アウステルリッツ(W.G.ゼーバルト著 白水社 2003)

どんな因果によってかかつての所有者よりも長生きして破壊の作用を免れ、テレジンの小道具屋に打ち寄せられた装飾品や道具類や記念の品々もまたことごとくが時を止めているのであり、それらのあいだに、今、私自身の影が幽かに、あるかなきかに写っているのを認めることができるのです。(pp191-192)

アウステルリッツ

アウステルリッツ

 
※以下の内容には『アウステルリッツ』のネタばれが含まれます※「ジャンルを特定できない散文小説である」とのことらしいが、これは口頭伝承の口語書き下しなんだと思う。それもブルースのような類の。もしくは鎮魂歌。
 
とはいうものの、人に何かを訴えようというそぶりは全く見せる気がない。堆積したチリを見るような空気感の中で、がらんどうの空間に分散し、充満する静謐で潔癖な空想がただ広がっている。
本書の本体であり、語り手の側である人物アウステルリッツにとって本意であるかは定かではないけど、それは例えばヴァルヌーイ湖に沈んだ町の風景が体現している。
両親も、兄弟姉妹も、親戚も、隣人も、村民も、ひとり残らず深い水底に沈んでいる、まだ家に至り、そこの通りを歩き回ったりしている、でも口を利くことは叶わず、両の目を大きく瞠っているばかりだと、そんな風に思えてくるのでした。<中略>夜、冷え冷えした部屋で眠りに引き込まれる前には、自分も暗い水底に沈んでいるような気のすることがよくありました。ヴァルヌーイ湖の哀れな魂と同じく、眼を大きく瞠って、頭上はるか、幽かに射しこむ薄日を仰ぎ見ているような、鬱蒼と木の茂る岸辺に恐ろしげな様相でぽつんと立っている石塔の、さざ波に見え隠れする水影に目を凝らしているかのような気がしたものです。(pp052)
イライアスの父親の町があったヴァルヌーイ湖は恐らく想像より少し和平的移住が行われたであろうとは想定することができる。なぜなら、ダム湖であるから。しかし、子どものアウステルリッツにとってはこのような解釈なのであり、つまりアウステルリッツとはこのようなある種ナーバスな人物なのであった。
 
本書を一言でまとめるなら、
幼少期に孤児となった建築史家アウステルリッツが語る、アイデンティティを探る人生の回想録(進行形)
ということになるだろうか。
 
本書の大部分が壮年期を終える人間の回想録であり、それゆえ話題が子細の記憶のパッチワークのように飛散している。行間の無い密集した文字塊の中で、隣の文が30年前の話だったりする。
というわけで備忘録のために、これを年代順に並び替えました(アウステルリッツ目線)。
 
 
1934 アウステルリッツ誕生。チェコにて。
1939 「子供だけの特別移送」チェコからイギリスへ
   バラでの育ての親イライアス夫妻との生活(説教師の生活)
1946 ストーワ・グレインジ学校寄宿生になる(グェンドリンの病気が原因?)
   歴史の先生ヒラリーに学ぶ。自分の名前、孤児であることを知る
   上級寄宿生になってから、後輩ジェラルドとの交流
   休みがあるとジェラルドの家でアデラやアルフォンソの知己を得る
   コートールド・インスティチュートで建築史を始める
1957 パリで研究
   オックスフォードに進学
1965~ ジェラルドの事故死(「私自身の下降のはじまり(pp114)」)
1967 アントワープで「私」と初対面、数日連日で出会う
<<それから「私」はロンドンのアウステルリッツ研究室に何度か行った>>
1968 パリに研究のため滞在、マリー・ド・ヴェルヌイユと出会う
   獣医学博物館で倒れ一時記憶喪失になる
   オーステルリッツ駅でマリーとサーカスを見たり…
1972 マリーとマリーエンバートへ旅行
1975 「私」がドイツから手紙を送るが返事無し(この後連絡取らず)
1991 大学を早期退官、自身の研究をまとめようとするが…
   リヴァプールストリート駅でリュック姿の自分を思い出す
1992 大英博物館近くの古書店のラジオで「子供の移送」を知る
→  そのまますぐチェコへ発ち、ヴェラと会う。
→  テレジンや、子供の移送の経路を列車で追憶する
→  帰省し家の隣のクレメンテ病院に倒れる。庭仕事をする。
1996.11. 「私」と偶然グレート・イースタンホテルのバーで再会
<<ここから回想録が始まる>>
1997頭   2度目のプラハ、アガータの写真を見つける
1997.3.19 アウステルリッツの自宅に招待される「私」
<<ここで回想録と「私」との会話の時間軸がクロスポイントを迎える(pp243)>>
 
1997.9.  アウステルリッツの新しいパリの住所から手紙、会いに行く
その後   パリの国立図書館がオーステルリッツ駅に移籍
→     アウステルリッツの父親の消息あったとの連絡あり。
→     「私」はその足でもう一度アントワープに立ち寄る

 
思い出話の情感を蹂躙して整理してしまったけど、一方アウステルリッツとは、時間というものを疎みすぎるゆえに時間や過去といったものにがんじがらめになってしまった人であり、肥大化した概念が叫びとなってパッチワークが生成され続けている。
 
アウステルリッツアントワープ駅を評価するに、帝国主義時代の大きな国家事業の一つであり、最も高く中心部に置かれているものは時計であるという。
時計はアントワープ駅の中心点であり、<中略>いやがおうにも時計に合わせた行動をとらざるえを得なくなる。<中略>十九世紀の半ばに統一時間が導入されてからというもの、時間は疑いもなく世界を仕切っているのです。(pp012)
グリニッジでの「私」との対話の中でも、時間についてのブルースが物悲しい調べを奏でる。
私は時間が過ぎなければよい、過ぎなければよかった、と願っていたのです、時間を遡って時のはじまる前までいけたらいいのに、すべてがかつてあったとおりならばいいのに、と。<中略>私はあらゆる刹那が同時に並存して欲しいと願っていました。(pp099)
 
そうであるべき、というよりは願いなのだとここに来て理解する事ができるということなのでした。
くどいようだけど、もう一文アウステルリッツの時間についてのコアイメージを引用しておきたいです。時間についての願いがあるのだとすれば、その形而上学的な概念とは。
…私はだんだんこう思うようになったのです。時間などというものはない、あるのはだたさまざまな、高度の立体幾何学にもとづいてたがいに入れ子になった空間だけだ、そして生者と死者とは、このときどきの思いのありようにしたがって、そこを出たり入ったりできるのだ、と。(pp178)

具体的には、建て直し中のリヴァプール駅の中、新旧入り混じった空間のひずみのような場所で、自分の過去を思い出した経験などに象徴される経験則から生まれたものだろう。
面白いのは、そう言いつつ、話している場所がグリニッジだったりするところで、いくら時計を持たない主義だとか言ったところで、しっかり時間に束縛されているじゃないか!もちろん、本人も気づいてはいるけど。
 
ここへきて2つの考えが浮かんでくる。1つは、こうした時間についての考えは究極的には自身の過去にかかわっているということで、2つ目は、自身の思考と自身の身体のある空間を同一視しているということ。これを1つずつ考えていきたい。
 
1つめ;時間にしても建築史家的な知見にしても、あたりまえだけど全ては自身の経験に結び付くものであって、とりわけアウステルリッツについては、家族がWW2時代の動乱にユダヤ人として巻き込まれていった過去に強く結び付いているといえる。だからこそチェコを訪れテレジンや「子供の移送」の経路をたどってみる。
 
2つめ;これは話が飛躍しているかもしれないが、アウステルリッツにしても「私」にしても、動物やモノによくスポットを当てているように思う。自身を覆う空間の表情が自身の表情であり、逆に自分の思考の中に時々ちらつくものが即ち、入れ子になった空間の間で干渉するものとして表出するというような。相互に影響する有機的な状態というか何というか。
このレバー色をした瘡蓋に覆われた柱頭の入り組んだ形を、ほんとうに一九三九年夏、子供の移送でビルゼンを通過した私は憶えているのだろうか、ということであるよりは、ばかばかしい考えながら、肌をかくも瘡に覆われてなにやら生き物めいてきたこの鋳鉄の柱のほうこそ、むしろ私を憶えているのではないか、(pp214)
 
この2つの点がまさに可視化される形で示されたのが、冒頭に引用したテレジンのショーウィンドウに映るアウステルリッツ自身の姿だったように思えるし、果して本当はどちらもアウステルリッツの頭の中だけの出来事かもしれないとも敷衍できる所まで考えが及ぶ中、ゼーバルト作品の特徴である写真、ショーウィンドウの写真が載っているわけです。
 
アウステルリッツにとっては、「私」とのグレートイースタンホテルで約20年ぶりの再会の瞬間も、やはり同様に過去から現れた自身の記憶のように感じただろうと思う(pp044参照)。
父親の痕跡を探しているパリでの話がこれを裏付けているように思われる。
何十年間と少しの変化もないひっそりした裏庭などをのぞきこむと、<中略>私たちの生のあらゆる瞬間がただひとつの空間に凝集しているかのような感覚をおぼえる。まるで、未来の出来事もすでにそこに存在していて、私たちが到着するのを待っているかのようなのです、ちょうど私たちが、受け取った招待に従って定まった日時に定まった家を訪れるのとおなじように。(pp248)
 
話は変わってしまうけど、建物についてもアウステルリッツは独自の考え方を呈示してくる。それは、アウステルリッツの自己の投影が大きな無生物にも及ぶからなのか、空間に根付いたものだからなのか、単に建築史家だからなのか、その全てが入り混じっているからなのでしょう。
例えば、ベルギーのブレーンドンク要塞が兵法的に理想的要塞である一方実践では一切使われなかった経緯と共鳴するように、ユダヤ強制収容所として果した機能と、テレジンの街が重なるようにページを追うごとに誘発されていくしくみになっている(これはアウステルリッツではなくむしろゼーバルトの仕業と言えるけど)。
 
この国の建物でふつう以下の大きさのもの―たとえば野中の小屋、庵、水門のわきの番小屋、望楼、庭園の中の子供のための別荘―がいずれも少なくとも平和のはしくれ程度は感じさせてくれるのに、<中略>ブリュッセル裁判所のような巨大建造物について、これを好きだという人は、まともな感覚の持ち主にはまずいないでしょう。驚くというのがせいぜいのところで、そしてこの驚きが恐怖に変わるのは、あともう一歩なのです。なぜなら、途方もなく巨大な建築物は崩壊の影をすでにして地に投げかけ、廃墟としての後のありさまをもともと構想のうちに宿している…(pp018)
 
このセリフは1967年アントワープでのものだけど、アウステルリッツの生涯で後にこれを自ら体現するかのような出来事が記されていて、予言めいた発言なのだった。それはオーステルリッツ駅のあたりのこと。
唯一伴侶になり得たかもしれないマリーと見た小さなテントのサーカスがあったあたりに、近年国立図書館が移転してきた。これによって、オーステルリッツ駅がユダヤ人から没収された物品の倉庫であった歴史が抹消されてしまっただけではなく、アウステルリッツの2つの思い出(マリーと出会った国立図書館とサーカス)までもを失ってしまったのであった。
巨大であるということはパワーということ。幽霊のような人間であるアウステルリッツにとって、記憶が留まることの許される場所が減っていってしまうことは本能的な危機だし、少なからず記憶に生きている私たち皆に及んでいくものだということなんでしょうかね。
 
幽霊のような語り手アウステルリッツという人のこの後、つまり、アウステルリッツの幸せとは何なのだろうか? 
アウステルリッツが幸せそうであったのは、3つの場面だった。1つ目はジェラルドやアンドロメダ荘での生活。2つ目はマリーと見たサーカス。3つ目は記憶の彼方、ほとんど空想上でのチェコの家族。
 
本書の最後、アウステルリッツは「私」との別れ際にこんなことを言っている。これまたオーステルリッツ駅について。
この駅は、とアウステルリッツは語った。かねがねパリでいちばんの謎めいた駅だと思っていたところです。<中略>こうしたことがすべて何を意味しているのか、とアウステルリッツは語った。私にはわからない。だから父を、そしてマリー・ド・ヴェルヌイユを探し続けます。(pp278-279)
 
空間に何か痕跡やヒントが隠れている、という陰謀論めいたプロセスは、もはやアウステルリッツにとっておなじみの方法論であった。オーステルリッツ駅に何を見出すかについては多く語られていないが、マリーと、父と、「私たちの生がひとつに凝集される」ための出発点としてふさわしい空間だと思っているに違いないんじゃないか。
記憶に生きることというのは、誰かを渇望するということに類似している。
 
過去の幸せの中で、ジェラルドたちは未来のこととしては想定されていない。
もちろん、もうアンドロメダ荘には誰も集まらないことが分かっているからではあるのだけど、そればかりでなく、イギリスという場所のよそよそしさと、案外、アントワープで「私」と出会う前後あたりで丁度アウステルリッツの人生のフェーズが分断されているからではないかと思う。
 
と、ここまできて盲点だったために気付かなかった単純なことを思い出した。
1996年にグレートイースタンホテルのバーで偶然に「私」と再会したことは、まさに「生がひとつに凝集され」たような状態だったのではないのでしょうか。
「私」はなにもしていないように見えて、結構アウステルリッツの人生に関与することになっていった。かくも人の出会いとは不思議なものだということでしょうね。
そしてだれも望んだような形にはならず、思いもかけないところが繋がっていく、とも。