世界終末戦争(バルガス=リョサ著 新潮社 2010)

「包囲される前にどうして逃げ出さなかったんだ、こんな鼠捕りのなかにこもって殺されるのを待っているなんて、まったく気違い沙汰じゃないか」
「逃げる場所なんて、どこにもないんだよ」とナトゥーバのレオンが言った。「もうこれまで十分逃げまわってきたんだ。だから、ここに来たんだから。ここが最後の場所だったんだ。連中がベロ・モンテまで来たのならもう、どこにも行くところなんてない」 (pp591 第4部4章)

世界終末戦争

世界終末戦争

※以下の内容には『世界終末戦争』のネタばれが含まれます※
 
長いけど、非常に読みやすく、ストーリー色の強い作品だった。ただしこの小説には主人公はいない。冒険物語のようなものではないからだ。ストーリー展開の面白さや分かりやすさを考えた時、唯物史観的な情報を物語の骨子に交ぜることによって物事の因果関係がさり気なく上手に整理されていることに気付いた。改めてモノが持つ説得力を目の当たりにしてしまったのだった。
 
それもそのはずで、本書は実際にブラジルで有った大きな戦争「カヌードスの反乱※URLはwikipedia」を忠実にまとめた歴史小説という側面を多分に持っているからだ。
そういった意味では、本書について備忘録を残すまでもないという気もする。さらに訳者の方のあとがきでも、大きなテーマについては明晰さをもってほとんど必要なことは書かれている(ブラジルの社会情勢、都市とセルタンゥの歪み、男性主義について)。
というわけで、今後の参照のために最低限必要な要素は既にそろっているので、私のほうは別の側面を補足することにしたいと思います。
 
本書を一言でまとめるなら、
狂信徒コンセリェイロが信徒とともにカヌードスに街を作り、共和国と軍事衝突して鎮圧、解体される話。
 
まずはストーリー展開をざっくりとまとめてみたい。

本書は下記の4部構成になっている。
 
第一部:コンセリェイロたちの拡大、カヌードスに腰を据え2度軍を追いかえす。一方バイア州の野党インテリであるエパミノンダス・ゴンサルヴェスの2枚舌策略で、流浪のイギリス人革命家(自称)ガリレオ・ガルがカヌードスへの道すがら暗殺されかけるところまで。
第二部:エパミノンダス・ゴンサルヴェスの自作自演新聞。バイア州与党(地主カナブラーヴァ男爵の党)がカヌードス反乱の思想的首謀者では?と揶揄をする短い章。
第三部:国をあげてカヌードス反乱は本気で鎮圧にかかられる。共和国軍最強のモレイラ・セザルが新聞記者団を携えて出陣するも、戦場にたどり着くまでのゲリラ戦で消耗した後敗戦。セザル死亡の報にバイア地主のカナブラーヴァ男爵が政権をエパミノンダス・ゴンサルヴェスに譲渡する。
第四部:4度目の共和国の進軍による人海戦術で、カヌードスが鎮圧される。その過程とパラレルで、反乱鎮圧後の未来において、奇跡的にカヌードスから脱出した「メガネ記者」が政界を引退したカナブラーヴァ男爵を訪問して反乱の感想戦が行われる。
 
 
本書がストーリー的である要素の一つとして、多くの登場人物がそれぞれに強い目的と意志を持っていることが挙げられると思う。主要人物だけでも25人くらいを認めることができるけれども、誰の登場が最低限必須なのだろうか?とまずは考えてみた。
 

※人物相関図を簡易的に作りました。
コンセリェイロ:セルタンゥ中を布教して回り、信者とカヌードスに村を構える。共和国の税収を拒否したことをきっかけに軍事衝突。4度目の反乱中に病死。共和国軍により死体の首が解剖に回される。
モレイラ=セザル:3度目の反乱に出陣時点では既に伝説的共和国軍の英雄。貧しい出身で軍隊を実力で登りつめた。「首狩り屋」の異名を持つ。途中カナブラーヴァ男爵邸にて病気の治療を受けつつ進軍するが敗戦。自身も戦死し、首を見せしめに出される。
カナブラーヴァ男爵:バイア自治党の党首であり、カヌードスの所有者。2度目の反乱後にヨーロッパ外遊から帰国し、世論を察知し共和国軍支持に政策転換をするも、モレイラ=セザル敗戦により、反乱軍(パジェウ)にカルンビ農園を焼かれ追い出される。妻の精神衰弱とともに政権を受け渡し引退する。
エパミノンダス・ゴンサルヴェス:バイアの共和派新聞『ジョルナル・ジ・ノチシアス』発行者。カヌードス反乱に乗じてバイア自治党批判を扇動し、カナブラーヴァ男爵の地位を手に入れる。
 
この4人が物語を回すモーターになっているのではないだろうか。皆がはっきりとした立場の上に目的をもって推進力を生みだしている。他の人物はこういった「大局」に付随して生まれた副産物のようだが、史実をまとめると概してこのようになってしまうものだ。(他の人物については別テキストにて人物紹介予定です 2/1:最後に添付しました。)
本書では更に、中心のコンセリェイロという現象に他の人物がどう対処するか、という形で描かれるため、コンセリェイロは文字通り「神」視点であり、大義は存在するがその気持ちは不明瞭になっている。
だから、モレイラ=セザルは反乱を鎮圧したい、カナブラーヴァは地主クラブの最大幸福を維持したい、ゴンサルヴェスは政権を手に入れたい、という意志の下、その場その場で気持ちが揺れ動く一方、肝心のコンセリェイロは揺るぎない信仰があるということ以外の機微を掘り起こせないようになっている。(余談だが、コンサルヴェスが実在の人物かどうか良く分からなかった。調べるにルイス・ヴィアナ知事は実在の人物らしいけど。)
 
各人が目的のために行動していると、物語が進むにつれて色々な交代が生まれてくるものだ。
 
まずは権力の交代。カナブラーヴァからゴンサルヴェスに交代する。カナブラーヴァは地主として、鳥瞰視点からひとり見ている光景がある。これは、教室でいう所の教壇に立っているようなもので、独特な視点なわけである。
「ここの人間は秩序があると感じる時には、盗みもしなければ、火をつけもしない。世界がしっかりとまとまりをもっているように見える時には。彼らほど上下関係を尊重する人間はないからだ」(pp260 第3部3章)
しかし、何か諦念を感じとって引退を、と思ったのであろう。それはゴンサルヴェスがこれから感じることになるかもしれない世界の不条理である。
やつらはさそりみたいな連中だ。農園を焼くというのは自分ら自身に刃をむけることじゃないか、自らの死に手を貸しているんだ」(pp339 第3部5章)
物語の最後に、そのイメージを体現したようなシーンが出てくる。地主クラブの又聞きエピソードだ。
眼下に、かつてカヌードスの町だったものが広がっている地点まで来て初めて、その音が、何千という禿鷹の羽音、くちばしの音であることがわかったのだという。果てしない海のように灰色の黒ずんだ波が、食傷するまで貪り食いながら全てを覆っており<中略>もはや埋葬すべき人間などいない―鳥がそれをやってくれている―ことを理解するや、鼻と口をふさいで大急ぎでひきかえしてきたのだという。(pp648 第4部6章)
一方ゴンサルヴェスの方は、目的達成の充実感と共に本書(=カヌードスの反乱)から早々と姿を消していく。このようにして役が順繰りに回っていくが、いずれにせよ、バイアに限らず場所と歴史は誰かが引き継がなくてはならないものなのだ。
 
そして次の交代はインテリ語り部役。序盤からカヌードス周辺を取り巻く状況を整理し続ける人間はガリレオ・ガルだった。ガルは、完全にカヌードスに肩入れした状態でのレポートを作り続ける。もはや同胞のいない彼方ヨーロッパに向けて…
これまでずっと戦いのなかで生きてきたが、味方の側で見たことと言えば裏切りや分裂や敗北ばかりだった。ただの一度でいいから勝利というのを見たかったんだ。(pp275 第3部4章)
ガルはカヌードスには憧れを持っていたが、それを取り巻く人々については「理解できない」の一言で済ませてしまう不躾さがあったようだ。敵でも味方でもないが、敵にも味方にもなれるバイア人と足の引っ張り合いをしてしまった、という印象が拭えない。
バイア人カイファスからルフィーノへのセリフ
死だけでは十分ではない、死は侮辱を洗い流しはしないということだ。ところが、顔を手か鞭で打つというのならいい。顔というのは自分の母親や自分の女と同じくらい神聖なものだからだ(pp226 第3部2章)
ガルがこれを理解できたなら、生きてカヌードスで勝利を体感できたかもしれないなぁ、と思ったりもする。
一方の語り部はモレイラ=セザルに同行した「メガネ記者」だが、彼はバイア人そして共和国軍側の視点であり、ガルと全く対称的な位置から登場してくるのが興味深い。男爵が可愛がっているカメレオンも暗喩になっている(?)人物で、柳のような、しかし不器用な身のこなしで中盤以降の歴史的重要シーンに居合わせる役目を作者から負わされている。語り部が持っていい主張と悪い主張がある、といわれているような、そんな気持ちになる。ただし、後述しようと思っているが、そんなメガネ記者もカヌードスの本質は体感できなかったんじゃないかなぁ。なぜなら彼はインテリだったから。
 
反乱自体も多くの交代を伴っている。何しろ4度の会戦があったのである。4回の軍隊と4回の行軍ルートがある。行軍ルートを下記画像にまとめてみた。読中の印象よりも案外色々な場所から攻められたんだな、という感想に変わった所ですね。(なお、カヌードスの街マップは見つけられなかった。もちろん資料が残っているとも思えない。)

元データはこちらwikipedia:caudos_state_park記事に付随の写真より)
バイア警察義勇兵大隊長のジェラルド・マセードも、ジョアン・アバージを30年追い続ける過程で、社会的な役割のなか共和国軍に鞍替えしていったというのも広く見れば交代の一種だろう。余談だが、マセードは目的を達成することが出来なかった。大天使にその役目を奪われてしまったからだ。
中々会戦から交代してもらえない人物もいる。1回目の隊長であるピレス・フェレイラ中尉だ。物語全体が反乱軍の敗北を結果として残すなら、その中で共和国軍の敗北であるモレイラ=セザルとピレス・フェレイラが反乱の熾烈さを担っている。
 
 
ここでやっと反乱(戦争)が出てきたが、やはり反乱自体について大きく取り上げるべきであろう。戦場の情景の生々しさこそが本書の魅力の中核をなす部分だからである。
制服対ぼろ着、沿岸部対内陸部、新しいブラジル対伝統的なブラジル、この戦いがそんなふうに見えたとしてもそれは外見だけのことだった。本当は、これは深い所で行われている非時間的な永遠の戦い<中略>自分がその戦いにおいては単なるあやつり人形でしかないことに気づいていたのだ。(pp136 第1部7章)
 
これは当然ジャグンソ側(カヌードス戦士)の視点である。というわけで、ジャグンソからすればこれはいわゆる「戦争」ではないということが分かる。
ゲリラ戦だからでもあるけど、こうした理由によって、斬新で生々しい戦術が現れる。更には、むしろ一周回って美しすぎる戦闘シーンも強く印象に残っている。例えば、不吉な笛の音とともに「動物を二度殺す」シーン(pp264 第3部4章)や、少女を利用して兵士をおびき寄せようとした事後らしき場所にルフィーノがさ迷いこんでしまうシーン(pp292 第3部4章)など。少し長いが引用してみたい。
 
笛の音はある種の鳥の鳴き声に似ている。その不ぞろいな悲歌は耳を貫いて兵士たちの神経に突き刺さり、夜中に彼らをたたき起し、行軍中に奇襲をかけてくる。それは死の前奏曲だ。弾丸や弓矢が続き、かすめるようなうなりをたてながら、的に命中する前に、光あふれる空を背景に、あるいは星のまたたく夜空を背景に輝きたつ。<中略>ちょうど笛が兵士たちの耳―頭、魂―にねらいを定めているように、弾も執拗に動物ばかりを求めて飛んでくるのだ。<中略>―動物自身の命を奪い、同時に、それらを引き連れてきた人間たちの糧となる可能性をも奪うのだ。(pp264 第3部4章)
 
 
全く別の観点になるけれども、カヌードス陥落直前になり、ベアチーニョに連れられ投降する民をジョアン・アバージらジャグンソ達が発砲するシーンについてはどう考えるだろうか(pp672 第4部6章)。この倫理的な命題にたどり着くためにこそ600ページの文学があったのでは、と私は感じさせられたようなシーンだった。
ベアチーニョはコンセリェイロの遺言に閃きを得たのであろう。常に未来のためにしなくてはならないことがあるということなのだろうか。思い出してみれば、カヌードス以前のコンセリェイロも同じようなことを言う人だった。
各自家に帰るようにと求めた。自分と一緒に遍歴を続ければ牢屋に入ることになるか、今では父なる神のもとにいるあの五人の兄弟と同じように死ぬことになるだろうから、と言うのだった。が、誰ひとりとして動かなかった。(pp047 第1部3章)

ジョアン・アバージはどうだろうか?
ここでは生よりも死の方が重要だとされているのだ。すべてから見放された状態で生きてきた彼らの望みといえば、立派に葬られることだけなのだ。<中略>死こそが唯一、苦しみを埋めあわせてくれるもの、コンセリェイロの言う「お祭り」ということになるのかもしれない。(pp584 第4部4章)
 
 
この引用が何か回答になっているだろうか?この独白はメガネ記者のものだが、個人的には、これを次の問いに繋げてみたい。
コンセリェイロの目的は半ば不明瞭なままであった、しかしそれにしても、なぜセルタンゥの人々はコンセリェイロに付き従い、カヌードスに集まったのだろうか?
 
 
この物語に巻き込まれてしまった人たちは、それぞれの立場から推論をすることになったのだが…。
オスカル将軍の推論。
カヌードスを説明するのは何なのか?インディオと混血した連中の血に欠陥があるのか?教養の欠如か?それとも、暴力に慣れ親しんでいる連中の野蛮な本性が、隔世遺伝によって表面に現れ、文明に抵抗しているのか?宗教や神と何か関係があるのだろうか?どう考えても満足のいく説明はつけられない。(pp605 第4部4章)
 
これは物質の問題なのだろうか?メガネ記者。
幸福、不幸の感覚は今では大部分、腹具合にかかっていた。この単純な真実がカヌードスの原則なのだ、が、ではここの人たちは物質主義者と呼ばれるべきなのだろうか?(pp451 第4部 2章)

もちろん物質主義者ではないことは自明だっただろう。そして、メガネ記者は最終的にカヌードスの反乱を「誤解の物語(pp559)」だとし、帝制の奴隷解放への反対者が共和国を作り、奴隷制を復活させる動きだと捉えた人々によるものだ(pp560第4部4章)と結論付けている。
それはその通りなのだろう、恐らく。ただしマクロ的にはそうまとめられるという事にすぎない。それはそれ、である。つまり、これで行間が埋まったようにはどうしても思うことが出来ない。
 
そこで冒頭引用のレオンが出てくる。彼らは物質的にももちろん困窮していたが、追い打ちをかけるように精神も行き場をなくした呪縛霊であった。神が創造した神の無い場所=悪の住まう場所と自分自身が現実性を伴ってオーバーラップしていた。ジョアン・アバージも『悪魔ロベルトの物語』を小人が語って聞かせるシーン(pp675第4部6章)では、罪の苦しみに苛まれている様子が描かれる。
 
それまで恐怖と憎しみと飢えと犯罪と略奪しか知らなかった連中に人生を変えるよう説得したがゆえに、やつらは次々と軍隊を送ってあの人たちを根だやしにしようとしている。こんな不公正をはたらくとは、いったいブラジルは、世界はどうしてしまったんだ?(pp537第4部3章)
 
他人にとっては不都合なことではあるが、当事者たちにとっては抵抗することもまた、障害の多い世界の中で生を全うするための方法論だったのだろう。皆が何に向かっていいか分からない中、自然な役割分担がされ、自然と人が増え、組織ができていく。こんな当たり前だが予定調和的な事があるだろうか。
その組織が鎮圧された状況を清濁併せ呑んでどう咀嚼するのがいいだろうか。
心して知るべきなのであろう、ドグマの信憑性を疑うよりも、概念的秩序が壊された空間の中に禿鷹の海だけが残ったという事実自体の姿を。
 
 
2/1:P.S.
※人物紹介別紙の3ページ分です(DLして見て下さい)