モロイ(サミュエル・ベケット著 白水社 1995)

私は彼女を理解するより、おうむのほうをよく理解したということだ。おうむは、ときどき、この売女の、助平の、糞たれの、たれ流しと言っていた。<中略>ラウスは、かわいいポリーちゃんと言わせようとこころみていたが、どうやら手遅れだったと思う。おうむは首をかしげて考えていてから、言った、この売女の助平の糞たれのたれ流し。おうむが努力しているのはよくわかった。(p052)

モロイ

モロイ

 

※以下の内容には『モロイ』のネタばれが含まれます※

読み始めてすぐに文学というものの解体が行われることが分かるが、そこが素晴らしいというわけではない。こんな小説なのに感動的だということに名状しがたい素晴らしさを覚えるのだ。

そして感想のまとめを書こうとするじゃないですか。ところが、まとめるとは何だろう…?その結果私の心はしばらく冬眠することとなったのです。その間日々に忙殺される中で、ここのところやっと発酵してきたように思われるのです。

 

これほど出来事を追う事の意味を成さない小説というものも珍しいでしょう。ひとことで本書の進行を説明するならば、

第一部モロイ編:モロイの回想録。母の家に向かって町を徘徊する最後の周回について。

第二部モラン編:モランの回想録。モロイを探す任務を受けたモランが、息子と共に旅をする。バリーの目と鼻の先まで来たがモロイに会えず帰還命令を受け、家に帰宅するまで。

まずこの大きなプロットのなかに因果関係というか意味を見出すことは難しいだろう。というより、回想者(主人公?)のありとあらゆる同一性をわざわざ崩しにかかったり、興ざめな忘却の茶々を挿入してくる。

 

第一に、正直ゆえに信用できない語り手となってしまっているのである。

この文章は精神錯乱ぎみだ、しかしかまわない。私にはもう、自分がなにをしているのか、なんのためにそうしているのかよくわからない。<中略>それに、だれに隠すのか、あなたがたに?なに一つ隠せないあなたがたに?(pp064~065)

今書いたような動きを松葉杖の助けなしにしたのを妙だと思うかもしれない。私も妙だと思う。だが、目がさめたばかりのときは、自分がだれだかすぐには思い出さないものだ。(p053)

読者のお楽しみ(?)であるところの殺人ミステリも入ってくるのだが、こんな具合なので殺され損と言われても仕方ないだろう。奥行きの無いミステリ=意味の消失がダメだしのように描かれる頃には既に我々はモロイのペースに持っていかれた後である。

 

 

では、モロイやモランにとって大事な物は何だっただろう?

モロイは母に会いに行くこと、モランは市民的生活の矜持・モロイに会いに行くという仕事の遂行だろう。実際に、泥沼のストーリー展開の中、ギリギリこの行動原理で保たれていると言っていいだろう。

 

しかし、ここでもまた行動原理の理由はただの相対的な問題にされてしまう。

その理由?それは忘れてしまっていた。<中略>もう一度その理由にお目にかかれるだけで、私はそこに、母の家に、必然性という名の鶏の羽根に乗って、飛んでいっただろう。そう、なぜかということがわかった瞬間から、なにもかもやさしくなるものだ。たんなる魔術の問題だ。どんな聖者に身を捧げるかを知ること<中略>むしろ、魔法の呪文がないらしいのは全体に対してである。どうやら、死後にでもならないと全体などというものはないのかもしれない。(p036)

それにしても、私たちが何かをする理由に「どんな聖者に身を捧げるか」以上の妥当性ってあるかしらと思う。たとえばモランが徐々にモロイ化していくわけだが、はじめに持っていた矜持ある生活において敬虔なキリスト教徒の描写が非常にアイロニカルな苦さを与えてくる。教育パパなところも。

 

ストーリーは展開しないが、二人にとっての大事な物は明滅する。ここを軸として追ってみることはできるだろう。

<モロイ>

丘でAとBが出会うのを眺める

→母に会いに行くことを思い立つ

→警察の職務質問とラウスの犬との交通事故で中断

→ラウスの家で過ごす(母の重要度は低くなる)

→ラウスの家を出るが、今度は母よりも町を離れてみたい欲求が生じる

→森の中で母への欲求が復活する

→森をぬけるend

<モラン>

日曜日、ミサの時間まで庭にいると…

→ゲイバーから任務の指示

→家政婦や息子への適切なふるまいに精力を出す

→夜(信じられないことに)任務出発の準備

→夜中息子と一緒に出発

→隠れ家にて膝の痛みが起こり、人間性の変化が始まる

→自転車を買った息子とバリバにたどり着く

→息子とケンカ別れてその場にとどまる(モロイという任務は不明瞭になってくる)

→ゲイバーの急な帰還命令(仕事の消化不良から来ると思われる抵抗反応)

→帰途に秋冬かかる(声は聞こえ始めるが無視した)

→家につく(「声」に従っていくだろう)end

二人ともままならないもので、大事にしていたことに対する障害が現れる。そこはモランの方が比較的明瞭である。モランは膝のケガと帰還命令のダブルパンチで人生変わってしまった感じになるのである。息子はそのおまけのようなものに見える。

ああした経験をしなかったら、逆のことを、それも頑固に主張しただろう。だがそうなのだ、立ってもすわっても楽でないとなると、まるで母親の膝の上の子供のように、さまざまな寝姿をやってみることへと逃避する。いまだかつてなかったようないろいろな姿勢を探求し、そこに思いもかけなかった快楽を発見する。(p213)

 

モロイのほうはどうだろう。これがわかりにくい。なぜかといえば、回想録の効果が強く出てしまっており、小説が終わったところからの観測、つまり最後の一つ前(p007)の状態の不明瞭さが出てしまっている。(そしてこの御仁が小説というものをぶっ壊しているわけだが…)

結論を急ぐとモロイの障害は、他者の介入と自身の集中力に邪魔されている事だと言ってよいだろう。モロイ自らキレネのシモンを引き合いに出しているように、モロイの道程はどこか受難めいたムードで進行していく。

ただモロイの場合は、親切にしてくれた炭焼き職人を攻撃してしまったりするだけのことだ。

 

ところでモロイは、近似の言葉でいうなれば神経質みたいな感じである。だから簡単なことをするにしても他人どころか自分自身にも邪魔されてしまう。

ものを聞かれると、それがなにかわかるまでに時間がかかる。そして私のいけなのは、今聞いたことを、使い古してはいても耳はかなりいいので、完全に聞こえたのだが、それを静かに考えるかわりに、大あわてで、なんでもかまわず返事してしまうことだ。たぶん、私の沈黙が話相手の怒りを最大限にしてしまうのがこわいのだろう。(p028)

これは警察署での引用だが、ひとつ重要な見解を提示しているのではないだろうか。

 

すなわち、 

他者・世界とのコミュニケーション不全と、自分の肉体の精密な記述が、肉体が最も普遍的である世界を切り出している。と。

 

「肉体の精密な記述」には、ミクロすぎるゆえにアイデンティティは入る隙間が無いように思われる。ついでに言うならば、アイデンティティには2つの要素があるのではないだろうか。

1:ラベリング=自分の所属などの整理。これは社会性不全と社会に関するモロイ自身の推論能力の低さによって消去されている。

2:時間的同一性。こちらも同じく消去されるわけだが、更に新たな示唆を見出すことができるみたいだ。というのは、時間の積み立てを消去しているということだから。

ひいては、『モロイ』のストーリー性の消去でもある。『モロイ』という小説に、ウチでは、ストーリー(=時間)の蓄積によって物事(=欲望)は解決しないから期待しないでと言われているような。

そのかわりにモロイCPUは口寂しいときに吸う石ころについての演算で暇がないというわけだ。

 

「他者・世界とのコミュニケーション不全」について。

例えばモロイは初めから母に会いに行く行為をして「ひとりっ子の遊び(p018)」と言っている。母に会いに行く理由なんかごまんと記述できるだろうに、正直者モロイが出てしまう。世の中ではなく私が考えている時にやっと命題の判断ができるということだろうか。 というのもハーリンクス(p073)というのがデカルト研究者らしいという補助線もあったので。しかし、本書に限ってはこの補助線は妥当ではないかもしれない。まさに「私が考える」ということは、何かの世界観に根拠づけを求めないということだし、頼るべき世界観がなくても生きるということなのだろうから。既出の「どんな聖者に身を捧げるか(p036)」というやつである。

別の角度からこういうこともできる(そしてモランに即しているようでもある)。社会的使命のヒエラルキーを登っていくと、ある地点から抽象的な命題を置かざるをえなくなる。平和とか誰かの幸せとか。抽象性を持った使命のために生きることと、私に内在する抽象性のために生きることの違いは限り小さくなっていき、最後に残るのはコミュニケーションの内側の評価だけになっていく。

 

では使命が自分の問題になっていき、コミュニケーションが必要なくなるならば、何のために言語化されなくてはならなかったのか?現にモロイもモランも回想をしてしまっているではないか。

もともと私の柄ではないこのあわれな書記ちう仕事に甘んじているのは、人が信じるような理由からではない。たしかに、命令にまだ従っていると言ってもよい。(中略)私の聞く声は、ゲイバーにそれを伝えてもらうまでもない。なぜなら、その声は私のうちにあって、自分のものでない利益のために、昔からそうであったように最後まで忠実な召使いであることを勧めるのだ。(p200)

「声」というのがここへきて出てくる。モロイもモランも、全ての社会性や因果関係をとっぱらっても、声の絶対性には従うということになってくる。声については、かつて私が他人に望んだように、しんぼう強く(p200)役割を果たすよう、など色々特徴が出てくるが重要なことではなさそうだ。

 

声についてもう少し話を進めよう。

だがそれは、ほかの音のように聞きたいときに聞けて、遠ざかるか、耳をふさげばいつでも黙らせられるような音ではない。それは、どんなふうにか、なぜかもわからないまま、頭のなかでざわめきだす音なのだ。それは頭で聞く音で、耳は何の関係もない。(p056)

世界とのコミュニケーションをやめて自分の肉体を主観とするとき、声が聞こえ始めると読むことも出来そうだが、あくまでその辺りは曖昧である。手順や作法の問題ではないだろうと考えられるからだ。

 

聞こえる、平衡を失い、凝固した世界、弱々しく静かなだけの、おわかりだろうか、それもまた凝固した、だが見るには十分な光の下の世界について語る自分の声が。(中略)外見とは違い、終わった世界だ、それの終わりが出現させた世界だ。それは終わりながらはじまったのだ。(p056)

「それ」とは学問も捨てて最後に残った魔術から神秘が失われた(よって魔術からも捨てられた)場所とのことである。

コミュニケーション不全なのに言語化するのは「声」のためであって、「声」はコミュニケーション外との交信である。

単純に「声」をメタ的なN次元の先の者とすることも出来そうなのだが、私見では意外と、世界内の隣人ではないが、離れてコミュニケーションが出来ない程度の世界外の第三者(2人称と3人称の関係か?)でもいいんじゃないかと思った。

 

モロイの1人称についての下記の記述をみてそう思ったのである。

私は、自分がだれかということばかりではなく、自分がいるということも忘れることがあった、存在の忘却だ。(中略)だがそんなことは、そうしじゅうは起こらず、たいてい、私は、季節も庭も知らない自分の箱のなかにおさまっていた。そのほうがよかった。だが、なかにいても、注意は怠れない、自問自答しなければならない、たとえば、相変わらずまだいるのか、(中略)好んでではなく、分別からだ、相変わらずそこにいると信じ込むためにだ。だが、相変わらずそこにいるなんていうことは、なんの足しにもならなかった。私はそれを反省と呼んでいた。私はほとんど絶え間なしに反省していた、やめる勇気がなかった。私が潔白なのはそのおかげかもしれない。(pp070-071)

 

自分自身の箱の外で世界と一体にならないでいる理由を日々探し続けるということ。

自分の箱には文化や市民的生活、常識が含まれている。このあたりまでは上級浮浪者のモロイは切り離し済みかもしれない。しかし更に、そんなモロイにでさえ気づかない箱、つまり所持品や因果関係、雨をしのぐ家など、そして最後には私という存在自体…。これらが常に内包されているということを点検しつづけなくては箱の外の世界に戻れなくなってしまうと読んでみていいのではないか。

 

一度比較のためにもモランの変化について引用しておこう。本文中で最も難解な個所の一つと言っても良いように思われる個所だと思う。

ある分解、私が昔からそうなる判決を受けている、そのことからずっと守り続けてくれていたものの怒り狂った崩壊とでもいったものに似ていた。それとも、一度は知りながら否定してしまったなんとも言いようのない光と顔に向かってのしだいに早さを増す一種の穴掘りのようだった。(中略)そして、それ以上、それを見きわめようとしなかったという事実が、さらに、私がどれほど変わり、自分自身をしっかりつかんでいることにどれほど無関心になっていいたかということのしるしになっていた。(pp225-226)

 

当然、モランはモロイよりも自分の箱を固めにかかっていたはずであるが、周りを固めていたその有機性というか外部との輪郭線のようなものに外部からの非難を感じたのだろうか。少なからずいろんな意味でフォーカスが甘くなっていることが示されている。明言できるのはそれだけである。

なお、この日モランはなんとなく私の顔に似てい(p229)る男の話し声が遠くから聞こえてくるように思えた(pp229-230)という体験をしている。自分の箱の写し鏡を世界から見せられているような話だ。

 

話を戻してモロイが具体的に聞いた声を挙げたい。

ひとつ目は、それこそN次元から聞こえた声ではない。ビー玉を拾ってあげた男の子の「かなりありがとう(p071)」である。そしてそれと同じくらい明瞭に聞こえたのが、

自分の声が聞こえた、気をもむにはあたらない、だれか助けに来るさ(p125)

自分が自分の箱から外れて世界の声となり、こだまのブーメランが、純粋な自然の音となって、箱の外の自分に直接響くとき煩わしい悟性のバイパスを介さずに直に聞くことができるのかもしれない。

ついでに言うならモランの例もそのようではなかったか。

 

そこで一つ思い当たることがある。世界と一体とか、世界の声とかって、どこかでスルーしたような…

さてもう一度引用すると、「どんな聖者に身を捧げるか(p036)」にあった、

むしろ、魔法の呪文がないらしいのは全体に対してである。どうやら、死後にでもならないと全体などというものはないのかもしれない。(p036)

これのようではないだろうか。

声の在り処はN次元というより私が部分であるところの全体ではないだろうか。さらに死後というのが回想録を書いてる私ともダブってくるというところである(あるいはこれは興ざめな蛇足かもしれないが)。

 

 

こうした「他者・世界とのコミュニケーション不全」と「自分の肉体の精密な記述」を無視出来なくなったとき、

言い換えるならあらゆる文化性を取り払っても、というか取り払うことではじめて「肉体が最も普遍的である世界」が現れる。すなわち、私たち自身がそれ以上遡って理由を言及できない対象となりうる。ここにまず大きな救いを感じることとなる。オシャレな喫茶店もスマートな職場も素因数分解された要素に私の肉体は入りようがないから。

 

そしてさらに、自分の声が外から聞こえてくるような地平にあるとき、結果として潔白であるような、無理のない根拠に対して自分が開いているような気持になることができるだろう。これもまた逆に、文化や社会から切り取った要素から作り出すことはできない。能動的な働きであるがゆえに、救いもありそうな気がする。

 

色々習うことだろう。

楽しいひとときだろう。

百年の孤独(ガルシア=マルケス著 新潮社 2006)

「戸や窓を開けるのよ。さあ、肉や魚を料理して。亀を買うんだったら大きいのをね。よそ者をどんどん呼んで、隅のござで寝たり、薔薇の木に小便をしたり、そこらを泥靴で汚したり、好きなようにしてもらったらいい。屋敷が荒れるのを防ぐ手は、これしかないんだから。」(p386)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

※以下の内容には『百年の孤独』のネタばれが含まれます※

本書を読み終え、さて、どういう概念のまとまりとして飲み込もうかと考えまして、しかし判然とせず、まずはマコンド年表とでも言うべきものを書き始めてしまった。結局、起った出来事や生まれた人物、亡くなっていった人物がびっしりと羅列されてしまったものを眺め、何というか、そういうことを誘引するような作品だったと思った。

文芸の良さのいち側面として、何かと不都合を掘り下げていくような描写、教訓めいたような描写を探しがちになってしまうけど(私だけ?)、本書では改まってそこにページ数を割くようなことはしない。とにかく平易(だが時に奇妙)な事実が連ねられているのである。そして平易だがとても妥当性のある心の機微や人間の営為で全体が並立している。ありえそう過ぎて、半周回ってホラ吹き感が出てくる。すると一族の始まりであるホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの人間離れした能力や精神力と相まって、本書の構成員たちが神話であるという印象が増してくるみたいな気持になる。

不都合を掘り下げるより事実を詰め込んでいくという話の続きになるけど、ガルシア=マルケスの度量というか視野の広さは、真実を探求する者とその他色々な生活をする人たちをフラットに扱っているところなんじゃないかと思う。

 

だから大きく3つの推進力をもって、この事実で埋め尽くされた歴史書を見通してみようと思う。

・マコンド社会に参画する人たち

・ブエンディア家を切り盛りする人たち

・メルキアデスと対話する人たち

(そしてその他大勢の変わった人たち)

なおテキストからは脱線してしまうのですが、私見では、ガルシアマルケス自身は「社会に参画」するタイプの人物で、物語を学んだのは「家を切り盛りする人たち」からだったのではないかなと。妙にリアリティのあるものが急に挿入されると、ハッとなってそう思ったのでした。

 

マコンド社会に参画する人たち

マコンド村の社会は下記のように推移していく。

山越え→マコンド村誕生→ジプシー行商→不眠症(パンデミック)→アウレリャノ大佐の人民戦線→マコンド好景気→バナナプランテーション盛衰→5年間の雨→10年間の干ばつ→寂れた村落になっていた

ホセ・アルカディオ・ブエンディアやウルスラは序盤マコンド社会の中心人物であったが、早速その文脈からはフェードアウトしていく。そのはずだなぁと思うのは、元々別の社会に馴染めなかった者たちなのである。エクゾダスからの新天地にて神話を始めた者たちなのだ。

会うたびにホセ・アルカディオ・ブエンディアの正気にいっそう驚嘆させられた神父は、どういうわけで栗の木に縛り付けられているのか、と尋ねた。すると彼は答えた。

「それはきわめて簡単なことだ。わしの頭がおかしいからさ」(p107)

世情について最も貢献しているブエンディア家の人間は、アウレリャノ大佐とアウレリャノ・セグントであろう。当事者以外の人間からすれば、ブエンティア家の名声を維持してきたのはこの2人だということになるのだろう。

 

アウレリャノ大佐は、ある種の極北としての役割を持っていることは確実であろう。というのは、マコンドいちの有名人であるだけでなく、大佐は生活に同居する霊をキャンセルするからだ。

おまるの部屋、と呼ばれるようになった。アウレリャノ・ブエンディア大佐にとって、それはまさにぴったりの名前だった。家族のほかの者が、メルキアデスの部屋だけは塵も積もらないし傷みもしない、と言って驚いているのに、大佐はそこをごみ捨て場と見なしていたからだ。(p305)

大佐が最も予知能力の優れた特性の持ち主であったことと並立されているのもまた、私たちが普段第六感と総称するものごとの複雑な区分があることを指し示しているようだ。

 

そう考えると、もしかすると、小町娘レメディオスも霊やメルキアデスのきれいな部屋を見ることが出来なかったかもしれないなぁと考えてみたりもする。

彼に言わせると、小町娘のレメディオスはみんなの考えているような鈍い人間ではなくて、まったく逆の存在だった。「二十年も戦場で戦ってきた人間のようだ、この子は」と、大佐はよく言った。(p238)

小町娘レメディオスが何を考えていたのか、なぜ天に召されてしまった(物理的に!)のか、ということは本書の中でもとりわけ不明瞭にされている部分でもあるので、大佐の証言をもとにして考えてみるのも面白いだろう。例えば、死の匂い(p276)の発散もまたある種の社会性といってもいいように思える、とかそういう切り口。

 

大佐に戻ると、失明したウルスラが信念のパラダイムシフトを経験するシーンでも大佐への言及がある。

大佐が家族への愛情を失ったのは、以前はそう思っていたが、けっして激しい戦乱のためではない、大佐はいまだかつて人を愛したことがないのだ、<中略>戦いに倦んで目前の勝利を捨てたわけではなくて、ただひとつの理由、つまり業にも似た自尊心に駆られて勝敗をあらそっただけなのだと、ウルスラは想像した。(pp291~292)

これほど明瞭な批評を下しておきながら、ヒューマニズムの欠落した登場人物を蹂躙することのないバランスに見習うべき部分があるように感じる。

 

大佐が消えていくと、次の社会はアウレリャノ・セグントであった。彼の姿はマコンドの好景気と同一化した印象で描かれていく。

古い歌を精いっぱい大きな声でうたいながら、上から下まで、屋敷の内や外に一ペソの紙幣をぺたぺたと貼っていった。自動ピアノが持ちこまれたころから白く塗られていた古い屋敷は、回教寺院のような奇妙な姿になった。<中略>紙幣を貼りつくすと、余ったものを中庭へまきちらして、それからやっと口を開いて、こう言った。

「さてと。これで、ぼくの前でお金の話をする者はいないだろう!」(p232)

察するに、彼のおかげで本書を読了出来た人も多かったであろう。明るい人間は明るい描写をつくるものだ。

面白いのは、すべてのめでたい出来事と同じように、この途方もない幸運も実は偶然から生まれた。(p229)と、社会に漂う因果律を否定しきってしまう部分だと思う。

 

アウレリャノ・セグントにひもづいて、社会性に与する人間としてペトラ・コテスがある。

彼を一人前にしたのは彼女なのだ。<中略>とかくひとりで考え込んでいる彼を、正反対の性格の人間に、生きいきした、屈託のない、明けっぴろげな人間に仕立て上げた。(p243)

ピラル・テルネラも同様に。個人的には、こういう生物的に女性性が持っている武器を、ほんの時たまうらやましく思う時もある。隣の芝というやつである。自分に能力があるかと言うと、うーん、どうだろうか…

 

ブエンディア家を切り盛りする人たち

こちらは、

ウルスラの増築→アマランタがアウレリャノ・ホセの面倒をみる→サンタ・ソフィアが動物の飴細工を受け継ぐ→フェルナンダ治世→アマランタ・ウルスラの手入れ

と推移するようだ。

 

いうまでもなく、ウルスラが最重要人物であることに異論はないであろう。ところで、本書の前半で刷り込まれる印象だが、マコンド村とブエンティア家に境界をあまり感じないように思える。敷居がフラットな感じなんですね。

しかし、彼女は夫ほどうれしそうな様子は見せなかった。一時間ほど留守にしていただけだとでもいうように、ふだんのキスをして言った。

「ちょっと外をのぞいてみてよ」

<中略>

彼らがやって来たのは、毎月のように郵便物が届けられ、いろいろと便利な機械が知られている、徒歩で二日がかりの低地の向こうの土地からだった。(p052)

ウルスラは母であるだけでなく、マコンド神話の母でもあったから。

しかし、社会性の中ではミクロな存在である愛情については上手く若者たちに浸透していかなかった。

ずいぶん苦労をし、飴細工の動物を売って支えてきたこのお化け屋敷の運命は、堕落のごみ捨て場になり下がることだろうか。<中略>ウルスラは、いっそこのまま墓に入って土をかぶった方がよくはないか、と自分に問いかけ(p294)

その原因には思い当たらなかったということのようなのだが…

 

それに引きかえ、アマランタはたくさんの人たちに愛情の形を伝えて生きたのではないか。アウレリャノ・ホセ、ピエトロ・クレスピ、ヘリネルド、そしてたとえば法王見習いのホセ・アルカディオ。

夜遅く戻ってくると、猫のような息づかいで、アマランタを思いながら悩ましげに歩き回った。彼がこの屋敷について持っている思い出は、彼女と、明るい灯に照らされた聖者像の恐ろしげな視線のふたつだけだった。<中略>「悪いことをすれば」と、ウルスラはよく言った。「聖人様たちが、ちゃんと教えてくださるんだよ」(pp420~421)

 

フェルナンダだけが家族に対してあからさまに冷酷な人間扱いをされているわけだが、これは冒頭のウルスラとは全く反対の意見として描かれる。

朝起きてから夜寝るまで、いっぱいに開け放たれていた屋敷の戸や窓は、寝室が暑くなりすぎるという口実で昼寝のさいに閉められ、最後には、開いていることがなくなった。(p252)

フェルナンダの愛の欠如は、ウルスラとは違うパターンのものとして扱われている印象がある。ブエンディア家の歴史は、上手い具合に、愛の欠如から愛の欠如へスイッチしたように見える。

その流れでいうと深追いしないが、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエタは愛情のある人間だったと思うが、むしろ愛される必要があった薄幸の人間であったといえる。(サンタ・ソフィアに優しくする人間は皆社会的地位の低い者で、それもまた妙なリアリティを感じさせる)

そして

この百年、愛によって生を授かった者はこれが初めてなので、これこそ、あらためて家系を創始し、忌むべき悪徳と宿命的な孤独をはらう運命をになった子のように思われた。(p467)

ま、初めてというのはちょっと乱暴だと思うけど。

 

ルキアデスと対話する人たち

突然だが、本書を一言で言うなら

ホセ・アルカディオ・ブエンディアが開拓し、メルキアデスの羊皮紙で予言された蜃気楼の村マコンドが、予言の完全解読と共に反復の可能性なく消滅する話

ということになるが、これはほとんど本文引用のレベルで自明のことだ、ということが分かった所で終了する。

この、他の事象と完全並立した文学的蓄積については、下記のように推移していく。

マコンド建立→メルキアデスがシンガポールで死亡→レベーカ由来の不眠症に覆われる→死者メルキアデスの処方でマコンド再稼働→メルキアデスがマコンドで死亡→ホセ・アルカディオ・ブエンディアが毎日が月曜だと気付く→ホセ・アルカディオ・セグントが羊皮紙解読をはじめる→(亡霊メルキアデスの力も借りつつ)アウレリャノ少年が完全解読

本書を神話たらしめている要因はここまででも挙げてきたが、もうひとつ、メルキアデスの羊皮紙という予言書(物語)にマッピング可能という説明もその要因である。

 

ただし、不思議なのは、この神話と予言書が在りうべき仕方であるわけではないという所に独創性がある。神が先に作り給うたマコンドの地に後追いで予言が行われたからである。その終わり方も含めて、メビウスの輪のようにねじれた入れ子状になっているわけだ。

さながら、無限に続く同じような部屋を移動する空想を楽しむホセ・アルカディオ・ブエンディアの描写(p171)のようだ。

過去についてはどうだろうか。

アウレリャノも、用紙に書きこむのを手伝わされた。<中略>過去は無限に自己抹殺をはかり、内部から消耗しつづけて瞬間ごとに細りながらも、決して尽きるということがなかった(p458)

主観についての言及だろうか。

 

これはやはり死を解体していくしか寄る辺ないように思われる。

この世界では死ぬことが文字通りの意味でDEAD ENDにはならない。メルキアデスの例でいうなら、彼は2度死んだ上で、2段階の霊魂として現れる。一応生者として扱われるマコンド時代、予言書を書き上げたと思しき頃に「わしはついに、不死の命を手に入れた」(p093)。

ところがマコンドで死んでから数十年後、アウレリャノ少年に話すことには、究極の死の牧場に心静かに赴くことができそうだ、羊皮紙が百年めを迎えて解読されるまでの年月に、アウレリャノにサンスクリット語を覚えてもらえそうだから、と言った。(p408)

あんた、穏やかな死の世界に興味があったのか、と思わせられたけど。

 

普通に考えると、レベーカがマコンドに死の伝染病=不眠症をもたらしたことに起因して、マコンドごと全員死亡したと考えられるだろう。更に、同じく一度死んだ者であるメルキアデスによって、全員が死の世界で自由に生きられるように(?)した。この状態を留めておくために羊皮紙への書きつけ(つまり記号化)が必要だった、と整理したくなる。

が、

フランシス・ドレイクがリオアチャを襲撃したのは、結局いりくんだ血筋の迷路のなかでふたりがたがいを探りあて、家系を絶やす運命をになう怪物を産むためだったと悟った。(p472)

とあるので保留せざるを得ないか。フランシス・ドレイクまで予言が過去を遡って効力を産むと考えるには枚挙にいとまがなさすぎる。

 

ともかく、聡明(?)なホセ・アルカディオ・ブエンディアは一段階目の死者であるプルデンシオとの再開をきっかけにこの世界が本質的に静止していることに気づく(p099)。将来ブエンディア家の血筋が消滅する予言は生理的に受け入れられなかった(p071)が、自分と同質である霊に何かを気付かされたようにも読める。

「メルキアデスの部屋」というのもそのような役割を果たしている。

時間もまた事故で何かに当たって砕け、部屋のなかに永遠に破片を残していくことがあるという(p400)

「おまるの部屋」というのを文字通りおまるの部屋と思っていたのは大佐だけとあったが、

こっちを向いているくせに自分の姿が見えていないことに、ホセ・アルカディオ・セグントも気づいた。兵隊たちに言っていることを聞いてアウレリャノ・セグントは、この若い軍人の目はアウレリャノ・ブエンディア大佐の目と同じ節穴であることを知った。(p360)

どのような人がメルキアデスの時が止まった部屋=死の世界を感知出来るかというバロメーターになっている。

 

なのでこの解釈では、大佐だけが死の村から生の世界へ死にに行ったという風に読みかえることになるが、それはとても皮肉なことだ。

栗の木のかげに立ち止まったが、こんどもまた、その空虚な場所に少しの愛着も感じないことを知った。

「何か言ってますか?」と大佐は聞いた。

「とても悲しんでいるわ」とウルスラがそれに答えた。「あんたが死ぬと思ってるのよ」

「伝えてください」と、微笑しながら大佐は言った。「人間は、死すべきときに死なず、ただ、その時機が来たらしぬんだとね」(p285)

ホセ・アルカディオ・セグントは、アウレリャノ・ブエンディア大佐は道化か阿呆か、そのどちらかでしかなかったという結論に達した。戦争がどういうものかを説明するのに、なぜあれほどの言葉をついやす必要があったのか、理解に苦しんだ。恐怖、この一語で足りるはずだった。(p360)

 

ホセ・アルカディオ・セグントは、どうしようもない不安に苛まれた、典型的なブエンティア家の人であった。これは即ち、孤独を運命づけられた(p472)人であったということである。

大佐は孤独ではなかったのかというと、孤独ではあり、ただ、執念を持ち合わせていた。

本書の世界観が、生と死をフラットにし、死について乾いた様相を見せるのは、死と同価値のものが生者にとっての共通認識になっているからかもしれない。

彼らの声をまざまざと聞き、激しい執念は死よりも強いことを知った。現在、昆虫たちが人間から奪おうとしている惨めな楽園であるが、未来の別の種類の動物がそれを昆虫たちから奪ったそのあとも、亡霊となって愛し続けるのだと確信することで、ふたりは幸福感を取り戻すことができた。(p466)

希望とは、マコンド村にあっても現世利益ではなかったということのように読めばいいのだろうか。

V.(トマス・ピンチョン著 新潮社 2011)

独りで追っていったワニのことを、プロフェインは振り返ってみた。そいつは、みずから歩をゆるめて追いつかせ、自分から求めるように撃たれていった。なにか取り決めでもあったのか。(中略)プロフェインはワニに死を与える、ワニは彼に職を与える。それでイーヴン、恨みっこなしと。プロフェインにワニは必要だが、ワニはなぜプロフェインが必要だったのか。その原始的な脳の回路に、記憶と理解が生じていたのか。子供のころ自分たちはただの消費財で、財布やハンドバッグになった両親や親戚のおじさん、おばさんたちと一緒に、世界中のデパートで、あらゆるガラクタと一緒に陳列されていたことを憶えていたのか。(中略)望みは、元の自分たちの暮らしにある。それを叶える完璧な形は死ぬことだ。死んで、ネズミ職人の歯によってロココ様式の死骸になることしかない。(6章pp218)

※以下の内容には『V.』のネタばれが含まれます※
 
 
 
前置きが長くなりそうだから結論から言うと、プロフェインにもステンシルにも繋がるパオラを中心にしてこの話をまとめてみることにした。すると、
マルタ生まれのパオラは、アメリカ海軍の夫パピー・ホッドの家を抜け出してヤンデルレン生活が始まるが、ヤンデルレン生活の半面であるマクリンティックの娼婦仕事の中で気付きを得て、プロフェイン、ステンシルと共に母国の父を訪れ、夫と復縁する話
ということになるかのようだ。
 
いや、まてまて、と思われるだろう。
実体としては、
1956年現在アメリカ。ヨーヨー運動をし続ける木偶の坊(でも女の子達にモテモテ)プロフェインと、幻想の過去世界をトリップするステンシルが交差し、マルタへ向かい、またそれぞれの性分通りの生活が始まる話
という方が近そうだと思う。
でも、これでは何だかさっぱり分からないという状態である。読者が勝手に主役だと思っていた人たちが、解決して欲しかったことを解決してくれず、要らないことばかりが進んでいくという印象が拭えないのが本書の特徴のように思える。
 
そもそも、主人公(?)2人を追って最後まで付き合ったとき、どんな感想になるだろう?
彼らがフェードアウトする画面の右下には「to be continued...」と見えてくるのではないかと思う。スターシステムのヒーロー達に問題の解決を促すことはお門違いということなのかもしれない。
と、いうより友だちとバーベキューしてたけど、1ヶ月後友だちの友だちもバーベキューに参加しました、というようなテンションを作り上げる名手の木偶の坊プロフェインと、それにバランスを取る形でシリアス(でサスペンス)な過去の話・歴史の話が挿入されていく温度感でバテてしまいそうになる。
幸か不幸か、全体をまとめる際に必要な主要人物というものはほとんどいないようだ。あとはどの文脈を本線とするかにかかってるというか、とにかくゆる〜く有機的に繋がっている。
 
本書で考えたいことと言えば、ぼんやりとしたストーリーの中に突然強固な意志をもって現れる頻出ワードや概念について。しかし、理詰めでこれに対応するのは難しい。なぜなら、同じフレーズが場合分けされてしまったり、曖昧で矛盾含みのように見えたりするからだ。
そもそも本書の特徴として、発言の妥当性を1文ずつ疑わなくてはならないという部分があって、それがギリギリの緊張感で続いて行く。だから水掛け論にならない抽象度でまとめるのが丁度良い気がする(なお、2011新潮社版下巻のあとがきにはV.の一生?という項目があるので便利である)。この話をパオラの話として組み立てる理由の2つ目はその妥当性に関するもので、ステンシル父の話のどれが真実か全く判別出来ない一方、パオラの父ファウストの意見はほぼ信用出来るという私の判断によるものでもある。
 
とにかく頻出フレーズをひとつずつ見ていきたいと思う。
 
まずは「ツーリズム」
一体何ゆえに、彼らは年々その数を増やしながらトーマス・クックの代理店に詰めかけ、ローマ平原の熱病やレヴァントの不潔やギリシャの腐った食物に身をさらすのか?異国の地の皮膚だけを愛撫して遍歴するツーリスト、(中略)都市を愛してまわりながら、愛人の心については何一つ語れないドン・ファンなのだ。(7章 pp274)
ゴドルフィンフィレンツェでの独白。もちろんレジャーとしての旅行客なのだが、人生をかけた陰謀と向き合う者(ピンチョンもかな?)からすれば子供がスタンプラリーをこなすのと同じように見えるということでもある。
ところが、話が進むにつれて、このような解釈も出はじめる。
自分たちの愛がツーリズムの1ヴァージョンに過ぎないことにさえ思い及ばなかった―クッションとベッドと鏡に取り囲まれた二人の時間に旅行のような「時間配分」は存在しないとはいえ、これはこれで観光旅行のようなものだ、ということに。世界を観光して回る者は、それまで展開してきた世界の中に自分たち自身の世界を持ち込み、ついにはそのパラレル・ソサエティを世界の全都市に蔓延させてしまう。(14章 pp630)
V.の創ったフェティッシュも持ち込みであり…と続く。これがピンチョンの世の中に対する嘆きの出発点なのではないかと思う。1をきいたら6〜7わかるのに、何を汗水たらさなくてはならないのか、という戸惑い。
 
次の頻出ワード「<シチュエーション>」
「ツーリズム」が個人の主観についての問いかけだったとすると、これは社会の主観への問いと言えるかもしれない。
<シチュエーション>なるものに客観的リアリティはない、というのが、ステンシルがずっと前に達した結論だった。<シチュエーション>とは、その場でたまたまそれに関わりを持った人間の思考の中にのみ存在するのだ。複数の人間の思考の寄せ集め、あるいはくみあせが<シチュエーション>であるからには、それが均一ではなく雑種性を帯びるのは当然(7章 pp282)
<シチュエーション>は父ステンシルのキーフレーズである。
ゴドルフィンから「ヴィーシュー」という陰謀のコードネームが出てきたとき、よし!これを追いかければいいんだな!と思わされるが、その先は行き止まりだ。何故なら<シチュエーション>の要素でしかないからだ。たまたまV.たち(つまり子ステンシルの筋立て)にとって大事かのようであるが、ヴィーシュー自体が真理の解決や不特定多数の人々が欲しがるような何かではないということである(cf.7章pp253,pp306~307)。
普通の小説であればここで父ゴドルフィンの人生総括くらいには用いられてもいいだろう。しかし父ゴドルフィンは自らヴィーシューへの執着を否定し、その後は若い頃のフォプルの代弁者として綺麗にバトンタッチしていき、外様関係者のV.や父ステンシルにしこりを残していく。
 
 
 
そして社会性と個人は接触するわけである。
シェーンメイカーの例が包括的な洞察になっているので少し長いが引用してみたい。シェーンメイカーがいかにしてレイチェルに非難されるような「悪徳」形成外科医になったのか。
最初の内は、ハリダムへの憎しみとゴドルフィンへの愛の名残に動機づけられていた。次に生じたのが「使命感」だったが、こちらは愛や憎しみに比べて脆弱なものだから、堅固な支えをあてがわなくてはならない。そこに割り込んできたのが、形成外科医学の「あるべき姿」をめぐる覚めた諸論理であった。(中略)世の中を見れば、政治と機械が結託して戦争を遂行している。機械と化した医療に見捨てられ、後天的な梅毒の症状を悪化させていくものもいる。(中略)しかし、それらを取り除くことができるだろうか。その存在は、すでにありのままの現実の一部を成しているのだ。現状を肯定する怠惰な思いが、シェーンメイカーの精神を冒すようになった。これを一種の社会的意識の成熟と見ることはできるだろう。だが、その意識があちこちで社会と結託するうちに、あの兵舎の晩、軍医に向かって思いのたけをぶつけたときの壮大な怒りは交代を余儀なくされた。目的の瓦解―これもひとつの腐敗である。(4章pp150)
 
余談ではあるが、このゴドルフィンとは、子ゴドルフィンであり、ヴィーシューの父ゴドルフィンの息子である。全く関係が無いはずだった世界線上で、微妙にボタンを掛け違い続けるのが本書の一つの特徴である。
 
シェーンメイカーを土台にしてファウスト・マイストラル1、2、3、4の変遷に言及できるだろうか。第11章「マルタ詩人ファウストの告解」は本書で最も難解な章ではないだろうかと思う。でも上述の通り、本当のことを言っているクレタ人…ではなくマルタ人のファウストを道しるべにする必要がありそうだ。
 
ファウスト1からファウスト2へ、そして限りなく3に近づくまでの変遷は、シェーンメイカーと同様に社会の要請のようなものによって切り替わっていった個人意識の変遷である。
マイストラル2がやってきたのは、娘よ、おまえと共にであり、戦争と共にだった。おまえの誕生は計画外であって、ある意味では悔やまれた出来事だった。(中略)我々が詩的に想像した「運命」は、より深くて古い貴族的任務にとって代わられた。我々は建設作業に従事していた。(11章pp463)
ここまでは言わば「人間の法(cf.11章pp490)」の影響で自身を変化する必要に迫られたという話だった。
 
 
 
話をすすめると、ファウスト3はもっとも無人間性に近い(11章pp463)だという。ここからは「神の法」の領域すれすれになっていく。
廃頽、衰亡。デカダンス、その本性は何か?死に向かっての、あるいはむしろ無人間性へ向かっての、明確な歩み。それだけだ。ファウスト2〜3は、マルタの島とともに無生命の度をましてゆくにつれて、枯葉や金属片のごとく物理の法に従属する時に近づきつつあった。(11章pp490)
デカダンス」というのも頻出ワードのひとつで、ヤンデルレンの様相や、1922旧独領南西アフリカで出てくるフォプルの屋敷の不夜城パーティーデカダンスの現象の現れである。物語終盤ここにきて、否定的ではない何ともニュートラルな定義として登場するのである。ここにV.が晩年に近づくにつれて身体パーツを無生物に入れ替えていく展開が重なってくる(行きつく先が人体研究アソシエーツのSHROUD人形なのだろうか?)。
 
さらにファウストの議論は、必ずしも無生物は「神の法」に含まれず、「アクシデント」こそが神の領域だ、と続いていく。
無生物のほうへと漂いながら学ばされるのは、生の唯一の教訓―人の生には、正気で耐えられる限度を超えた偶発性(アクシデント)に満ちているということ。(11章pp488)
 
 
 
ところで、(おそらく時系列的には)ファウスト2の時世にマルタ人は、マルタ島自体を岩の子宮とみなす世界観の中で「全島的交感(コミュニオン)」に全体が突き動かされていたという。コミュニオンという言葉は聞きなれない概念だったが、私の理解したかんじだと、体系性のある以心伝心のようなもののようだ。
「コミュニオン」が無生物であるファウスト3の時世にもあったかというと、ちょっと分からない。そういった文脈でのメッセージは見つけられなかったからだ。ただ、私は「コミュニオン」は無形のものだとはいえ、人間の法のモノ扱いするのが、より文脈に近しいのではないかと思った。
なぜなら、子ゴドルフィンはヴィーシューをとりまく政治について「これって一種の霊的交感(コミュニオン)ですよ」と言っているし(cf.7章pp288~289)、子ステンシルの総括?も下記のとおりである。
ツーリズムはカトリック教会のごとく国境を越えた存在なのであり、おそらく我々がこの地上において知っている最も絶対的な霊的交感(コミュニオン)である。というのも、アメリカ人であれ、ドイツ人であれ、イタリア人であれ、エッフェル塔やピラミッドやジョットの鐘楼によって全く同じ反応を惹起されるからだ。(中略)彼らこそストリートの信徒なのだ。(14章pp627-628)
 
 
ここで一つの疑問がわいてくるのだが、冒頭で紹介したワニ狩りの話はコミュニオンの話だろうか?
 
 
ワニ狩りの解釈についての感想は、率直に言えばブラックユーモアさを感じる。その発想は無かったという感じ。
そしてこの話は同じ構造の繰り返しの、父ゴドルフィンが無意識下で代弁するフォプルの話としてもう一度現れる。
ここが本書の中で最も衝撃的な叙述だと思う。下記に引用してみたい。
この行為の最中だった―後で聞けば、フライシュも似たような感覚に襲われたという―今まで体験したこともない、奇妙な安らぎが訪れて彼を包んだのは。想像するに、あの死んでいったクロンボが魂を手放したときも同様の安らぎが得られたんだろう。いつもなら、こっちはいらだちを感じるのがせいぜいなのに。(中略)あのクロンボと自分とが、そして自分と自分が今後も始末しつづけなければならない土人の全員が、整然たる一線につながったんだ。定められたシンメトリー。
(中略)
道端で野生の玉葱を掘っている婆さんに出くわした。コニッヒという名前の兵隊が馬から飛び降りて撃ち殺したのだが、引き金を引く前に銃口を額に当てて「殺す」と言うと、婆さんは目を上げて答えた。「ありがたいことです」(9章pp397~398)
 
この様子がどのように分析されているかと言うと、
感情ではあるまい。人間の「感覚」と呼ばれるものの麻痺を伴っているのだから。「任務遂行のための黙契」とでも言えばいいのだろうか。オペレーショナルな共感とか。(9章pp394)
どちらかといえば、人間の法の問題だろう。その意味では「コミュニオン」のような状態と極めて似た状態なのではないか?
 
しかし、別の言い回しでは、無頼の行いのランダムな連続(9章pp410)、アフリカ的だった「政治的エピファニー(9章pp411)とも表現されている。これはまさに神の法治下に照らし合わせた様子ではないか。ワニ狩りもプロフェインの主観ではエピファニーのように描かれているのである。
これが、不思議なことに、ヤンデルレン生活やどんな登場人物たちよりよっぽど快活に描かれていて読者として戸惑いを感じるのである。
 
 
この矛盾しているが、実際に作中で起こっている状態をどう解釈しなければならないだろう?
この問いは、「ツーリズム」や「<シチュエーション>」に対する姿勢を通して考えるに
 
なぜ無秩序で起るはずのない出来事が予定調和的に起りうるのだろうか? 
という問いに変換することができないだろうか。 
 
 
これは、秩序というものが状況より先行することはありえない、ということなのではないだろうか。
つまり、予定調和的に起っているように見える出来事は、まず無人間性と相対性がある中で(唯物論的だ)アクシデントが起こるという順番のみがある。それは運か実力によって結果が現れる性質のものと混同されてはならない、と言う風にも言い換えられるかもしれない。
魂と魂のあいだの出来事を神は直接に支配しないのだ。それは運か実力か、いずれかの影響下にある。(3章pp115)
 
更に別の角度からいえば、出来事として現れた何かが交わって出来た点(秩序的要素)を繋いで、地軸の頂点もしくは20世紀という山脈の頂点に向かって組み上げていってもそこにあるのは虹色*1の無秩序だと言えないか。
 
 
ここで一気にパオラに話を戻そう。
ファウスト曰く、マルタの子供はファウスト3が獲得することになる原型を自然に持っていて、しかもファウストのように断絶した人格になっていなかったという(11章pp506)。
我々の過ぎ去った跡には、どんな怪物が誕生するのか…(中略)どんな怪物が、か。我が子よ、おまえはどんな怪物なのだね?(11章pp469)
 
言うまでもなく、パオラは50年代である現在を生きなければならない。そこは爆弾を避ける「地下」もなく、無人間性とだけ純粋に向き合うことのできる「温室」もない、20世紀と言うストリート(11章pp494)があるのみだ。
パオラは、マルタの女神マラのように(cf.EPpp707~709)、七変化を繰り返しながら器用に生きる怪物となったのだった。
似顔絵はパオラの手描きだ。(中略)「ウィンサム、カリズマ、フウ、わたし、<Vノート>。マクリンティック・スフィア、パオラ・マイストラル」固有名詞しか書いてない。この子は固有名詞だけの世界を生きている。人と場所。モノはない。誰もモノについて教えてくれなかったのか。レイチェルはモノだけで手一杯だというのに。(2章pp072~073)
 
アイヴィー出身のお嬢様も魅力的だが、社会的<シチュエーション>に固定されない、そして「世界の中に自分たち自身の世界を持ち込*2」まない、そして人格が分離しない、そんなある種の理想的なあり方を夢想出来るのではないだろうか。21世紀、これが先験的な姿の一つであると今まだ言えるかどうか、本書のどの部分に妥当性を感じられるか、そうした事を考えるに値するだけの主張が盛り込まれていたと感じられた。

*1:ヴィーシュー

*2:「ツーリズム」箇所参照