魔術師(ジョン・ファウルズ著 河出書房新社 1972)

私は突然その場で私たちが一つの肉体、一つの人格と化してしまったような感覚に襲われた。その瞬間、アリスンが消えたならば、私は自分の半身を失ったように感じたに相違ない。その頃の私ほど頭脳的かつ自己陶酔的でない人ならば簡単に分かったのだろうが、その死に似た恐ろしい感覚はただの愛であった。私はそれを欲望と取り違えた。そしてすぐ車で家に帰り、アリスンの服を剥ぎとった。(1-4 上巻p29)

 
※以下の内容には『魔術師』のネタばれが含まれます※
 
何よりもまず、本書はドラマチックでストーリーが面白いという点を推したいのです。古書であることを除けば、人におススメしたい種類の本なのでした。
もう一つ素晴らしい点を挙げるなら、それはファウルズの言語センスの高さ。翻訳者の方の力も大きいと思えますが、本を越えて著者が素晴らしいと思えることってやっぱり凄いことですよね。たぶんかなり心の機微みたいなものに敏感なんだと思いますね。本の中でも、私が思ってることを察して、相手が止まれずこう言っちゃった、みたいな応酬があったりして、こうだよなぁ、と思わされるのね。それを可能にする言語センス。
 
で、そんな中で本書はたくさんの普遍的なテーマについて言及していくわけです。自由、戦争、愛。。。ただし印象としてはたたき台に上げてるような感じで、「おれはこう思うけど、君たちどう?」みたいな。
実は魔術師である優秀な板前さんが、マグロやらカンパチやらを俎上に載せて、さあ今日はどういたしましょうかね?というような。じゅるり。
もちろんカリスマぞろいの登場人物の言葉を鵜呑みにしても良し、調理するも良し。
 
こういったことを考えてくると、どうしても本書のコンヒスとファウルズがオーバーラップしてくるようです。コンヒスは「完璧な芝居」をニコラスに提示し続け、常に高次に立って芝居を掌握し続けていくのだから、これはもしやファウルズが読者に呈示するやり方なのかなーと思うんですよね。特にそのサービス精神がね。
興味深いのは、本書は小説であったけど、コンヒスは作中でこう言うわけですね。
「たかだか五つ六つのちっぽけな真理を掴むために、なぜ苦労して作り事の文章を何百頁も読まなきゃならんのです」
「楽しみのためならば?」
「楽しみ!」<中略>「言葉は真理のためにあるのです。事実のために。フィクションのためにではない」(2-15 上巻p94)
まるで自虐的なんですね。本書がドラマチックに読みやすくなってる原因がここにありそう。本書は真理のための作品ではないよ、というパフォーマンスみたいな。
 
ところで、ファウルズの経歴を調べると、ニコラスも彼の投影であることがすぐに分かるんだな。だから、コンヒスもニコラスもどちらも本質的には同一なのだ、と思うんですね。年老いた方と若い方。あるいは、素材になって実働する側と編纂する側。
ここで一つの謎が解けたような気がするんです。というのは、何故ニコラスは最後に「微笑む」ことを覚えはじめ、さらにあんなにウザいと思っていた「芝居」を自らアリスンと催さねばならなかったのか。この点がどうしても気になってたんですよね。それは、物語の中でコンヒスとニコラスが一つに収斂していくからではないのか、という見解になったのです。
 
おそらく本書の最も重要な主張は、自由(エレフセリーア)についての捉え方であり、その実践としての微笑み。ラブストーリーになっていくのは、若く何者でもない人生に絶望した青二才にとって、数少ない扇動されうる自由の実践場だからだと言われているように感じるんですよね。檻のない自由な劇場にどうやったら配役を留め続けるか。
もしも私設動物園を持つ人間がいるとした場合、その人間の関心は動物たちを逃さずにおくことであって、檻の中の動物に一々行動を指示することではあるまい。<中略>彼は自分の仮面劇にハイゼンベルグの原理を応用しているかもしれず、従って劇の大部分は観察者兼観淫者としての彼自身にも、被観察者である私たちにも不確定なのだ (2-49 下巻p42)
 
なぜ自由を中心に据えるかというと、コンヒスが重きを置いていたかどうかではなく、ニコラスという揺るぎない一人称が全編を通してはまり込んでいった視座であったと感じるから。本書全体の話の流れは以下の通り。
ニコラスはアリスンという選択をしないがためにギリシアへ向かい、何についても中途半端なことを憂いて自殺をしようとするけど、それさえ成し遂げられない。折しもブーラニ岬という迷宮に応じてしまいコンヒスの芝居に結局最後まで付き合うことになる。途中コンヒスは配役にアリスンを迎え入れ(パルナッソス山の旅行以降)、死まででっち上げる。最後にニコラスはコンヒスと芝居を認め、アリスンとの再会を果たす。
口が悪いのは勘弁してほしいけど、何度かアリスンとの関係をリトマス紙に、ニコラスの立場をフィードバックしてるような。
 
さて微笑みとは何かというのはコンヒスがトルコの遺跡の石像を見せるシーンで言及されてる。
「この微笑みには何か無慈悲なものがありますね」
「無慈悲?<中略>それは真理のためです。真理とは無慈悲なものですからね。しかし、この真理の本質や意味は決して無慈悲ではない」
<中略>
「ベルゼンを知っていたら、こんなふうに微笑できたでしょうか」
「かれらが死んだからこそ、私たちには自分らがまだ生きていることが分かります。一つの星が爆発し、この世界に似た数千の世界が滅びればこそ、私たちにはこの世界の存在が分ります。それがこの微笑みです。あり得なかったかもしれないものが今あるということ」(2-23 上巻p149)
コンヒス最後のセリフも微笑むことを学びなさい(2-62 下巻p194)だった。微笑むとは、上述したように実践の形なのだと思った。
実践と言うと、本書で一番良かったと思っているのは、コンヒスの感慨深い過去話なんですよ。2度の大戦とノルウェー森の神と会話する男の体験。どれも泥臭く、本物よりも生々しい老人の昔話。この人ボケてるんじゃないかと思いつつ、だとしても全く評価が変わらないような口伝え。この体験を経てコンヒスは微笑むことを学んだんだろうね。というより、泥臭い生の価値を認め、生活の指標をそちらにシフトすればこそ微笑みが必要であったと言うべきか。
 
これって日本で言うところの「諦念」に近いよなー。少し明るめの諦念みたいな。
そこには森羅万象を受け入れる視座が存在しているんじゃないかと。ところが自由というのはある選択、ある真理によって成る、みたいな感じで説得にかかるんだよな。その点少し現代風に脳内アップデートを推し進める必要がありそう。自由の意味が、あまりに達観していて、世の中との共生になじまないのではないか。
リリー・デシータスはこの芝居を「神様遊び」と呼び、さらには自身らが神様ではなく、芝居も遊びではないと言う(3-75 下巻p298)。この魔術的な芝居は十分に生々しく、微笑みにも至ろうが、別の側面から見ると、ますますフリーメーソンの入団儀式めいている。
まあ、これがイギリス貴族的スノビズムかもしれないけど、ちょっと確証がない。少なくとも、主張し、言及することは普遍的に意味のあることでしょうから。
 
例えば戦争が足がかりになった主張。イギリス的視点だから、第一次大戦の言及が興味深い。この辺日本的歴史観では盲点になる部分だし。というか、第二次大戦前に生まれた主人公に対して第一次大戦から出兵していた老人という対比自体がもはや現代では成立しない構図ですよね。
コンヒスが、エレフセリーア(自由)の章の前、二次大戦のエピソードの前置きとして極めて明確に言及するには
戦争とは、もろもろの関係を見ることができないところから生じた精神病です(2-52 下巻p85)
ということらしい。これだけでは、この意見に何とも甲乙つけ難いわけですが、コンヒスの素晴らしさはこれ以降の体験談にあるということです。
具体的には、一次大戦時の体験談が引用に耐えるでしょう。
そこで私は二人の人間に分裂しました――ひたすら見守る人間と、他人に見守られていることを忘れようと努める人間とにね。私たちは殺すことよりも、むしろ殺されることを習いました(2-18 上巻p119)
あるいはこう、
現在の私は分かっています。何らかの目的を達成しつつあるのだ、何らかの計画に奉仕しているのだという私たちの信念、それこそが虚偽なのです。何か偉大な計画が全てを押し進めているのだから、究極的には何もかもめでたしめでたしに終るだろうという信念ですね。現実はそんなものじゃない。計画など、どこにもありません。すべては偶然です。私たちを守るのは私たち自身だけなのです(2-20 上巻p129)
 
全ては偶然だというからには、ニコラスを選民に選んだ理由も偶然だし、芝居のエンディングは完全なる自由であった。ところが最後の最後までニコラスは魔術師とのゲームという体裁からのフィードバックに反応し続けた。エピローグがあったとすれば、おそらくそれが初めての自由というものだろうと思うけど、とりあえずその前まででパッケージされているのだった。
 
いくらニコラスがコンヒスと軸を一にしていくとしても、コンヒスがのたまうアフォリズムをニコラスのものとして考えることは出来ない。だから戦争についての言及、エレフセリーア、「王子と魔術師の寓話」(2-65 下巻p215)ほか、いくら完璧な自信に担保されたセリフであっても、本書を彩る材料であっても、本質にはなり得ないように思える。
冒頭のセリフは、その側面を踏まえて選んだものでもある。この愛についての確信は、まぎれもなくニコラスの体験から現れたものだから。この確信に相当する部分は、王子と魔術師の寓話で言えば、美しいけれども偽物の島を、偽物であるけれども美しい王女たちを、彼は思いだしたのである。(2-65 下巻p216)という一文の行間に含まれたはずのものである。ところが寓話とはその行間を挟む余地を与えてはくれない。それが小説の、神様遊びのパッケージングによる限界なのである。
 
そしてこれは、読者である(不特定多数の)私たちにも投げかけられていること。
 
「登場人物の言葉を鵜呑みにしても良し、調理するも良し」とはそういうつもりのことなのでした。建設的な意見を聞くことから、自分の意見は始まるのだ、とそういう風に思えたし、たぶんコンヒスもそういうつもりなのだと思うのです。