木のぼり男爵(イタロ・カルヴィーノ著 白水uブックス 1995)

彼の世界は、空中を渡る狭い、曲がりくねった掛け橋や、樹皮をざらざらにしてしまう結節や鱗や皺や、それにまた、柄に当たるわずかな風にもおののき、木の身を曲げるときにはともにヴェールのようにはためくあの木の葉の幕の、緻密であるか、粗いかにしたがって緑の色を変える光とでできているのだった。それと同時に、私たちの世界は底のほうに、ぺしゃんこに平らになってしまっていたし、わたしたちは釣り合いのとれない姿になり、また確かに、彼が木の上で知るようになったことを何一つ、理解できないでいたのだ。(第10章)

木のぼり男爵 (白水Uブックス)

木のぼり男爵 (白水Uブックス)

※以下の内容には『木のぼり男爵』のネタばれが含まれます※
イタリア文学はわたしの肌にとてもよく合っていると思っている。だからいつかはカルヴィーノ作品くらいは片っ端から読破したいと思って過ごしていたんです。イタリア文学の素晴らしいところは、圧倒的な比喩力と、ある種の抽象性、そしてこうした点からにじみ出てくるゆったりとした時間経過にある。
だから個人的に言って、この本におけるストーリーを俯瞰することにはあまり実際的ではないのだけれど、一言でいえば、
12歳の時に木に登ってから生涯一度も地に足をつけなかったコジモ男爵の一生ということになろうか。
本書は「われわれの祖先」三部作の一つらしく、歴史小説の趣きがあるのだけれど、まぁ、言ってしまえばカタツムリの料理に反発して一生を木で過ごすようになった男爵なぞ(おそらく・・・)いるはずもなく、これほどにしれっとウソを混ぜてくれるところがまた素晴らしいのである。しいて言えば、歴史小説だけに世界史の知識のない人は苦労するであろう描写もまた多く、こうした人はヴォルテールだとか革命派のヴァルミーからの帰還兵だとか言われてもよくわからなくて困るだろうな。世界史の分からん人で本書を手に取ろうとする人は、この点に注意してくださいね。
前述の通り本書の魅力はその描写力にあるので、今回のレビューは内容の整理に引用をたくさん使っていきたいと思います。引用の積み重ねで本書の良さを何となくわかってもらえたらこのレビューの意味もあるってものだろうからね。
ちなみに本書はコジモの弟のビアージョがコジモの一生について記している、という一人称の入れ子状となっているため、独白はふつうビアージョのものだけれど、「ビアージョ」という名前は本書で数回しか出てこないというとても不思議な形式をとっているといえる。
さて、コジモが拒否したエスカルゴはバッティスタという彼らの姉の創作料理であった。本書の描写ではバッティスタは半狂乱のような人物として描かれていて、あまりにもオーバーなので逆にバッティスタに申し訳ないくらいだ。以下エスカルゴを目にした時の描写。
この珍味をながめることよりも、もっと気味悪く感じさせたのは、バッティスタがこれを調理するために注ぎ込んだはずの狂熱的な奮闘ぶりを考え、この生き物の小さなからだをはぐときの彼女の精緻な手つきを想像することだった。(p14)
だれでも家族が木に登って下りてこなくなってしまったら混乱するだろうけれど、彼らの母親、将軍令嬢はこの局面を上手く切り抜けたといえる。
彼女が繊細な婦人だったからで、彼女のもつ唯一の自己防衛の手段といえば、フォン・クルテヴィッツ家から引き継いだ、この軍隊的なスタイルだけだった。こうして、望遠鏡をのぞき込みながら例の小旗をふっていらっしゃる時だった。突然、顔を輝かせてお笑いになった。<中略>確かなことは、この時から母上がお変わりになったことだった。もう以前のように心配なさらなくなった。(p55)
この母親が亡くなる瞬間も非常に美しい描写がなされている。
しかし、この時ばかりは、おそらく初めてのことだっただろうが、わたしたちの悪戯をお喜びになっていらっしゃった。シャボン玉がお顔のそばまで近づいてきたところで、母上は息でこわしてみては、ほほえんでいらっしゃった。それが、シャボン玉が一つ母上の唇に止まって、こわれずにのった。わたしたちはその上にかがみこんでしまった。コジモは鉢を落とした。お亡くなりになったのだ。(p201)
バッティスタとは正反対だが、同等の不思議ちゃんとして描かれるのは、カッレーガ騎士というトルコ帰りの人物で、ロンドー男爵(父)の弟ということになっているが実は血縁関係はない。ロンドー家の中で彼を非常に信用していたのは父の男爵だけで、他の人は無口で行動が突飛だったこともあってあまり良い印象をもっていなかったらしい。コジモは後にこの叔父さんに水利学や養蜂で関係を持つことになる。ただし、カッレーガはトルコ人の海賊に協力して、騒乱で討ち死にするのだが・・・。以下カッレーガの養蜂をコジモが初めて見たシーンで、わたしのお気に入りのシーン。
そして煙をたてる道具を動かしてはちを遠ざけておいて、そのあいだに巣の中を探りまわしていた。みつばちの唸り、ヴェール、煙の雲―こうしたことのすべてがコジモには、この人がその場から消えてなくなり、どこかへ飛んで行ってしまって、それから別の人に、別の時、別の場所で生まれ変わろうとして呼び起こす魔法のように思われるのだった。しかし、これはへたくそな魔法使いで、いつでも同じ姿で現われ出て、まちがって刺された指を吸っていたりするのだ。(p113)
この調子で書いていくと枚挙にいとまがないので、他はダイジェストで箇条書きで。

  • 荒ら草ジャンが本を読むようになったことで彼が落命し、コジモは博識になっていったこと
  • スペインの町オリヴァーバッサに木の上で過ごす人がいると聞いて出かけ、スルピシオ神父やウルスラ嬢に会ったこと
  • コジモは多くの啓蒙書を読んだため、フリーメーソンのメンバーだったり、フランス革命の支持者であったりしたこと

こんなところですかね。最後にヴィオーラについてすこし。
ヴィオーラが後家になって別荘に帰ってきた時のコジモは、この喜びの動悸は、恐怖のための動悸とあまり変わらなかった(p213)ようで、それは、もう思い出のなかでさえ、木の葉やその緑を通す光の色の、この秘密の香りの中でさえも、もう彼女を自分のものにしておくことができない、彼が彼女から逃げ出し、こうしてまた少女時代の彼女の最初の思い出からも逃げだしてしまわなければならない、ということになるのかもしれないのだから(p214)だそうである。
ヴィオーラという女性は非常に魅力的に描かれていて、タグでカテゴライズしようとすればたくさんのラベルが貼れるであろう。
恋愛とは彼女にとって英雄的な課題なのだ。快楽は、熱情や寛容や献身や、また魂のあらゆる機能の緊張など、さまざまの試練のなかに混ざりあっているものなのだった。彼らの世界はもっとも錯雑として、ねじくれている、前人未到の木々だった。(p222)
こんなヴィオーラと、コジモのやりとり
「愛しているものは、愛だけを望むのよ、たとえ苦しまなければならないとしても」
「それじゃあ、きみはわざと、ぼくを苦しませたのかい?」
「そうよ、わたしが好きかどうか知りたかったの」
男爵の哲学はこれ以上先に進むことを拒否した。「苦しみは魂の否定的な状態だ」
「愛が全てよ」
「苦しみはつねに排撃されなければならない」
「愛はどんなことでも否定しないものよ」
「ある種の事柄は、ぼくはけっして承知しない」
「いいえ、するわよ。あんたはわたしを愛して苦しんでいるんですもの」
と、木の上の哲学者コジモはきれいにかえされてしまうのである。
感動的なのは、こんなやりとりを全部木の上でしているということだよね。そしてついに馬までも木の上にとめてしまうところだとか、ね、なんでだよ!みたいなね・・・
オリーブ畑を通りがかりながら興味津々の目をあげて、そこに男爵と侯爵令嬢の抱擁しているのを見て、すぐこの話をしに行った時「それに白い馬までがね、枝の上にあがってたよ!」とつけ加えたので、でたらめだと思われて、誰からも信用されなかった。こうしてこの時もまた、恋人たちの秘密は救われたのだった。(p230)
そりゃあなぁ、そうだわな。
さて、やっぱりこういう描写の上手い小説ってのはあまり自分の意見を書くことがないですな。どうしても、考えるな!感じろ!なので・・・ただし、こういった説明できないような部分にプライオリティーが発生するという状況自体が、人に真似できない個性とかいうものとして存在するのじゃないかな。もっと言うと、個性があろうが無かろうが興味はないけど、そこに自分が生きる自信みたいなものを見いだせるなら、そういったことにはとっても興味があるのです。