黒い時計の旅(スティーヴ・エリクソン著 福武書店 1990)

二十世紀の外に?と彼女は考え、父親の胸の内を思ってぞっとした。「でも秘密の部屋には何があるの」と彼女はそっと訊ねた。しばらく間をおいてから、父はようやく「良心だ」と答えた。 <中略> 優しい眼差しで、彼女は父親の狂気を見つめた。この人は二十年間、これが二十世紀の見取図だと信じてきたのだ。どこかにその良心の隠し部屋があるはずの、二十世紀の見取図だと。(92章 p178)

黒い時計の旅 (白水uブックス)

黒い時計の旅 (白水uブックス)

(私が読んだのがuブックス版ではないので、引用ページ数は参考にならないでしょうけど、一応記載します…)
 
※以下の内容には『黒い時計の旅』のネタばれが含まれます※

この作品の特筆すべき素晴らしさは、何と言ってもヴィジュアル的な美しさにあるように思えます。死人が出ると死体を木にぶら下げるチャイナタウンでは、製氷機が年中音を出し続けている。なぜヴィジュアルが美しく機能しているのか?
おそらくそれは、本書が因果律での結び付けから解き放たれて、でもモンタージュに支えられているからではないか。そこには、1つ1つの作者のドグマが埋め込まれているからではないか。そう思えてならないのです。

「あたしが踊るたびに、いま誰かが死んでいる、とあなたは思ってた。でも全然そうじゃなかったかもしれないのよ。<中略>あたしが踊るのをあなたが見るたびに誰かが死んでいたのかもしれないのよ」(102章p214)

これは統計学上で気を付けるべき誤謬として良く知られているけれども、物語はこの誤謬と相補関係にある。だからスティーエリクソンは違う方法で本懐を積み重ねていった。
紙が破れそうだと思った時、セロテープを貼るでしょう。傷より少し大きめのセロテープ。そして時が経ち、古びたセロテープの上からさらにセロテープを重ねる。それはもとのセロテープからはみ出した形で重ねられるのです。こういった感じで堆積した厚みで覗く虫めがねのようなものとしてのモンタージュ
 
この辺で一度本書の流れをまとめておくと、大きくみて三つの区切りとして捉えられるでしょう。
1.チャイナタウンと本土の境界を生きるマーク
2. バニング・ジェーンライトの半生
3. デーニアの半生
 
一言でお話を表すとすると、こんな感じ。
Zのための物語を起こしたジェーンライトが、Zへの恨みを具現化するためにデーニアを懐妊させマークが生まれる話。 
各人の詳細は以下の通り。
 
【ジェーンライト】
養子として不遇な生活をした後、ひょんな義理兄弟のいたずらから実の母親がインディアンであることを知る。家を燃やし、恐慌時代のニューヨークを裏ルートで登り詰め、顧客のついた作家となる。親殺しの指名手配でウィーンに亡命し、結婚子どもをつくる。顧客Zを取り巻く環境のせいで妻子を失う。
時が経ち、イタリアでの幽閉生活でZの存在に気づく。漁師のジョルジョの助けでZと亡命を果たす。遂にニューヨークに至り、デーニアの父親の青写真を手にする。ニューヨーク時代の事務所でヒントを得てダウンホール島に至る。
 
【デーニア】
ロシアから亡命した父親とスーダンのプヌドゥールクレーターに住む。銀の短い毛の牛が現れ、母弟を無くし、ウィーンに住む(ダンススクールでホアキンと出会う)。父親がスパイのライメスに殺され、自らもライメスを殺める。戦争が終わり、ホアキンに招かれロンドンのバレエ団に移り、ニューヨーク遠征をする。ホアキンとポールが死んだことをきっかけにしてダウンホール島に移る。探偵のブレーンがデーニアに会いに来るが、ジーノに殺される。ダウンホール島で懐妊する。
 
【マーク】
子どもを産むような年ではないデーニアから生まれた。ジェーンライトの死体を部屋で見て、ダウンホール島を出ることを決意する。島を離れられず、ジーノの舟で生活を続けるが、壮年期のある日、青いドレスのカーラと接触し、デーニアに会いに行く運命となる。また、デーニアの死後にはカーラの後を追い、島を遂に永久に離れることとなる。カーラの死後、北極圏を抜け20世紀の初めに到達し、死を迎える。
 
張りつめた糸が一気に一つの死に向かって動き出すシーンは、どれも凄まじく統制されたエネルギーを感じて、本書の良さの一つなんだけれど、良い作品には良くあることだけど、捉える命題の多さが枚挙にいとまがないので、いくつかを抜き出して考えられればなぁ、と思います。
 
まず、1つの重要な気付きがあります。それは、デーニアは様々な中間媒介者でありながらにして、全ての因果律から隔たれた、部外者であるというところ。彼女が生死にかかわる時、それは彼女の知らない所で進められるものであったと言えます。デーニアは自分の子どもが何故自分の体から生まれてきたのか、ついぞ知らずに終わったとも解釈できるのです。
彼女のとって、彼はいわば理論上の子どもという感があった。自分の想像力が生んだ途方もない虚構を見守るかのように、彼女は子供を観察し、吟味した。(2章p006)
皆が当てつけのようにデーニアを利用するが、間接的な交わりによってデーニアの意志が曲げられるということもない。デーニアは幸福な人生を送ったわけではなかったけど、結果的に誰かに人生を踏み倒されたわけではなかったように見える。これは見かけ上の事なのかもしれないし、実際にはかなり際どい部分もあるが、その意味では彼女は普通の20世紀の亡命者だったと言えるかもしれない。
一つだけ、彼女がライメスを撃ち殺したとき、何を思っただろう、と考える。土壇場で銃の引き金を引く度胸のある人間は、運命への使命感を背負うことが出来る人であっただろう。そこに幼少期のライメスとの思い出がオーバーラップするとすれば、それはデーニアの記憶とは関係のない、潔白な第三者のパズルゲームにすぎないんじゃないかな。
 
デーニアは親の仇をその場で晴らすことが出来た。その場に立ち会う事が出来たからであるし、全世界の人類の中で、親を殺した人間はライメスただ一人だったからであった。母弟への弔いはあくまで形式的な物に過ぎなかったはずだと思います。
ところが、ジェーンライトはそうはいかなかった。妻と子どもを殺したのは、人ではなく構造だったからなのだった。
もう生きるために書く必要はなくなったが、今度は復讐のために物語を書くことにしたのであった。すなわち、ジェーンライトはZにとっての神になることにしたのであった。
ところが、ジェーンライトは図らずも、Zを支配する、という領域を越してしまったのだった。実際にデーニアが懐妊したのであった。
結局のところ、たったひとつのちっぽけな命を仕返しとして絞殺することができるにすぎないのだ。それではとても復讐には足りない。<中略>おのれの悪を忘れてしまった男を殺して、それが何の復讐になるだろう?(112章p226)
最終的に、これを敷衍すれば、やはり何のかんのと言ったところでデーニアの子どもを殺すことは出来ない道理であった。これは、彼が神に一歩近い立場で強いられた分別でもあったと思う。
 
一方密度の高い感情が詰め込まれた胎盤で育ち生まれたマークはこう思うわけである。
だが、あの初めての瞬間、霧が四方から追って水と蒸気以外には世界に何ひとつなくなったあの瞬間、新しい船長は老人のことをまだ忘れてはいなかった。一人取り残された彼は、僕は宇宙のどこにいるんだ?とみずからに問う。だがそれはいままでいつでも問いえた問いだ。生まれてずっと、彼はチャイナタウンという名の、水上に漂う船の上にいたのだから。(10章p014)

全ての人と同じように、彼が何者であったかは分からないのである。分かっていることは、彼はジェーンライトの人生の後で、20世紀をさかのぼり、百の幽霊たちの記憶がふわふわと漂うように空へ上がってゆき、ついには空しく破裂(164章p281)したのであった。
しかし、これはダウンホール島で洪水が起きた時に地表から流れ出たたくさんの死体たちと同じで、それをマーク少年は見届けているところは興味深いところなのだった。
 
また、マークを結果的に牽引した青いドレスの少女カーラは何であっただろう。これがまた分からないのである。カーラはダウンホール島には「埋めるために来た」のだけど、何だろう。
ジェーンライトはとっくの昔にデーニアが埋めてしまったし、デーニアを埋めたのもマークだった。もちろん、カーラがきっかけを与えたのではあるけど。
とすると、やはり二つの20世紀の溝を、と考えるのが妥当だろうか。
だとすれば皆が成り行きで関わっていった20世紀に対して、カーラは唯一的を見据えた上で行動した主体だと言えるだろう。ところが、マークだけではなくテキストにおいてもカーラを見つけることは難しい。何かを埋めた彼女自身は、展望台のもと、意図的に埋められなかったということが分かるばかりである。
極まっている場の流れを、先導する一点の特異点は物語の主役になり得ない。それは光のように質量のないただの軌跡である。
 
大局を振り返ってみると、ジェーンライトが20世紀への言われも無い恨みを背負った所からのスタートなのだと改めて感じさせられる。この大男の受けた150km/hのレシーブ。ジェーンライトを責める気になれないのはこういった事情もある。つまり、本書全体が20世紀の鎮魂歌であると同時にジェーンライトの鎮魂歌でもある、とそう思う。
 
青写真の事もかなり気になる。
ロシアから亡命する時に持ちだしたデーニアの父が世界に残していったものである。父だけでなくデーニア自身も見つけられなかった「秘密の部屋」をジェーンライトが見つけたというのは大いなる皮肉である。さらに、Zに与えられたメモとなることはもっと大きな皮肉である。
説明でも墓碑銘でも弁明でもなく、ただの謎を書く。"Aber ici liebte sie.(だが私は彼女を愛していたのだ)―A.H."(151章p268)
良心。
 
ジェーンライトの世界とデーニアの世界が交わったことは、実は少ないのではないか。ジェーンライトとデーニアの交わりはいつでもどこでも、といった感じがあるので混同しそうになってしまうけれども。
デーニアに白いあざが出来た時でさえ、2つの世界は形而上的な交わりしかもっていなかったように思えるのである。ジェーンライトが中年になって、20世紀がピークを越えてからやっと世界が交わったかのようでもあるが、初めの形而下での交わりは、妻子を亡くしたジェーンライトの散歩の先、もはや誰もいないデーニアの住んでいた家だろう。
 
そして意外とその次は青写真の忘れ置かれた部屋かなぁ、と思う。ジェーンライトの作業部屋でありブレーンの事務所部屋。このあたりから、つまりZが死に絶えてからは、急ピッチで二つの世界は距離を縮めていくようだ。
と、いうのはいかにも私たちが望みそうなシナリオであって、もしかすると世界が交わる本当の理由は、誰も見つけられなかった青写真をジェーンライトがたどることが出来たからなのではないか。そう思うのも悪くはないと思うんですよね。
 
だって、多くの人が真に求めているのは、独裁者の死にざまではなく、良心の隠された秘密の部屋のはずですから。