコと過ごすようになって堕落してゆく高校教師の話


人の、この世界の、薄汚れた部分、それもよく目を凝らすと普段の日常生活ではなかったことにしている憤りや不条理な部分を、ちょっとだけ(そのちょっとが社会的には命取りなんだろうね)堕落していく慎一(主人公の高校教師)の目線から体験として語ろうとしているのかな。とはいっても初めから慎一は世の中をかなり汚いフィルターで見ているように感じる。それは冷たい同僚であったり、尿道結石を銭湯で処理しようとする男であったり、もちろん自分であったりする。
 
汚い世界で汚いことをする話と言えば、ウェルシュの『マラボゥストーク』という小説があって、アメリカの貧困街で育った男の話なんだけど、それに比べるとだいぶみみっちいレベルです。だからこそ自分にも起こりうるとも思うし、日本の底辺はこんなにも恵まれているとも考えられる。
 
作品の展開に関して話すと、日本文学によくあるタイプだけど、物語的な進行をしていない。というのは、確かに時系列的に話が進んでくんだけど、本来はこの物語は前後、特に後ろにもっと長く続いていなければならないということ。作品が、物語の途中でフェードアウトしている。まあ、このままサチコと不思議な関係を続けることは言わずもがな、ということなんだろうけれど。そこに私が求めるのは、このフェードアウトの後の出来事についての主観的な(もっと言えばゆがんだ)解釈をマーキングのようにきめてもらいたかった。一応強引に解釈すれば、サチコが慎一にデレた(?)ところでフェードアウトすることによってこの優柔不断で受動的、無計画的な生活が続きますよ、ということの一部嫌味をふくむ強調ということか。
 
展開を見るうえで助けとなるオプションは、<堕落した人たちがよく集まる喫茶店>であるリーベである。はじめの頃慎一は、ここへ来るとみんなが深刻な顔をしていて(自分より切羽詰まっていて、と解釈していいんじゃないかと思いますが)落ち着く、という感じ。
自分はここでは完全な局外者で、君たちのような深刻な問題などまるで持ち合わせていないよという意識が膨らんで大きな自由を感じることが間々あった。そういう時にはこう書くのが常である。「皆さん、大変でんな」(p52)
しかし、サチコとひと夏を過ごしてリーベに来ると、なんだかえらく馴染んでしまって、ちょっとした好奇心がどうしてこうなってしまったかな、と考える場面がくる。
アイスコーヒーに蠅がくっついているシーンでそれが端的に形容されている。もちろん慎一は蠅どうだとかはっきり喋ったわけではなくて、これが夏以前であったとしても、以降であっても、物憂げにグラスを見つめているだけだだろう。だけど、今は確実に、おれってこの蠅と同じだよなぁ、みたいなことを考えてるわけで、私としては、うわ、きたねえ!とか思ってほしいわけですよ。あるいは以前の慎一だったらそう考えたかもしれない。そういうところの認識のズレが、慎一を理解する上で重要なヒントになるかもしれない。
 
話の本筋は、無意識のうちに抑えつけていた抑圧的な本能がハリガネムシのようにうずき始めた、ということなんだろうけど、超自我のモラルから解放される原因にはサチコが大きく絡んでいるから、サチコについて考えるのが一番妥当なんじゃないか。
この理由について慎一はサチコが暴力に慣れていることを挙げている。話は単純で、自分の日常に、堕落的な日常を持つ女が侵入してきて、感染した、という感じでほとんど全ての解決を図れる。
もしかしたらサチコは生活のランクアップを求めて来たかもしれないけど、慎一もまたほかの男と一緒暴力男(p82)であった(になってしまった)。
また、慎一自身ももともと自分の持つモラルで回る世界に不満を持っていたことは確かだろうし、当然そのモラルは押しつけられたものであって、決して納得して手にしたものではないはずと見受けられる。
だから生徒の不純は平気に対応できても、ダイレクトに現れた不純に抵抗しきることはできなかった。気付けなかったわけでもないし、もう、これはなるべくしてなったと。
慎一が以前の生活をそのまま保とうとしたら、与えられたモラルではない形で現状の世界を肯定するか、サチコに会わないか、その程度しか選択肢もなさそう。サチコは慎一に寄りかかってるわけだから頼るのは無理だしね。