天国の発見(ハリー・ムリシュ著 バジリコ 2005)

「それ以来、天国の側からは、遠近法の消点をすり抜けてこちらの世界にはいって来たものはいない――きみはもしかして、そう言いたいのかな?」

「そういうナンセンスはわたしの口からは聞けないわよ」

「残念」

「消点の天国の側は存在しないの」<中略>

「そんなの意味のないたわごとだと思うわ。一時性と空間性のみが永遠なのよ」

「それさえも永遠ではないようだ」彼もうつぶせになった。「天文学ではときどきそのことを疑ってきたはずだ。…」 (上pp287~288)

天国の発見(上)

天国の発見(上)

最下部に参考別紙(1_シナリオ展開、2_キャラ用語)UPしました

※以下の内容には『天国の発見』のネタばれが含まれます※

天文学者はマックスである。この時会話相手のマリリンは美術学士でキューバの革命コミューンの任務を遂行している。オノはアマチュア言語学者だったが、政治家に。アダはコンセルトヘボウのチェリストになった。皆しっかりとした社会基盤に根付いている。

 

個人的な話でいえば、本書は揺り戻しに相当している。

お話はお話、社会は社会、分類の切り口が増えるごとに、思考と社会が分離して専門分化していく方向に行きがちになる。

本書の登場人物たちは、みな自信があって、社会に地位があって、社会的な目的がある。社会の中で生きている人にとって、社会に全力で迎合しようとする人は好かれる道理ではないだろうか?このような人たちは自己啓発本の中でのみ輝き、お話の世界では後ろ指をさされる必要はないように思われる。

いや、おそらくそれは私の観測上の問題でもある。だからその偏りに対する揺り戻しのつもりということ。

 

ほかの登場人物、下巻の城の同居人たちも、みんな職業を持っている。テマート氏は建築士の教授で、ピート・ケラーは錠の修理師だったり。職能をもって話を進めるということ、これは本書目線においてとても大事なことであり一貫してる。

 

 

人間社会のことを色々言ったすぐ後でなんなんですが、本書は天界の話である。一言でいうならば、天使が、石板(モーゼの十戒原本)を天界に取り戻すため地上界を操作し、クインテンに奪回させる作戦の成功経過を上司の天使に報告する話だ。既に冒頭では任務は事後でそこから報告(=回想)ということになっている。だから、まずは人間社会ではなく天使の目的から始めなくてはならない。

 

天界のこと

本書は「任務完了、一件落着です。(上p010)」という天使1(部下)から天使2(上司)への報告からスタートする。ああ、完了したんだな、と思った。

ところが、本書の終わりエピローグに相当する場面で、たまりかねた天使2が「われわれはおしまいだ。世界はおしまいだ。人類はおしまいだ。(下p606)」と言って幕となる。石板を奪還するという任務が完遂されたことを認めているにもかかわらず、である。

 

いきなりこれが本書最大の謎と言ってもいいだろう。

これをどう考えたものかな。先んじて言えば人間側の目的考察後に結論が出るとしたいと思う。それは最後に。

 

謎はいったん棚上げに、先へ続けさせてもらうことにします。天界の状況を整理すると、

  1. 天使1はモーゼの石板奪還作戦のチームリーダー
  2. 天使2は天使1の上司で、神は「チーフ」と呼ばれている(天上位階制)
  3. だれかを大工に任命しておきながら、同時に木が切られることを禁じることはできない(下p313)
  4. 3=自分の感情に反することをやらせるのは、それほど簡単ではないんです。人間はマリオネットではありません、彼らにも自分の意思があるのです(上p310)
  5. 人間が神を信じなくなってきたのは、400年前フランシス・ベーコンとルシファー・サタンが悪魔の契約を結んだから。天使2の証言で天使1は知らされる。(下pp314~321)
  6. 地上に生まれるとは、天界の<火の粉>の一つが瞬間的に365イーオン、さまざまな世界と世代をとおって降りて(上p307)ゆき宇宙の物体が付着していく
  7. 天界の<光>のなかに<闇>の芽が潜んでいるように、<闇>はわれわれの<光>に向かっており<中略>身分のつり合わない結婚のような結びつきは、最終的にわれわれの世界の存在の意味(上p306)
  8. 報告は1967.02.14~1985.初夏の出来ごとを追っている。
  9. 天使1はクインテンの祖父母世代から、地上界(=現象界)をコントロール

こうした条件が見えてくる。

 

はじめ、短絡的にこう考えた。

命題[天界の状況1と2]は背理法で調べると、エピローグの天使2のような矛盾が生じる。つまり、任務達成したが達成できなかったというような矛盾。よって天上位階制は不成立、神はいない。

ところが、これこそサタンと手を組んだフランシス・ベーコンに教わったことだけど、先入観バイアスだろう(市場のイードラ、かな?)。もとより私にとっては神はいないほうが都合がよかっただろうから。

 

振り出しに戻ってしまったが、ともかく天界らしく(?)付帯した出来事は起こらず、知識(事実)に関する記述があるだけである。

特筆すべきことがあるとすれば、天使1がデウスエクスマキナで人間を殺したりコントロールしたのを、天使2はずっと相槌を打ちつつ進行していくにもかかわらず、最後にいきなり嘆き憤り始めるという謎が発生するということ。

ただその前から、天使2は地上界の報告への感想を語る。これはさながら読者のようで、作者が作者を俯瞰しているような自己言及的な構成は、そのまま自信家な人間の登場人物にもにじみ出ているみたいだ。

 

地上界のこと

やっと人間の話をすることができる。とはいっても、本書のほとんど9割以上が地上界のことなのに、要点としてはクインテンが生まれ→オノとクインテンが一緒に石板を奪還するのみ。天使の意図に沿った整理だからそうなってしまうんだけど。

 

ストーリー詳細は最後の参考別紙1に譲るとして、オノとマックスは若者としての出だしは社会の成功者の部類といえるだろう。

オノはクインテンの戸籍上の親で、17年間実親だと疑わないで生活している。マックスはクインテンのDNA上の親かつ育ての親で、DNA上の親であることは知らずに死んでいく。

二人とも社会での欲求がある。というより、尊大さというか。

宇宙を見て自分は小さいと思う人の気持ちがまったくわからなかったよ。人間は宇宙がどれだけ圧倒的なものか、知っているものじゃないか。(上p408)

結局社会的欲求というものは直接的には何だかは分からないもので、自分自身への自信のようなものが社会性を助けたり足かせになったりするということだろう。

オノがアムステルダム市会議員という成果をもってしてもピンとこないということを示している。※『V.』シェーンメイカーの対比も面白い(link:拙記事)

家族生活も、言語学における進展となんの変わりもなかった。アムステルダムの市会議員になることが人生最大の目標だという人たちがいるのは知っていたが、彼自身はなにかすることがあるのを喜ぶ程度だった。(下pp055-056)

 

ただし、才能ということについてはどうか。これは正真正銘本人たちの生きる意味になっているようだ。

オノは5000以上の言語がわかること。

子どものころ、家では自分の語学の才能について話したことはなかった。だれでもちょっと勉強すれば、習得できるものだと思っていたのだ。才能とはそういうものだ。(上p051)

マックスはナンパが得意なこと。

<人は楽しみのためにこの世に存在するのではない。セックスが肝心なのだ>というのが彼の持論だった。(上p038)

実は、この能力は天界のオーダーである。オノが石板奪還を手伝えたこと、マックスがアダを口説き落とせたこと、に相当する。

これに即してアダとクインテンについても考えてみたい。

 

アダはクインテンの母親だが、子が生まれる前から植物人間状態になってしまい、ストーリ上からはフェードアウトする。凡庸な人であるように見えながらも、やはり才能があると言えるのはチェロだろう。アダもその凡庸さと対照的に、するっと簡単にコンセルトヘボウ入団するような印象で描かれている。これが不思議だが、子作りのきっかけとしてのキューバ演奏渡航という天界のオーダーと考えるべきかな。

 

クインテンは、他の人間に比べて一段階、天界オーダーが濃厚である。何といってもクインテンから、自由意志のようなものはほとんど感じられない。オノもクインテンも自分が何になりたいか(下pp186~187)分からないが、その質感は全く違う。クインテンは社会の因果関係を考える気すらない上で、分からないのだから。

 

面白いのは、天界オーダーであるにもかかわらず、それは理由なく○○すべし(定言命法)として自覚され、社会的には才能として処理されるということ。

天使1の言でもそれがはっきりしている。

だが、おまえはそれを記憶として思い出さないであろう。自分自身の考え、素晴らしい思い付きだと思うであろう。ここで地上のことをほとんど知らないのとおなじぐらいごくわずかしか、地上に降りたらこの世界のことを覚えていないであろう。(上p306)

 

天界オーダーが完了すると、才能は社会から分断される。個々人にとっては取り上げられてしまうかの様に見える。

マックスはナンパできない田舎に、アダは仕事ができなくなり、オノもエトルリア語解析の間違いが判明して学会から締め出される。

才能の社会性には終わりがある。

 

 

ところで、私の個人的な着眼点であるところの、社会の目的はどうなっただろう?

既に天界のオーダーがあることが分かったので、全ての目的は天界の影響がありそうだ。だけど、[天界の命題3と4;命令は地上界に従って動かすことしか出来ない]と、各人が受け持つオーダー度によって程度差があるようだ。オーダーの遊びである自由度分は、人間の目的と言ってしまっても良さそうだろう。

 

クインテンは高次元で天界オーダーを担っているので、人間の目的というものを持ち合わせていない。強い。

これから先の数時間のあいだにもっとも大事なことをしなければいけないという気がしていたが、その後は物事が自然に運んでいって、自分がどこに行くべきか見えてくるのだと、彼は確信していた。(下p481)

しかし、オノの政治活動、マックスの天文学は比較的人間の目的と言っていいのかもしれない。

自由意志という聞こえのいい自由度は、しかし時間の因果関係と意味の妥当性を繰り返し問い返される。いくつか引用をしたいと思う。

キューバへ行く決心の問答について。

  • 世界は―少なくとも地球においては―ひとつの巨大な、でたらめにつくられたがらくたなんだよ。それが不可解な理由でいまでも多少機能しているだけなんだ。人間はもともと宇宙に属してないんだが、いま、こうしてそこにいると、あらゆる点ですべてが可能なんだ。(上p230)

アウシュヴィッツについて。

  • どうせいつの日か、すべて取り返しがつかなくなり見捨てられてしまうのならば、なんでも可能で、なにをしても許されるのだろうか?天国でも犯罪的に記憶を失うという恩寵なしには、永遠の至福は得られないだろう。(上p186)

アダの事故直後

  • 「なんていう意味のない混乱なんだ。あの木が倒れてくるところにちょうど通りかかるなんて。なんでそんなことになるんだよ?」<中略>彼にはオノがいまはじめて、存在の意味のない混乱を自分のこととして経験しているのがわかった。(上p418)そしてマックスには自明のことだった、と続く。

傲慢だったと思えばすぐ後に妙に悲観的になったりする感じ。それでもオノもマックスも、自分の人生結構いい感じ、と思ってそうだなぁ。

 

そして、人間の目的は残念ながら成果に結びつくことはないだろう。

オノ自身はこれでおしまいだった。もう、降りたのだ。ヘルハは死んだ。二度と政治などやらない。二度と恋人もつくらない。 (下p204)

いつでも戻ってくると、うれしい気持ちになった。それは彼がどうしても国際的な天文学者のトップグループにはいり込むことができなかったせいかもしれない。(下p274)

政治も天文学も失敗だったという認識を当人たちは持ったであろう。マックスが死んだことを聞いたオノはあいつも「才能が足りなかったってことだよ(下p372)」と言っている。これを壮年期の終わり、失敗者が言うあたりにリアリティがあると思う。

 

何といっても、神意にない解明をしてしまったマックスは隕石を落とされて死亡する。マックスが解明したことは[天界の命題6]に相当している。せっかくなので記載しておくと、VLBI観測でクエーサーMQ3412の最も強いスペクトラム線の変化を調べると膨張する宇宙より無限に速く接近しているようだ。それは、MQ3412の直線上に消失点があり、時空間的に別のものから何かが生じているということ。(下pp261~279:抄訳)

これが人間からの目線だった。世にいう天国の発見ということ。

 

オノも一つ発見したことがある。これをして最後のまとめを始めることができそうだ。

 

 

天界と地上界のかかわり

天界と人間との共通理念はどのようであっただろうか?

 

オノの発見の前に、

テマート氏の建築人生最後の締めくくりが興味深く思う。人間の尺度に即した人文主義建築と、19世紀古典主義的革命建築の違いについて。

パラディオのような人文主義的な建築家は、と彼は話した、設計の際にヴィトルヴィウスが発見した神的・人間的身体の比率である四角と円だけではなく、<中略>ピタゴラスの発見をも指針としていたのだ<中略>音楽理論が世界、そして肉体と精神、建築術の形而上学的基礎であろうということは、当時、反啓蒙主義的ナンセンスとして拒絶された。それが一直線にブーレ―とシュペーアの台頭につながったのだ。(下pp239~241)(cf.下pp179~183:死と建築)

 

これはテマート氏(人間)の視点からすれば、人間性の観点であり、まさに人文主義そのものである。パンテオンもそうだし、神のお立てになった真の幕屋(下p423)も例示にあがっている。真の幕屋はイエスが通った幕屋ということらしい。

つまり逆に言えば、天界の視点では、人文主義建築は天界のオーダーであると言っていいだろう。そしてブーレ―やシュペーアの建築物については、ルシファー・サタンの系譜だと言いそうなものだ。

 

人文主義建築のように、クインテンならクワドラータ書体とか、地上界における神的なものというのが取り出される(聖遺物文化的な衒学性とも解釈できそうだが…)。

 

オノにとって、それは言葉だと思っていた。少なくとも失敗者になるまでは。

それが政治でそれが権力なんだ。すべては言葉によるんだ。とぎれることのない言葉の吹雪だ。でもそれはふつうに話すのとはちがう。それは表明を行うことなんだ。行動なんだ。<中略>神なら問題ないだろう。<はじめに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった>(下p110)

これは天使の言とも一致するのである。

天と地はもともと言葉という手段のみつながっているものなんです。この作戦こそがそのことをふたたび明らかにしたんですよ。(下p012)

どちらもモーゼの十戒をさした発言になる。

 

ただし、オノはキューバ訪問のスキャンダルで政治生命が終了する。妻や彼女も死に、言語学会からも追放される。そして失敗者になった。

失敗者になったところで、本書最大の気づきを得る。

 

金の壁(下pp323~324)」である。それをまとめたいと思う。

A,金の壁とは、社会機能の最高権力そのもの

B,権力者は普通の人と変わりなく、ただ金の壁の奥にいるだけ

C,金の壁は、被権力者の崇拝・畏敬・恐怖の念を結晶化したもの

D,社会全体はもれなく何かの権力に浸っている

E,政治権力とは「だれかがなにも知らないことを実現できること」

 

これこそ最大級の人間の目的じゃないか。 

金の壁の先まで体験したオノの人生の回想。

 

さらに、権力要因の優先順位をも規定している。(下p326)

Ⅰ、肉体

Ⅱ、人間の関係

Ⅲ、考えと言葉

(後ろ暗いことに)オノにとって言葉は3番目に降格したのであった。

どうすればまた、わたしたちの心臓をドキドキさせることができるでしょう?それは畏敬の念を強制することによってのみ可能なのです。<中略>これは見識ある独裁者の権威主義的な支配によってのみ実現できます。(下p335)

これを敷衍していくと、肉体とは、カリスマ、「才能」の領域といえるのではないだろうか?

才能とは天界のオーダーに即したものであったはずだった。

本書に即していえば、肉体によって政治を成したものにはカストロ、ナポレオン、ヒトラーそして、最初にそれを表明したのはヨハネでした。<その言葉が肉になった>(下p333)天界への表象はこうして担保されましたよ、と。

これがオノの天国の発見だ。

 

なお、発見はしたけど、息子が天界オーダーに従っていることは分からなかった。さもありなんという感じだ。

面白いのは、自分の杖が奇跡として崇められている様相(下p538)は見ているのに、ということ。閑話休題

 

実はオノはもう一つの天国の発見をしている。

[天界の命題7]である。引用しなおすと、

<光>のなかに<闇>の芽が潜んでいるように、<闇>はわれわれの<光>に向かっており<中略>身分のつり合わない結婚のような結びつきは、最終的にわれわれの世界の存在の意味(上p306)

いつ感づいたかというと、アダに子供ができたとき。自分の不倫と子供ができた喜びのバランスについて考えていた時である。

もしかしたら、とオノは考えた。本物の清らかな愛はすべての花がそうであるように、根ごとたい肥と泥に浸けると花咲くのかもしれない。(上p345)

実はマックスも泥をこしらえていたし、アダの万引きも泥の一つとしてカウントすべきなのかもしれない(アダはマックスとの性交に罪悪感を感じてないかもしれない)。

 

 

なんだ、天界と地上界は同じようじゃないか、と思えてくる。

ちょっと待ってほしい。

天界と地上界はどう似てるのか。

 

天使2は読者みたいで、感嘆まじえて報告を聞いた。

そもそも天使2は天使1の上司であって、

天界は天上位階制という役所制度を採択している。

そもそも天界は権力構造を伴う組織ということだ。

そして報告の最後に突然キレる上司…

 

天界と地上界の間には「金の壁」があったということではないか。

これが本書結末の謎への回答であると考えたい。

 

さいごに余談となるけど、

テマート氏の建築談の中で、人文主義と新古典どちらにも属さない建築物を一つ類推させてる。

それはピラミッドだ。

ピラミッドはキリスト教圏の天界の文脈では推し量れなかったからであろう。死の観点では19世紀建築に近いけど、サタンの影響では無いだろう。

 

これは古代エジプトには古代エジプトの、金の壁があったということ、キリスト文化から分離してるということ、と読んでいいんじゃないか。

オノとマックスが初めて会った日にも、エジプトのヒエログラフについての会話をしてたんだったっけ。

「まいったな。でも<パウト>っていうのは?」

<中略>神々が創られている原子物質のことだと言っています。でも実際はもっと複雑なんです。『死の書』のなかで創造の神はこう言っています。『わたしはわたしの創る原子物質で自分自身を作りだした。』」(上pp050-051)

※下記別紙資料になります※

f:id:permendot:20200113170227p:plainf:id:permendot:20200113170327p:plainf:id:permendot:20200113170339p:plainf:id:permendot:20200113170349p:plain天国の発見_シナリオ展開(参考別紙1)4枚

f:id:permendot:20200113170359p:plainf:id:permendot:20200113170409p:plainf:id:permendot:20200113170416p:plain天国の発見_キャラ用語(参考別紙2)3枚

モロイ(サミュエル・ベケット著 白水社 1995)

私は彼女を理解するより、おうむのほうをよく理解したということだ。おうむは、ときどき、この売女の、助平の、糞たれの、たれ流しと言っていた。<中略>ラウスは、かわいいポリーちゃんと言わせようとこころみていたが、どうやら手遅れだったと思う。おうむは首をかしげて考えていてから、言った、この売女の助平の糞たれのたれ流し。おうむが努力しているのはよくわかった。(p052)

モロイ

モロイ

 

※以下の内容には『モロイ』のネタばれが含まれます※

読み始めてすぐに文学というものの解体が行われることが分かるが、そこが素晴らしいというわけではない。こんな小説なのに感動的だということに名状しがたい素晴らしさを覚えるのだ。

そして感想のまとめを書こうとするじゃないですか。ところが、まとめるとは何だろう…?その結果私の心はしばらく冬眠することとなったのです。その間日々に忙殺される中で、ここのところやっと発酵してきたように思われるのです。

 

これほど出来事を追う事の意味を成さない小説というものも珍しいでしょう。ひとことで本書の進行を説明するならば、

第一部モロイ編:モロイの回想録。母の家に向かって町を徘徊する最後の周回について。

第二部モラン編:モランの回想録。モロイを探す任務を受けたモランが、息子と共に旅をする。バリーの目と鼻の先まで来たがモロイに会えず帰還命令を受け、家に帰宅するまで。

まずこの大きなプロットのなかに因果関係というか意味を見出すことは難しいだろう。というより、回想者(主人公?)のありとあらゆる同一性をわざわざ崩しにかかったり、興ざめな忘却の茶々を挿入してくる。

 

第一に、正直ゆえに信用できない語り手となってしまっているのである。

この文章は精神錯乱ぎみだ、しかしかまわない。私にはもう、自分がなにをしているのか、なんのためにそうしているのかよくわからない。<中略>それに、だれに隠すのか、あなたがたに?なに一つ隠せないあなたがたに?(pp064~065)

今書いたような動きを松葉杖の助けなしにしたのを妙だと思うかもしれない。私も妙だと思う。だが、目がさめたばかりのときは、自分がだれだかすぐには思い出さないものだ。(p053)

読者のお楽しみ(?)であるところの殺人ミステリも入ってくるのだが、こんな具合なので殺され損と言われても仕方ないだろう。奥行きの無いミステリ=意味の消失がダメだしのように描かれる頃には既に我々はモロイのペースに持っていかれた後である。

 

 

では、モロイやモランにとって大事な物は何だっただろう?

モロイは母に会いに行くこと、モランは市民的生活の矜持・モロイに会いに行くという仕事の遂行だろう。実際に、泥沼のストーリー展開の中、ギリギリこの行動原理で保たれていると言っていいだろう。

 

しかし、ここでもまた行動原理の理由はただの相対的な問題にされてしまう。

その理由?それは忘れてしまっていた。<中略>もう一度その理由にお目にかかれるだけで、私はそこに、母の家に、必然性という名の鶏の羽根に乗って、飛んでいっただろう。そう、なぜかということがわかった瞬間から、なにもかもやさしくなるものだ。たんなる魔術の問題だ。どんな聖者に身を捧げるかを知ること<中略>むしろ、魔法の呪文がないらしいのは全体に対してである。どうやら、死後にでもならないと全体などというものはないのかもしれない。(p036)

それにしても、私たちが何かをする理由に「どんな聖者に身を捧げるか」以上の妥当性ってあるかしらと思う。たとえばモランが徐々にモロイ化していくわけだが、はじめに持っていた矜持ある生活において敬虔なキリスト教徒の描写が非常にアイロニカルな苦さを与えてくる。教育パパなところも。

 

ストーリーは展開しないが、二人にとっての大事な物は明滅する。ここを軸として追ってみることはできるだろう。

<モロイ>

丘でAとBが出会うのを眺める

→母に会いに行くことを思い立つ

→警察の職務質問とラウスの犬との交通事故で中断

→ラウスの家で過ごす(母の重要度は低くなる)

→ラウスの家を出るが、今度は母よりも町を離れてみたい欲求が生じる

→森の中で母への欲求が復活する

→森をぬけるend

<モラン>

日曜日、ミサの時間まで庭にいると…

→ゲイバーから任務の指示

→家政婦や息子への適切なふるまいに精力を出す

→夜(信じられないことに)任務出発の準備

→夜中息子と一緒に出発

→隠れ家にて膝の痛みが起こり、人間性の変化が始まる

→自転車を買った息子とバリバにたどり着く

→息子とケンカ別れてその場にとどまる(モロイという任務は不明瞭になってくる)

→ゲイバーの急な帰還命令(仕事の消化不良から来ると思われる抵抗反応)

→帰途に秋冬かかる(声は聞こえ始めるが無視した)

→家につく(「声」に従っていくだろう)end

二人ともままならないもので、大事にしていたことに対する障害が現れる。そこはモランの方が比較的明瞭である。モランは膝のケガと帰還命令のダブルパンチで人生変わってしまった感じになるのである。息子はそのおまけのようなものに見える。

ああした経験をしなかったら、逆のことを、それも頑固に主張しただろう。だがそうなのだ、立ってもすわっても楽でないとなると、まるで母親の膝の上の子供のように、さまざまな寝姿をやってみることへと逃避する。いまだかつてなかったようないろいろな姿勢を探求し、そこに思いもかけなかった快楽を発見する。(p213)

 

モロイのほうはどうだろう。これがわかりにくい。なぜかといえば、回想録の効果が強く出てしまっており、小説が終わったところからの観測、つまり最後の一つ前(p007)の状態の不明瞭さが出てしまっている。(そしてこの御仁が小説というものをぶっ壊しているわけだが…)

結論を急ぐとモロイの障害は、他者の介入と自身の集中力に邪魔されている事だと言ってよいだろう。モロイ自らキレネのシモンを引き合いに出しているように、モロイの道程はどこか受難めいたムードで進行していく。

ただモロイの場合は、親切にしてくれた炭焼き職人を攻撃してしまったりするだけのことだ。

 

ところでモロイは、近似の言葉でいうなれば神経質みたいな感じである。だから簡単なことをするにしても他人どころか自分自身にも邪魔されてしまう。

ものを聞かれると、それがなにかわかるまでに時間がかかる。そして私のいけなのは、今聞いたことを、使い古してはいても耳はかなりいいので、完全に聞こえたのだが、それを静かに考えるかわりに、大あわてで、なんでもかまわず返事してしまうことだ。たぶん、私の沈黙が話相手の怒りを最大限にしてしまうのがこわいのだろう。(p028)

これは警察署での引用だが、ひとつ重要な見解を提示しているのではないだろうか。

 

すなわち、 

他者・世界とのコミュニケーション不全と、自分の肉体の精密な記述が、肉体が最も普遍的である世界を切り出している。と。

 

「肉体の精密な記述」には、ミクロすぎるゆえにアイデンティティは入る隙間が無いように思われる。ついでに言うならば、アイデンティティには2つの要素があるのではないだろうか。

1:ラベリング=自分の所属などの整理。これは社会性不全と社会に関するモロイ自身の推論能力の低さによって消去されている。

2:時間的同一性。こちらも同じく消去されるわけだが、更に新たな示唆を見出すことができるみたいだ。というのは、時間の積み立てを消去しているということだから。

ひいては、『モロイ』のストーリー性の消去でもある。『モロイ』という小説に、ウチでは、ストーリー(=時間)の蓄積によって物事(=欲望)は解決しないから期待しないでと言われているような。

そのかわりにモロイCPUは口寂しいときに吸う石ころについての演算で暇がないというわけだ。

 

「他者・世界とのコミュニケーション不全」について。

例えばモロイは初めから母に会いに行く行為をして「ひとりっ子の遊び(p018)」と言っている。母に会いに行く理由なんかごまんと記述できるだろうに、正直者モロイが出てしまう。世の中ではなく私が考えている時にやっと命題の判断ができるということだろうか。 というのもハーリンクス(p073)というのがデカルト研究者らしいという補助線もあったので。しかし、本書に限ってはこの補助線は妥当ではないかもしれない。まさに「私が考える」ということは、何かの世界観に根拠づけを求めないということだし、頼るべき世界観がなくても生きるということなのだろうから。既出の「どんな聖者に身を捧げるか(p036)」というやつである。

別の角度からこういうこともできる(そしてモランに即しているようでもある)。社会的使命のヒエラルキーを登っていくと、ある地点から抽象的な命題を置かざるをえなくなる。平和とか誰かの幸せとか。抽象性を持った使命のために生きることと、私に内在する抽象性のために生きることの違いは限り小さくなっていき、最後に残るのはコミュニケーションの内側の評価だけになっていく。

 

では使命が自分の問題になっていき、コミュニケーションが必要なくなるならば、何のために言語化されなくてはならなかったのか?現にモロイもモランも回想をしてしまっているではないか。

もともと私の柄ではないこのあわれな書記ちう仕事に甘んじているのは、人が信じるような理由からではない。たしかに、命令にまだ従っていると言ってもよい。(中略)私の聞く声は、ゲイバーにそれを伝えてもらうまでもない。なぜなら、その声は私のうちにあって、自分のものでない利益のために、昔からそうであったように最後まで忠実な召使いであることを勧めるのだ。(p200)

「声」というのがここへきて出てくる。モロイもモランも、全ての社会性や因果関係をとっぱらっても、声の絶対性には従うということになってくる。声については、かつて私が他人に望んだように、しんぼう強く(p200)役割を果たすよう、など色々特徴が出てくるが重要なことではなさそうだ。

 

声についてもう少し話を進めよう。

だがそれは、ほかの音のように聞きたいときに聞けて、遠ざかるか、耳をふさげばいつでも黙らせられるような音ではない。それは、どんなふうにか、なぜかもわからないまま、頭のなかでざわめきだす音なのだ。それは頭で聞く音で、耳は何の関係もない。(p056)

世界とのコミュニケーションをやめて自分の肉体を主観とするとき、声が聞こえ始めると読むことも出来そうだが、あくまでその辺りは曖昧である。手順や作法の問題ではないだろうと考えられるからだ。

 

聞こえる、平衡を失い、凝固した世界、弱々しく静かなだけの、おわかりだろうか、それもまた凝固した、だが見るには十分な光の下の世界について語る自分の声が。(中略)外見とは違い、終わった世界だ、それの終わりが出現させた世界だ。それは終わりながらはじまったのだ。(p056)

「それ」とは学問も捨てて最後に残った魔術から神秘が失われた(よって魔術からも捨てられた)場所とのことである。

コミュニケーション不全なのに言語化するのは「声」のためであって、「声」はコミュニケーション外との交信である。

単純に「声」をメタ的なN次元の先の者とすることも出来そうなのだが、私見では意外と、世界内の隣人ではないが、離れてコミュニケーションが出来ない程度の世界外の第三者(2人称と3人称の関係か?)でもいいんじゃないかと思った。

 

モロイの1人称についての下記の記述をみてそう思ったのである。

私は、自分がだれかということばかりではなく、自分がいるということも忘れることがあった、存在の忘却だ。(中略)だがそんなことは、そうしじゅうは起こらず、たいてい、私は、季節も庭も知らない自分の箱のなかにおさまっていた。そのほうがよかった。だが、なかにいても、注意は怠れない、自問自答しなければならない、たとえば、相変わらずまだいるのか、(中略)好んでではなく、分別からだ、相変わらずそこにいると信じ込むためにだ。だが、相変わらずそこにいるなんていうことは、なんの足しにもならなかった。私はそれを反省と呼んでいた。私はほとんど絶え間なしに反省していた、やめる勇気がなかった。私が潔白なのはそのおかげかもしれない。(pp070-071)

 

自分自身の箱の外で世界と一体にならないでいる理由を日々探し続けるということ。

自分の箱には文化や市民的生活、常識が含まれている。このあたりまでは上級浮浪者のモロイは切り離し済みかもしれない。しかし更に、そんなモロイにでさえ気づかない箱、つまり所持品や因果関係、雨をしのぐ家など、そして最後には私という存在自体…。これらが常に内包されているということを点検しつづけなくては箱の外の世界に戻れなくなってしまうと読んでみていいのではないか。

 

一度比較のためにもモランの変化について引用しておこう。本文中で最も難解な個所の一つと言っても良いように思われる個所だと思う。

ある分解、私が昔からそうなる判決を受けている、そのことからずっと守り続けてくれていたものの怒り狂った崩壊とでもいったものに似ていた。それとも、一度は知りながら否定してしまったなんとも言いようのない光と顔に向かってのしだいに早さを増す一種の穴掘りのようだった。(中略)そして、それ以上、それを見きわめようとしなかったという事実が、さらに、私がどれほど変わり、自分自身をしっかりつかんでいることにどれほど無関心になっていいたかということのしるしになっていた。(pp225-226)

 

当然、モランはモロイよりも自分の箱を固めにかかっていたはずであるが、周りを固めていたその有機性というか外部との輪郭線のようなものに外部からの非難を感じたのだろうか。少なからずいろんな意味でフォーカスが甘くなっていることが示されている。明言できるのはそれだけである。

なお、この日モランはなんとなく私の顔に似てい(p229)る男の話し声が遠くから聞こえてくるように思えた(pp229-230)という体験をしている。自分の箱の写し鏡を世界から見せられているような話だ。

 

話を戻してモロイが具体的に聞いた声を挙げたい。

ひとつ目は、それこそN次元から聞こえた声ではない。ビー玉を拾ってあげた男の子の「かなりありがとう(p071)」である。そしてそれと同じくらい明瞭に聞こえたのが、

自分の声が聞こえた、気をもむにはあたらない、だれか助けに来るさ(p125)

自分が自分の箱から外れて世界の声となり、こだまのブーメランが、純粋な自然の音となって、箱の外の自分に直接響くとき煩わしい悟性のバイパスを介さずに直に聞くことができるのかもしれない。

ついでに言うならモランの例もそのようではなかったか。

 

そこで一つ思い当たることがある。世界と一体とか、世界の声とかって、どこかでスルーしたような…

さてもう一度引用すると、「どんな聖者に身を捧げるか(p036)」にあった、

むしろ、魔法の呪文がないらしいのは全体に対してである。どうやら、死後にでもならないと全体などというものはないのかもしれない。(p036)

これのようではないだろうか。

声の在り処はN次元というより私が部分であるところの全体ではないだろうか。さらに死後というのが回想録を書いてる私ともダブってくるというところである(あるいはこれは興ざめな蛇足かもしれないが)。

 

 

こうした「他者・世界とのコミュニケーション不全」と「自分の肉体の精密な記述」を無視出来なくなったとき、

言い換えるならあらゆる文化性を取り払っても、というか取り払うことではじめて「肉体が最も普遍的である世界」が現れる。すなわち、私たち自身がそれ以上遡って理由を言及できない対象となりうる。ここにまず大きな救いを感じることとなる。オシャレな喫茶店もスマートな職場も素因数分解された要素に私の肉体は入りようがないから。

 

そしてさらに、自分の声が外から聞こえてくるような地平にあるとき、結果として潔白であるような、無理のない根拠に対して自分が開いているような気持になることができるだろう。これもまた逆に、文化や社会から切り取った要素から作り出すことはできない。能動的な働きであるがゆえに、救いもありそうな気がする。

 

色々習うことだろう。

楽しいひとときだろう。

百年の孤独(ガルシア=マルケス著 新潮社 2006)

「戸や窓を開けるのよ。さあ、肉や魚を料理して。亀を買うんだったら大きいのをね。よそ者をどんどん呼んで、隅のござで寝たり、薔薇の木に小便をしたり、そこらを泥靴で汚したり、好きなようにしてもらったらいい。屋敷が荒れるのを防ぐ手は、これしかないんだから。」(p386)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

※以下の内容には『百年の孤独』のネタばれが含まれます※

本書を読み終え、さて、どういう概念のまとまりとして飲み込もうかと考えまして、しかし判然とせず、まずはマコンド年表とでも言うべきものを書き始めてしまった。結局、起った出来事や生まれた人物、亡くなっていった人物がびっしりと羅列されてしまったものを眺め、何というか、そういうことを誘引するような作品だったと思った。

文芸の良さのいち側面として、何かと不都合を掘り下げていくような描写、教訓めいたような描写を探しがちになってしまうけど(私だけ?)、本書では改まってそこにページ数を割くようなことはしない。とにかく平易(だが時に奇妙)な事実が連ねられているのである。そして平易だがとても妥当性のある心の機微や人間の営為で全体が並立している。ありえそう過ぎて、半周回ってホラ吹き感が出てくる。すると一族の始まりであるホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの人間離れした能力や精神力と相まって、本書の構成員たちが神話であるという印象が増してくるみたいな気持になる。

不都合を掘り下げるより事実を詰め込んでいくという話の続きになるけど、ガルシア=マルケスの度量というか視野の広さは、真実を探求する者とその他色々な生活をする人たちをフラットに扱っているところなんじゃないかと思う。

 

だから大きく3つの推進力をもって、この事実で埋め尽くされた歴史書を見通してみようと思う。

・マコンド社会に参画する人たち

・ブエンディア家を切り盛りする人たち

・メルキアデスと対話する人たち

(そしてその他大勢の変わった人たち)

なおテキストからは脱線してしまうのですが、私見では、ガルシアマルケス自身は「社会に参画」するタイプの人物で、物語を学んだのは「家を切り盛りする人たち」からだったのではないかなと。妙にリアリティのあるものが急に挿入されると、ハッとなってそう思ったのでした。

 

マコンド社会に参画する人たち

マコンド村の社会は下記のように推移していく。

山越え→マコンド村誕生→ジプシー行商→不眠症(パンデミック)→アウレリャノ大佐の人民戦線→マコンド好景気→バナナプランテーション盛衰→5年間の雨→10年間の干ばつ→寂れた村落になっていた

ホセ・アルカディオ・ブエンディアやウルスラは序盤マコンド社会の中心人物であったが、早速その文脈からはフェードアウトしていく。そのはずだなぁと思うのは、元々別の社会に馴染めなかった者たちなのである。エクゾダスからの新天地にて神話を始めた者たちなのだ。

会うたびにホセ・アルカディオ・ブエンディアの正気にいっそう驚嘆させられた神父は、どういうわけで栗の木に縛り付けられているのか、と尋ねた。すると彼は答えた。

「それはきわめて簡単なことだ。わしの頭がおかしいからさ」(p107)

世情について最も貢献しているブエンディア家の人間は、アウレリャノ大佐とアウレリャノ・セグントであろう。当事者以外の人間からすれば、ブエンティア家の名声を維持してきたのはこの2人だということになるのだろう。

 

アウレリャノ大佐は、ある種の極北としての役割を持っていることは確実であろう。というのは、マコンドいちの有名人であるだけでなく、大佐は生活に同居する霊をキャンセルするからだ。

おまるの部屋、と呼ばれるようになった。アウレリャノ・ブエンディア大佐にとって、それはまさにぴったりの名前だった。家族のほかの者が、メルキアデスの部屋だけは塵も積もらないし傷みもしない、と言って驚いているのに、大佐はそこをごみ捨て場と見なしていたからだ。(p305)

大佐が最も予知能力の優れた特性の持ち主であったことと並立されているのもまた、私たちが普段第六感と総称するものごとの複雑な区分があることを指し示しているようだ。

 

そう考えると、もしかすると、小町娘レメディオスも霊やメルキアデスのきれいな部屋を見ることが出来なかったかもしれないなぁと考えてみたりもする。

彼に言わせると、小町娘のレメディオスはみんなの考えているような鈍い人間ではなくて、まったく逆の存在だった。「二十年も戦場で戦ってきた人間のようだ、この子は」と、大佐はよく言った。(p238)

小町娘レメディオスが何を考えていたのか、なぜ天に召されてしまった(物理的に!)のか、ということは本書の中でもとりわけ不明瞭にされている部分でもあるので、大佐の証言をもとにして考えてみるのも面白いだろう。例えば、死の匂い(p276)の発散もまたある種の社会性といってもいいように思える、とかそういう切り口。

 

大佐に戻ると、失明したウルスラが信念のパラダイムシフトを経験するシーンでも大佐への言及がある。

大佐が家族への愛情を失ったのは、以前はそう思っていたが、けっして激しい戦乱のためではない、大佐はいまだかつて人を愛したことがないのだ、<中略>戦いに倦んで目前の勝利を捨てたわけではなくて、ただひとつの理由、つまり業にも似た自尊心に駆られて勝敗をあらそっただけなのだと、ウルスラは想像した。(pp291~292)

これほど明瞭な批評を下しておきながら、ヒューマニズムの欠落した登場人物を蹂躙することのないバランスに見習うべき部分があるように感じる。

 

大佐が消えていくと、次の社会はアウレリャノ・セグントであった。彼の姿はマコンドの好景気と同一化した印象で描かれていく。

古い歌を精いっぱい大きな声でうたいながら、上から下まで、屋敷の内や外に一ペソの紙幣をぺたぺたと貼っていった。自動ピアノが持ちこまれたころから白く塗られていた古い屋敷は、回教寺院のような奇妙な姿になった。<中略>紙幣を貼りつくすと、余ったものを中庭へまきちらして、それからやっと口を開いて、こう言った。

「さてと。これで、ぼくの前でお金の話をする者はいないだろう!」(p232)

察するに、彼のおかげで本書を読了出来た人も多かったであろう。明るい人間は明るい描写をつくるものだ。

面白いのは、すべてのめでたい出来事と同じように、この途方もない幸運も実は偶然から生まれた。(p229)と、社会に漂う因果律を否定しきってしまう部分だと思う。

 

アウレリャノ・セグントにひもづいて、社会性に与する人間としてペトラ・コテスがある。

彼を一人前にしたのは彼女なのだ。<中略>とかくひとりで考え込んでいる彼を、正反対の性格の人間に、生きいきした、屈託のない、明けっぴろげな人間に仕立て上げた。(p243)

ピラル・テルネラも同様に。個人的には、こういう生物的に女性性が持っている武器を、ほんの時たまうらやましく思う時もある。隣の芝というやつである。自分に能力があるかと言うと、うーん、どうだろうか…

 

ブエンディア家を切り盛りする人たち

こちらは、

ウルスラの増築→アマランタがアウレリャノ・ホセの面倒をみる→サンタ・ソフィアが動物の飴細工を受け継ぐ→フェルナンダ治世→アマランタ・ウルスラの手入れ

と推移するようだ。

 

いうまでもなく、ウルスラが最重要人物であることに異論はないであろう。ところで、本書の前半で刷り込まれる印象だが、マコンド村とブエンティア家に境界をあまり感じないように思える。敷居がフラットな感じなんですね。

しかし、彼女は夫ほどうれしそうな様子は見せなかった。一時間ほど留守にしていただけだとでもいうように、ふだんのキスをして言った。

「ちょっと外をのぞいてみてよ」

<中略>

彼らがやって来たのは、毎月のように郵便物が届けられ、いろいろと便利な機械が知られている、徒歩で二日がかりの低地の向こうの土地からだった。(p052)

ウルスラは母であるだけでなく、マコンド神話の母でもあったから。

しかし、社会性の中ではミクロな存在である愛情については上手く若者たちに浸透していかなかった。

ずいぶん苦労をし、飴細工の動物を売って支えてきたこのお化け屋敷の運命は、堕落のごみ捨て場になり下がることだろうか。<中略>ウルスラは、いっそこのまま墓に入って土をかぶった方がよくはないか、と自分に問いかけ(p294)

その原因には思い当たらなかったということのようなのだが…

 

それに引きかえ、アマランタはたくさんの人たちに愛情の形を伝えて生きたのではないか。アウレリャノ・ホセ、ピエトロ・クレスピ、ヘリネルド、そしてたとえば法王見習いのホセ・アルカディオ。

夜遅く戻ってくると、猫のような息づかいで、アマランタを思いながら悩ましげに歩き回った。彼がこの屋敷について持っている思い出は、彼女と、明るい灯に照らされた聖者像の恐ろしげな視線のふたつだけだった。<中略>「悪いことをすれば」と、ウルスラはよく言った。「聖人様たちが、ちゃんと教えてくださるんだよ」(pp420~421)

 

フェルナンダだけが家族に対してあからさまに冷酷な人間扱いをされているわけだが、これは冒頭のウルスラとは全く反対の意見として描かれる。

朝起きてから夜寝るまで、いっぱいに開け放たれていた屋敷の戸や窓は、寝室が暑くなりすぎるという口実で昼寝のさいに閉められ、最後には、開いていることがなくなった。(p252)

フェルナンダの愛の欠如は、ウルスラとは違うパターンのものとして扱われている印象がある。ブエンディア家の歴史は、上手い具合に、愛の欠如から愛の欠如へスイッチしたように見える。

その流れでいうと深追いしないが、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエタは愛情のある人間だったと思うが、むしろ愛される必要があった薄幸の人間であったといえる。(サンタ・ソフィアに優しくする人間は皆社会的地位の低い者で、それもまた妙なリアリティを感じさせる)

そして

この百年、愛によって生を授かった者はこれが初めてなので、これこそ、あらためて家系を創始し、忌むべき悪徳と宿命的な孤独をはらう運命をになった子のように思われた。(p467)

ま、初めてというのはちょっと乱暴だと思うけど。

 

ルキアデスと対話する人たち

突然だが、本書を一言で言うなら

ホセ・アルカディオ・ブエンディアが開拓し、メルキアデスの羊皮紙で予言された蜃気楼の村マコンドが、予言の完全解読と共に反復の可能性なく消滅する話

ということになるが、これはほとんど本文引用のレベルで自明のことだ、ということが分かった所で終了する。

この、他の事象と完全並立した文学的蓄積については、下記のように推移していく。

マコンド建立→メルキアデスがシンガポールで死亡→レベーカ由来の不眠症に覆われる→死者メルキアデスの処方でマコンド再稼働→メルキアデスがマコンドで死亡→ホセ・アルカディオ・ブエンディアが毎日が月曜だと気付く→ホセ・アルカディオ・セグントが羊皮紙解読をはじめる→(亡霊メルキアデスの力も借りつつ)アウレリャノ少年が完全解読

本書を神話たらしめている要因はここまででも挙げてきたが、もうひとつ、メルキアデスの羊皮紙という予言書(物語)にマッピング可能という説明もその要因である。

 

ただし、不思議なのは、この神話と予言書が在りうべき仕方であるわけではないという所に独創性がある。神が先に作り給うたマコンドの地に後追いで予言が行われたからである。その終わり方も含めて、メビウスの輪のようにねじれた入れ子状になっているわけだ。

さながら、無限に続く同じような部屋を移動する空想を楽しむホセ・アルカディオ・ブエンディアの描写(p171)のようだ。

過去についてはどうだろうか。

アウレリャノも、用紙に書きこむのを手伝わされた。<中略>過去は無限に自己抹殺をはかり、内部から消耗しつづけて瞬間ごとに細りながらも、決して尽きるということがなかった(p458)

主観についての言及だろうか。

 

これはやはり死を解体していくしか寄る辺ないように思われる。

この世界では死ぬことが文字通りの意味でDEAD ENDにはならない。メルキアデスの例でいうなら、彼は2度死んだ上で、2段階の霊魂として現れる。一応生者として扱われるマコンド時代、予言書を書き上げたと思しき頃に「わしはついに、不死の命を手に入れた」(p093)。

ところがマコンドで死んでから数十年後、アウレリャノ少年に話すことには、究極の死の牧場に心静かに赴くことができそうだ、羊皮紙が百年めを迎えて解読されるまでの年月に、アウレリャノにサンスクリット語を覚えてもらえそうだから、と言った。(p408)

あんた、穏やかな死の世界に興味があったのか、と思わせられたけど。

 

普通に考えると、レベーカがマコンドに死の伝染病=不眠症をもたらしたことに起因して、マコンドごと全員死亡したと考えられるだろう。更に、同じく一度死んだ者であるメルキアデスによって、全員が死の世界で自由に生きられるように(?)した。この状態を留めておくために羊皮紙への書きつけ(つまり記号化)が必要だった、と整理したくなる。

が、

フランシス・ドレイクがリオアチャを襲撃したのは、結局いりくんだ血筋の迷路のなかでふたりがたがいを探りあて、家系を絶やす運命をになう怪物を産むためだったと悟った。(p472)

とあるので保留せざるを得ないか。フランシス・ドレイクまで予言が過去を遡って効力を産むと考えるには枚挙にいとまがなさすぎる。

 

ともかく、聡明(?)なホセ・アルカディオ・ブエンディアは一段階目の死者であるプルデンシオとの再開をきっかけにこの世界が本質的に静止していることに気づく(p099)。将来ブエンディア家の血筋が消滅する予言は生理的に受け入れられなかった(p071)が、自分と同質である霊に何かを気付かされたようにも読める。

「メルキアデスの部屋」というのもそのような役割を果たしている。

時間もまた事故で何かに当たって砕け、部屋のなかに永遠に破片を残していくことがあるという(p400)

「おまるの部屋」というのを文字通りおまるの部屋と思っていたのは大佐だけとあったが、

こっちを向いているくせに自分の姿が見えていないことに、ホセ・アルカディオ・セグントも気づいた。兵隊たちに言っていることを聞いてアウレリャノ・セグントは、この若い軍人の目はアウレリャノ・ブエンディア大佐の目と同じ節穴であることを知った。(p360)

どのような人がメルキアデスの時が止まった部屋=死の世界を感知出来るかというバロメーターになっている。

 

なのでこの解釈では、大佐だけが死の村から生の世界へ死にに行ったという風に読みかえることになるが、それはとても皮肉なことだ。

栗の木のかげに立ち止まったが、こんどもまた、その空虚な場所に少しの愛着も感じないことを知った。

「何か言ってますか?」と大佐は聞いた。

「とても悲しんでいるわ」とウルスラがそれに答えた。「あんたが死ぬと思ってるのよ」

「伝えてください」と、微笑しながら大佐は言った。「人間は、死すべきときに死なず、ただ、その時機が来たらしぬんだとね」(p285)

ホセ・アルカディオ・セグントは、アウレリャノ・ブエンディア大佐は道化か阿呆か、そのどちらかでしかなかったという結論に達した。戦争がどういうものかを説明するのに、なぜあれほどの言葉をついやす必要があったのか、理解に苦しんだ。恐怖、この一語で足りるはずだった。(p360)

 

ホセ・アルカディオ・セグントは、どうしようもない不安に苛まれた、典型的なブエンティア家の人であった。これは即ち、孤独を運命づけられた(p472)人であったということである。

大佐は孤独ではなかったのかというと、孤独ではあり、ただ、執念を持ち合わせていた。

本書の世界観が、生と死をフラットにし、死について乾いた様相を見せるのは、死と同価値のものが生者にとっての共通認識になっているからかもしれない。

彼らの声をまざまざと聞き、激しい執念は死よりも強いことを知った。現在、昆虫たちが人間から奪おうとしている惨めな楽園であるが、未来の別の種類の動物がそれを昆虫たちから奪ったそのあとも、亡霊となって愛し続けるのだと確信することで、ふたりは幸福感を取り戻すことができた。(p466)

希望とは、マコンド村にあっても現世利益ではなかったということのように読めばいいのだろうか。