百年の孤独(ガルシア=マルケス著 新潮社 2006)

「戸や窓を開けるのよ。さあ、肉や魚を料理して。亀を買うんだったら大きいのをね。よそ者をどんどん呼んで、隅のござで寝たり、薔薇の木に小便をしたり、そこらを泥靴で汚したり、好きなようにしてもらったらいい。屋敷が荒れるのを防ぐ手は、これしかないんだから。」(p386)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

※以下の内容には『百年の孤独』のネタばれが含まれます※

本書を読み終え、さて、どういう概念のまとまりとして飲み込もうかと考えまして、しかし判然とせず、まずはマコンド年表とでも言うべきものを書き始めてしまった。結局、起った出来事や生まれた人物、亡くなっていった人物がびっしりと羅列されてしまったものを眺め、何というか、そういうことを誘引するような作品だったと思った。

文芸の良さのいち側面として、何かと不都合を掘り下げていくような描写、教訓めいたような描写を探しがちになってしまうけど(私だけ?)、本書では改まってそこにページ数を割くようなことはしない。とにかく平易(だが時に奇妙)な事実が連ねられているのである。そして平易だがとても妥当性のある心の機微や人間の営為で全体が並立している。ありえそう過ぎて、半周回ってホラ吹き感が出てくる。すると一族の始まりであるホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの人間離れした能力や精神力と相まって、本書の構成員たちが神話であるという印象が増してくるみたいな気持になる。

不都合を掘り下げるより事実を詰め込んでいくという話の続きになるけど、ガルシア=マルケスの度量というか視野の広さは、真実を探求する者とその他色々な生活をする人たちをフラットに扱っているところなんじゃないかと思う。

 

だから大きく3つの推進力をもって、この事実で埋め尽くされた歴史書を見通してみようと思う。

・マコンド社会に参画する人たち

・ブエンディア家を切り盛りする人たち

・メルキアデスと対話する人たち

(そしてその他大勢の変わった人たち)

なおテキストからは脱線してしまうのですが、私見では、ガルシアマルケス自身は「社会に参画」するタイプの人物で、物語を学んだのは「家を切り盛りする人たち」からだったのではないかなと。妙にリアリティのあるものが急に挿入されると、ハッとなってそう思ったのでした。

 

マコンド社会に参画する人たち

マコンド村の社会は下記のように推移していく。

山越え→マコンド村誕生→ジプシー行商→不眠症(パンデミック)→アウレリャノ大佐の人民戦線→マコンド好景気→バナナプランテーション盛衰→5年間の雨→10年間の干ばつ→寂れた村落になっていた

ホセ・アルカディオ・ブエンディアやウルスラは序盤マコンド社会の中心人物であったが、早速その文脈からはフェードアウトしていく。そのはずだなぁと思うのは、元々別の社会に馴染めなかった者たちなのである。エクゾダスからの新天地にて神話を始めた者たちなのだ。

会うたびにホセ・アルカディオ・ブエンディアの正気にいっそう驚嘆させられた神父は、どういうわけで栗の木に縛り付けられているのか、と尋ねた。すると彼は答えた。

「それはきわめて簡単なことだ。わしの頭がおかしいからさ」(p107)

世情について最も貢献しているブエンディア家の人間は、アウレリャノ大佐とアウレリャノ・セグントであろう。当事者以外の人間からすれば、ブエンティア家の名声を維持してきたのはこの2人だということになるのだろう。

 

アウレリャノ大佐は、ある種の極北としての役割を持っていることは確実であろう。というのは、マコンドいちの有名人であるだけでなく、大佐は生活に同居する霊をキャンセルするからだ。

おまるの部屋、と呼ばれるようになった。アウレリャノ・ブエンディア大佐にとって、それはまさにぴったりの名前だった。家族のほかの者が、メルキアデスの部屋だけは塵も積もらないし傷みもしない、と言って驚いているのに、大佐はそこをごみ捨て場と見なしていたからだ。(p305)

大佐が最も予知能力の優れた特性の持ち主であったことと並立されているのもまた、私たちが普段第六感と総称するものごとの複雑な区分があることを指し示しているようだ。

 

そう考えると、もしかすると、小町娘レメディオスも霊やメルキアデスのきれいな部屋を見ることが出来なかったかもしれないなぁと考えてみたりもする。

彼に言わせると、小町娘のレメディオスはみんなの考えているような鈍い人間ではなくて、まったく逆の存在だった。「二十年も戦場で戦ってきた人間のようだ、この子は」と、大佐はよく言った。(p238)

小町娘レメディオスが何を考えていたのか、なぜ天に召されてしまった(物理的に!)のか、ということは本書の中でもとりわけ不明瞭にされている部分でもあるので、大佐の証言をもとにして考えてみるのも面白いだろう。例えば、死の匂い(p276)の発散もまたある種の社会性といってもいいように思える、とかそういう切り口。

 

大佐に戻ると、失明したウルスラが信念のパラダイムシフトを経験するシーンでも大佐への言及がある。

大佐が家族への愛情を失ったのは、以前はそう思っていたが、けっして激しい戦乱のためではない、大佐はいまだかつて人を愛したことがないのだ、<中略>戦いに倦んで目前の勝利を捨てたわけではなくて、ただひとつの理由、つまり業にも似た自尊心に駆られて勝敗をあらそっただけなのだと、ウルスラは想像した。(pp291~292)

これほど明瞭な批評を下しておきながら、ヒューマニズムの欠落した登場人物を蹂躙することのないバランスに見習うべき部分があるように感じる。

 

大佐が消えていくと、次の社会はアウレリャノ・セグントであった。彼の姿はマコンドの好景気と同一化した印象で描かれていく。

古い歌を精いっぱい大きな声でうたいながら、上から下まで、屋敷の内や外に一ペソの紙幣をぺたぺたと貼っていった。自動ピアノが持ちこまれたころから白く塗られていた古い屋敷は、回教寺院のような奇妙な姿になった。<中略>紙幣を貼りつくすと、余ったものを中庭へまきちらして、それからやっと口を開いて、こう言った。

「さてと。これで、ぼくの前でお金の話をする者はいないだろう!」(p232)

察するに、彼のおかげで本書を読了出来た人も多かったであろう。明るい人間は明るい描写をつくるものだ。

面白いのは、すべてのめでたい出来事と同じように、この途方もない幸運も実は偶然から生まれた。(p229)と、社会に漂う因果律を否定しきってしまう部分だと思う。

 

アウレリャノ・セグントにひもづいて、社会性に与する人間としてペトラ・コテスがある。

彼を一人前にしたのは彼女なのだ。<中略>とかくひとりで考え込んでいる彼を、正反対の性格の人間に、生きいきした、屈託のない、明けっぴろげな人間に仕立て上げた。(p243)

ピラル・テルネラも同様に。個人的には、こういう生物的に女性性が持っている武器を、ほんの時たまうらやましく思う時もある。隣の芝というやつである。自分に能力があるかと言うと、うーん、どうだろうか…

 

ブエンディア家を切り盛りする人たち

こちらは、

ウルスラの増築→アマランタがアウレリャノ・ホセの面倒をみる→サンタ・ソフィアが動物の飴細工を受け継ぐ→フェルナンダ治世→アマランタ・ウルスラの手入れ

と推移するようだ。

 

いうまでもなく、ウルスラが最重要人物であることに異論はないであろう。ところで、本書の前半で刷り込まれる印象だが、マコンド村とブエンティア家に境界をあまり感じないように思える。敷居がフラットな感じなんですね。

しかし、彼女は夫ほどうれしそうな様子は見せなかった。一時間ほど留守にしていただけだとでもいうように、ふだんのキスをして言った。

「ちょっと外をのぞいてみてよ」

<中略>

彼らがやって来たのは、毎月のように郵便物が届けられ、いろいろと便利な機械が知られている、徒歩で二日がかりの低地の向こうの土地からだった。(p052)

ウルスラは母であるだけでなく、マコンド神話の母でもあったから。

しかし、社会性の中ではミクロな存在である愛情については上手く若者たちに浸透していかなかった。

ずいぶん苦労をし、飴細工の動物を売って支えてきたこのお化け屋敷の運命は、堕落のごみ捨て場になり下がることだろうか。<中略>ウルスラは、いっそこのまま墓に入って土をかぶった方がよくはないか、と自分に問いかけ(p294)

その原因には思い当たらなかったということのようなのだが…

 

それに引きかえ、アマランタはたくさんの人たちに愛情の形を伝えて生きたのではないか。アウレリャノ・ホセ、ピエトロ・クレスピ、ヘリネルド、そしてたとえば法王見習いのホセ・アルカディオ。

夜遅く戻ってくると、猫のような息づかいで、アマランタを思いながら悩ましげに歩き回った。彼がこの屋敷について持っている思い出は、彼女と、明るい灯に照らされた聖者像の恐ろしげな視線のふたつだけだった。<中略>「悪いことをすれば」と、ウルスラはよく言った。「聖人様たちが、ちゃんと教えてくださるんだよ」(pp420~421)

 

フェルナンダだけが家族に対してあからさまに冷酷な人間扱いをされているわけだが、これは冒頭のウルスラとは全く反対の意見として描かれる。

朝起きてから夜寝るまで、いっぱいに開け放たれていた屋敷の戸や窓は、寝室が暑くなりすぎるという口実で昼寝のさいに閉められ、最後には、開いていることがなくなった。(p252)

フェルナンダの愛の欠如は、ウルスラとは違うパターンのものとして扱われている印象がある。ブエンディア家の歴史は、上手い具合に、愛の欠如から愛の欠如へスイッチしたように見える。

その流れでいうと深追いしないが、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエタは愛情のある人間だったと思うが、むしろ愛される必要があった薄幸の人間であったといえる。(サンタ・ソフィアに優しくする人間は皆社会的地位の低い者で、それもまた妙なリアリティを感じさせる)

そして

この百年、愛によって生を授かった者はこれが初めてなので、これこそ、あらためて家系を創始し、忌むべき悪徳と宿命的な孤独をはらう運命をになった子のように思われた。(p467)

ま、初めてというのはちょっと乱暴だと思うけど。

 

ルキアデスと対話する人たち

突然だが、本書を一言で言うなら

ホセ・アルカディオ・ブエンディアが開拓し、メルキアデスの羊皮紙で予言された蜃気楼の村マコンドが、予言の完全解読と共に反復の可能性なく消滅する話

ということになるが、これはほとんど本文引用のレベルで自明のことだ、ということが分かった所で終了する。

この、他の事象と完全並立した文学的蓄積については、下記のように推移していく。

マコンド建立→メルキアデスがシンガポールで死亡→レベーカ由来の不眠症に覆われる→死者メルキアデスの処方でマコンド再稼働→メルキアデスがマコンドで死亡→ホセ・アルカディオ・ブエンディアが毎日が月曜だと気付く→ホセ・アルカディオ・セグントが羊皮紙解読をはじめる→(亡霊メルキアデスの力も借りつつ)アウレリャノ少年が完全解読

本書を神話たらしめている要因はここまででも挙げてきたが、もうひとつ、メルキアデスの羊皮紙という予言書(物語)にマッピング可能という説明もその要因である。

 

ただし、不思議なのは、この神話と予言書が在りうべき仕方であるわけではないという所に独創性がある。神が先に作り給うたマコンドの地に後追いで予言が行われたからである。その終わり方も含めて、メビウスの輪のようにねじれた入れ子状になっているわけだ。

さながら、無限に続く同じような部屋を移動する空想を楽しむホセ・アルカディオ・ブエンディアの描写(p171)のようだ。

過去についてはどうだろうか。

アウレリャノも、用紙に書きこむのを手伝わされた。<中略>過去は無限に自己抹殺をはかり、内部から消耗しつづけて瞬間ごとに細りながらも、決して尽きるということがなかった(p458)

主観についての言及だろうか。

 

これはやはり死を解体していくしか寄る辺ないように思われる。

この世界では死ぬことが文字通りの意味でDEAD ENDにはならない。メルキアデスの例でいうなら、彼は2度死んだ上で、2段階の霊魂として現れる。一応生者として扱われるマコンド時代、予言書を書き上げたと思しき頃に「わしはついに、不死の命を手に入れた」(p093)。

ところがマコンドで死んでから数十年後、アウレリャノ少年に話すことには、究極の死の牧場に心静かに赴くことができそうだ、羊皮紙が百年めを迎えて解読されるまでの年月に、アウレリャノにサンスクリット語を覚えてもらえそうだから、と言った。(p408)

あんた、穏やかな死の世界に興味があったのか、と思わせられたけど。

 

普通に考えると、レベーカがマコンドに死の伝染病=不眠症をもたらしたことに起因して、マコンドごと全員死亡したと考えられるだろう。更に、同じく一度死んだ者であるメルキアデスによって、全員が死の世界で自由に生きられるように(?)した。この状態を留めておくために羊皮紙への書きつけ(つまり記号化)が必要だった、と整理したくなる。

が、

フランシス・ドレイクがリオアチャを襲撃したのは、結局いりくんだ血筋の迷路のなかでふたりがたがいを探りあて、家系を絶やす運命をになう怪物を産むためだったと悟った。(p472)

とあるので保留せざるを得ないか。フランシス・ドレイクまで予言が過去を遡って効力を産むと考えるには枚挙にいとまがなさすぎる。

 

ともかく、聡明(?)なホセ・アルカディオ・ブエンディアは一段階目の死者であるプルデンシオとの再開をきっかけにこの世界が本質的に静止していることに気づく(p099)。将来ブエンディア家の血筋が消滅する予言は生理的に受け入れられなかった(p071)が、自分と同質である霊に何かを気付かされたようにも読める。

「メルキアデスの部屋」というのもそのような役割を果たしている。

時間もまた事故で何かに当たって砕け、部屋のなかに永遠に破片を残していくことがあるという(p400)

「おまるの部屋」というのを文字通りおまるの部屋と思っていたのは大佐だけとあったが、

こっちを向いているくせに自分の姿が見えていないことに、ホセ・アルカディオ・セグントも気づいた。兵隊たちに言っていることを聞いてアウレリャノ・セグントは、この若い軍人の目はアウレリャノ・ブエンディア大佐の目と同じ節穴であることを知った。(p360)

どのような人がメルキアデスの時が止まった部屋=死の世界を感知出来るかというバロメーターになっている。

 

なのでこの解釈では、大佐だけが死の村から生の世界へ死にに行ったという風に読みかえることになるが、それはとても皮肉なことだ。

栗の木のかげに立ち止まったが、こんどもまた、その空虚な場所に少しの愛着も感じないことを知った。

「何か言ってますか?」と大佐は聞いた。

「とても悲しんでいるわ」とウルスラがそれに答えた。「あんたが死ぬと思ってるのよ」

「伝えてください」と、微笑しながら大佐は言った。「人間は、死すべきときに死なず、ただ、その時機が来たらしぬんだとね」(p285)

ホセ・アルカディオ・セグントは、アウレリャノ・ブエンディア大佐は道化か阿呆か、そのどちらかでしかなかったという結論に達した。戦争がどういうものかを説明するのに、なぜあれほどの言葉をついやす必要があったのか、理解に苦しんだ。恐怖、この一語で足りるはずだった。(p360)

 

ホセ・アルカディオ・セグントは、どうしようもない不安に苛まれた、典型的なブエンティア家の人であった。これは即ち、孤独を運命づけられた(p472)人であったということである。

大佐は孤独ではなかったのかというと、孤独ではあり、ただ、執念を持ち合わせていた。

本書の世界観が、生と死をフラットにし、死について乾いた様相を見せるのは、死と同価値のものが生者にとっての共通認識になっているからかもしれない。

彼らの声をまざまざと聞き、激しい執念は死よりも強いことを知った。現在、昆虫たちが人間から奪おうとしている惨めな楽園であるが、未来の別の種類の動物がそれを昆虫たちから奪ったそのあとも、亡霊となって愛し続けるのだと確信することで、ふたりは幸福感を取り戻すことができた。(p466)

希望とは、マコンド村にあっても現世利益ではなかったということのように読めばいいのだろうか。