V.(トマス・ピンチョン著 新潮社 2011)

独りで追っていったワニのことを、プロフェインは振り返ってみた。そいつは、みずから歩をゆるめて追いつかせ、自分から求めるように撃たれていった。なにか取り決めでもあったのか。(中略)プロフェインはワニに死を与える、ワニは彼に職を与える。それでイーヴン、恨みっこなしと。プロフェインにワニは必要だが、ワニはなぜプロフェインが必要だったのか。その原始的な脳の回路に、記憶と理解が生じていたのか。子供のころ自分たちはただの消費財で、財布やハンドバッグになった両親や親戚のおじさん、おばさんたちと一緒に、世界中のデパートで、あらゆるガラクタと一緒に陳列されていたことを憶えていたのか。(中略)望みは、元の自分たちの暮らしにある。それを叶える完璧な形は死ぬことだ。死んで、ネズミ職人の歯によってロココ様式の死骸になることしかない。(6章pp218)

※以下の内容には『V.』のネタばれが含まれます※
 
 
 
前置きが長くなりそうだから結論から言うと、プロフェインにもステンシルにも繋がるパオラを中心にしてこの話をまとめてみることにした。すると、
マルタ生まれのパオラは、アメリカ海軍の夫パピー・ホッドの家を抜け出してヤンデルレン生活が始まるが、ヤンデルレン生活の半面であるマクリンティックの娼婦仕事の中で気付きを得て、プロフェイン、ステンシルと共に母国の父を訪れ、夫と復縁する話
ということになるかのようだ。
 
いや、まてまて、と思われるだろう。
実体としては、
1956年現在アメリカ。ヨーヨー運動をし続ける木偶の坊(でも女の子達にモテモテ)プロフェインと、幻想の過去世界をトリップするステンシルが交差し、マルタへ向かい、またそれぞれの性分通りの生活が始まる話
という方が近そうだと思う。
でも、これでは何だかさっぱり分からないという状態である。読者が勝手に主役だと思っていた人たちが、解決して欲しかったことを解決してくれず、要らないことばかりが進んでいくという印象が拭えないのが本書の特徴のように思える。
 
そもそも、主人公(?)2人を追って最後まで付き合ったとき、どんな感想になるだろう?
彼らがフェードアウトする画面の右下には「to be continued...」と見えてくるのではないかと思う。スターシステムのヒーロー達に問題の解決を促すことはお門違いということなのかもしれない。
と、いうより友だちとバーベキューしてたけど、1ヶ月後友だちの友だちもバーベキューに参加しました、というようなテンションを作り上げる名手の木偶の坊プロフェインと、それにバランスを取る形でシリアス(でサスペンス)な過去の話・歴史の話が挿入されていく温度感でバテてしまいそうになる。
幸か不幸か、全体をまとめる際に必要な主要人物というものはほとんどいないようだ。あとはどの文脈を本線とするかにかかってるというか、とにかくゆる〜く有機的に繋がっている。
 
本書で考えたいことと言えば、ぼんやりとしたストーリーの中に突然強固な意志をもって現れる頻出ワードや概念について。しかし、理詰めでこれに対応するのは難しい。なぜなら、同じフレーズが場合分けされてしまったり、曖昧で矛盾含みのように見えたりするからだ。
そもそも本書の特徴として、発言の妥当性を1文ずつ疑わなくてはならないという部分があって、それがギリギリの緊張感で続いて行く。だから水掛け論にならない抽象度でまとめるのが丁度良い気がする(なお、2011新潮社版下巻のあとがきにはV.の一生?という項目があるので便利である)。この話をパオラの話として組み立てる理由の2つ目はその妥当性に関するもので、ステンシル父の話のどれが真実か全く判別出来ない一方、パオラの父ファウストの意見はほぼ信用出来るという私の判断によるものでもある。
 
とにかく頻出フレーズをひとつずつ見ていきたいと思う。
 
まずは「ツーリズム」
一体何ゆえに、彼らは年々その数を増やしながらトーマス・クックの代理店に詰めかけ、ローマ平原の熱病やレヴァントの不潔やギリシャの腐った食物に身をさらすのか?異国の地の皮膚だけを愛撫して遍歴するツーリスト、(中略)都市を愛してまわりながら、愛人の心については何一つ語れないドン・ファンなのだ。(7章 pp274)
ゴドルフィンフィレンツェでの独白。もちろんレジャーとしての旅行客なのだが、人生をかけた陰謀と向き合う者(ピンチョンもかな?)からすれば子供がスタンプラリーをこなすのと同じように見えるということでもある。
ところが、話が進むにつれて、このような解釈も出はじめる。
自分たちの愛がツーリズムの1ヴァージョンに過ぎないことにさえ思い及ばなかった―クッションとベッドと鏡に取り囲まれた二人の時間に旅行のような「時間配分」は存在しないとはいえ、これはこれで観光旅行のようなものだ、ということに。世界を観光して回る者は、それまで展開してきた世界の中に自分たち自身の世界を持ち込み、ついにはそのパラレル・ソサエティを世界の全都市に蔓延させてしまう。(14章 pp630)
V.の創ったフェティッシュも持ち込みであり…と続く。これがピンチョンの世の中に対する嘆きの出発点なのではないかと思う。1をきいたら6〜7わかるのに、何を汗水たらさなくてはならないのか、という戸惑い。
 
次の頻出ワード「<シチュエーション>」
「ツーリズム」が個人の主観についての問いかけだったとすると、これは社会の主観への問いと言えるかもしれない。
<シチュエーション>なるものに客観的リアリティはない、というのが、ステンシルがずっと前に達した結論だった。<シチュエーション>とは、その場でたまたまそれに関わりを持った人間の思考の中にのみ存在するのだ。複数の人間の思考の寄せ集め、あるいはくみあせが<シチュエーション>であるからには、それが均一ではなく雑種性を帯びるのは当然(7章 pp282)
<シチュエーション>は父ステンシルのキーフレーズである。
ゴドルフィンから「ヴィーシュー」という陰謀のコードネームが出てきたとき、よし!これを追いかければいいんだな!と思わされるが、その先は行き止まりだ。何故なら<シチュエーション>の要素でしかないからだ。たまたまV.たち(つまり子ステンシルの筋立て)にとって大事かのようであるが、ヴィーシュー自体が真理の解決や不特定多数の人々が欲しがるような何かではないということである(cf.7章pp253,pp306~307)。
普通の小説であればここで父ゴドルフィンの人生総括くらいには用いられてもいいだろう。しかし父ゴドルフィンは自らヴィーシューへの執着を否定し、その後は若い頃のフォプルの代弁者として綺麗にバトンタッチしていき、外様関係者のV.や父ステンシルにしこりを残していく。
 
 
 
そして社会性と個人は接触するわけである。
シェーンメイカーの例が包括的な洞察になっているので少し長いが引用してみたい。シェーンメイカーがいかにしてレイチェルに非難されるような「悪徳」形成外科医になったのか。
最初の内は、ハリダムへの憎しみとゴドルフィンへの愛の名残に動機づけられていた。次に生じたのが「使命感」だったが、こちらは愛や憎しみに比べて脆弱なものだから、堅固な支えをあてがわなくてはならない。そこに割り込んできたのが、形成外科医学の「あるべき姿」をめぐる覚めた諸論理であった。(中略)世の中を見れば、政治と機械が結託して戦争を遂行している。機械と化した医療に見捨てられ、後天的な梅毒の症状を悪化させていくものもいる。(中略)しかし、それらを取り除くことができるだろうか。その存在は、すでにありのままの現実の一部を成しているのだ。現状を肯定する怠惰な思いが、シェーンメイカーの精神を冒すようになった。これを一種の社会的意識の成熟と見ることはできるだろう。だが、その意識があちこちで社会と結託するうちに、あの兵舎の晩、軍医に向かって思いのたけをぶつけたときの壮大な怒りは交代を余儀なくされた。目的の瓦解―これもひとつの腐敗である。(4章pp150)
 
余談ではあるが、このゴドルフィンとは、子ゴドルフィンであり、ヴィーシューの父ゴドルフィンの息子である。全く関係が無いはずだった世界線上で、微妙にボタンを掛け違い続けるのが本書の一つの特徴である。
 
シェーンメイカーを土台にしてファウスト・マイストラル1、2、3、4の変遷に言及できるだろうか。第11章「マルタ詩人ファウストの告解」は本書で最も難解な章ではないだろうかと思う。でも上述の通り、本当のことを言っているクレタ人…ではなくマルタ人のファウストを道しるべにする必要がありそうだ。
 
ファウスト1からファウスト2へ、そして限りなく3に近づくまでの変遷は、シェーンメイカーと同様に社会の要請のようなものによって切り替わっていった個人意識の変遷である。
マイストラル2がやってきたのは、娘よ、おまえと共にであり、戦争と共にだった。おまえの誕生は計画外であって、ある意味では悔やまれた出来事だった。(中略)我々が詩的に想像した「運命」は、より深くて古い貴族的任務にとって代わられた。我々は建設作業に従事していた。(11章pp463)
ここまでは言わば「人間の法(cf.11章pp490)」の影響で自身を変化する必要に迫られたという話だった。
 
 
 
話をすすめると、ファウスト3はもっとも無人間性に近い(11章pp463)だという。ここからは「神の法」の領域すれすれになっていく。
廃頽、衰亡。デカダンス、その本性は何か?死に向かっての、あるいはむしろ無人間性へ向かっての、明確な歩み。それだけだ。ファウスト2〜3は、マルタの島とともに無生命の度をましてゆくにつれて、枯葉や金属片のごとく物理の法に従属する時に近づきつつあった。(11章pp490)
デカダンス」というのも頻出ワードのひとつで、ヤンデルレンの様相や、1922旧独領南西アフリカで出てくるフォプルの屋敷の不夜城パーティーデカダンスの現象の現れである。物語終盤ここにきて、否定的ではない何ともニュートラルな定義として登場するのである。ここにV.が晩年に近づくにつれて身体パーツを無生物に入れ替えていく展開が重なってくる(行きつく先が人体研究アソシエーツのSHROUD人形なのだろうか?)。
 
さらにファウストの議論は、必ずしも無生物は「神の法」に含まれず、「アクシデント」こそが神の領域だ、と続いていく。
無生物のほうへと漂いながら学ばされるのは、生の唯一の教訓―人の生には、正気で耐えられる限度を超えた偶発性(アクシデント)に満ちているということ。(11章pp488)
 
 
 
ところで、(おそらく時系列的には)ファウスト2の時世にマルタ人は、マルタ島自体を岩の子宮とみなす世界観の中で「全島的交感(コミュニオン)」に全体が突き動かされていたという。コミュニオンという言葉は聞きなれない概念だったが、私の理解したかんじだと、体系性のある以心伝心のようなもののようだ。
「コミュニオン」が無生物であるファウスト3の時世にもあったかというと、ちょっと分からない。そういった文脈でのメッセージは見つけられなかったからだ。ただ、私は「コミュニオン」は無形のものだとはいえ、人間の法のモノ扱いするのが、より文脈に近しいのではないかと思った。
なぜなら、子ゴドルフィンはヴィーシューをとりまく政治について「これって一種の霊的交感(コミュニオン)ですよ」と言っているし(cf.7章pp288~289)、子ステンシルの総括?も下記のとおりである。
ツーリズムはカトリック教会のごとく国境を越えた存在なのであり、おそらく我々がこの地上において知っている最も絶対的な霊的交感(コミュニオン)である。というのも、アメリカ人であれ、ドイツ人であれ、イタリア人であれ、エッフェル塔やピラミッドやジョットの鐘楼によって全く同じ反応を惹起されるからだ。(中略)彼らこそストリートの信徒なのだ。(14章pp627-628)
 
 
ここで一つの疑問がわいてくるのだが、冒頭で紹介したワニ狩りの話はコミュニオンの話だろうか?
 
 
ワニ狩りの解釈についての感想は、率直に言えばブラックユーモアさを感じる。その発想は無かったという感じ。
そしてこの話は同じ構造の繰り返しの、父ゴドルフィンが無意識下で代弁するフォプルの話としてもう一度現れる。
ここが本書の中で最も衝撃的な叙述だと思う。下記に引用してみたい。
この行為の最中だった―後で聞けば、フライシュも似たような感覚に襲われたという―今まで体験したこともない、奇妙な安らぎが訪れて彼を包んだのは。想像するに、あの死んでいったクロンボが魂を手放したときも同様の安らぎが得られたんだろう。いつもなら、こっちはいらだちを感じるのがせいぜいなのに。(中略)あのクロンボと自分とが、そして自分と自分が今後も始末しつづけなければならない土人の全員が、整然たる一線につながったんだ。定められたシンメトリー。
(中略)
道端で野生の玉葱を掘っている婆さんに出くわした。コニッヒという名前の兵隊が馬から飛び降りて撃ち殺したのだが、引き金を引く前に銃口を額に当てて「殺す」と言うと、婆さんは目を上げて答えた。「ありがたいことです」(9章pp397~398)
 
この様子がどのように分析されているかと言うと、
感情ではあるまい。人間の「感覚」と呼ばれるものの麻痺を伴っているのだから。「任務遂行のための黙契」とでも言えばいいのだろうか。オペレーショナルな共感とか。(9章pp394)
どちらかといえば、人間の法の問題だろう。その意味では「コミュニオン」のような状態と極めて似た状態なのではないか?
 
しかし、別の言い回しでは、無頼の行いのランダムな連続(9章pp410)、アフリカ的だった「政治的エピファニー(9章pp411)とも表現されている。これはまさに神の法治下に照らし合わせた様子ではないか。ワニ狩りもプロフェインの主観ではエピファニーのように描かれているのである。
これが、不思議なことに、ヤンデルレン生活やどんな登場人物たちよりよっぽど快活に描かれていて読者として戸惑いを感じるのである。
 
 
この矛盾しているが、実際に作中で起こっている状態をどう解釈しなければならないだろう?
この問いは、「ツーリズム」や「<シチュエーション>」に対する姿勢を通して考えるに
 
なぜ無秩序で起るはずのない出来事が予定調和的に起りうるのだろうか? 
という問いに変換することができないだろうか。 
 
 
これは、秩序というものが状況より先行することはありえない、ということなのではないだろうか。
つまり、予定調和的に起っているように見える出来事は、まず無人間性と相対性がある中で(唯物論的だ)アクシデントが起こるという順番のみがある。それは運か実力によって結果が現れる性質のものと混同されてはならない、と言う風にも言い換えられるかもしれない。
魂と魂のあいだの出来事を神は直接に支配しないのだ。それは運か実力か、いずれかの影響下にある。(3章pp115)
 
更に別の角度からいえば、出来事として現れた何かが交わって出来た点(秩序的要素)を繋いで、地軸の頂点もしくは20世紀という山脈の頂点に向かって組み上げていってもそこにあるのは虹色*1の無秩序だと言えないか。
 
 
ここで一気にパオラに話を戻そう。
ファウスト曰く、マルタの子供はファウスト3が獲得することになる原型を自然に持っていて、しかもファウストのように断絶した人格になっていなかったという(11章pp506)。
我々の過ぎ去った跡には、どんな怪物が誕生するのか…(中略)どんな怪物が、か。我が子よ、おまえはどんな怪物なのだね?(11章pp469)
 
言うまでもなく、パオラは50年代である現在を生きなければならない。そこは爆弾を避ける「地下」もなく、無人間性とだけ純粋に向き合うことのできる「温室」もない、20世紀と言うストリート(11章pp494)があるのみだ。
パオラは、マルタの女神マラのように(cf.EPpp707~709)、七変化を繰り返しながら器用に生きる怪物となったのだった。
似顔絵はパオラの手描きだ。(中略)「ウィンサム、カリズマ、フウ、わたし、<Vノート>。マクリンティック・スフィア、パオラ・マイストラル」固有名詞しか書いてない。この子は固有名詞だけの世界を生きている。人と場所。モノはない。誰もモノについて教えてくれなかったのか。レイチェルはモノだけで手一杯だというのに。(2章pp072~073)
 
アイヴィー出身のお嬢様も魅力的だが、社会的<シチュエーション>に固定されない、そして「世界の中に自分たち自身の世界を持ち込*2」まない、そして人格が分離しない、そんなある種の理想的なあり方を夢想出来るのではないだろうか。21世紀、これが先験的な姿の一つであると今まだ言えるかどうか、本書のどの部分に妥当性を感じられるか、そうした事を考えるに値するだけの主張が盛り込まれていたと感じられた。

*1:ヴィーシュー

*2:「ツーリズム」箇所参照