モロイ(サミュエル・ベケット著 白水社 1995)
私は彼女を理解するより、おうむのほうをよく理解したということだ。おうむは、ときどき、この売女の、助平の、糞たれの、たれ流しと言っていた。<中略>ラウスは、かわいいポリーちゃんと言わせようとこころみていたが、どうやら手遅れだったと思う。おうむは首をかしげて考えていてから、言った、この売女の助平の糞たれのたれ流し。おうむが努力しているのはよくわかった。(p052)
- 作者: サミュエルベケット,Samuel Beckett,安堂信也
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1995/08
- メディア: 単行本
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※以下の内容には『モロイ』のネタばれが含まれます※
読み始めてすぐに文学というものの解体が行われることが分かるが、そこが素晴らしいというわけではない。こんな小説なのに感動的だということに名状しがたい素晴らしさを覚えるのだ。
そして感想のまとめを書こうとするじゃないですか。ところが、まとめるとは何だろう…?その結果私の心はしばらく冬眠することとなったのです。その間日々に忙殺される中で、ここのところやっと発酵してきたように思われるのです。
これほど出来事を追う事の意味を成さない小説というものも珍しいでしょう。ひとことで本書の進行を説明するならば、
第一部モロイ編:モロイの回想録。母の家に向かって町を徘徊する最後の周回について。
第二部モラン編:モランの回想録。モロイを探す任務を受けたモランが、息子と共に旅をする。バリーの目と鼻の先まで来たがモロイに会えず帰還命令を受け、家に帰宅するまで。
まずこの大きなプロットのなかに因果関係というか意味を見出すことは難しいだろう。というより、回想者(主人公?)のありとあらゆる同一性をわざわざ崩しにかかったり、興ざめな忘却の茶々を挿入してくる。
第一に、正直ゆえに信用できない語り手となってしまっているのである。
この文章は精神錯乱ぎみだ、しかしかまわない。私にはもう、自分がなにをしているのか、なんのためにそうしているのかよくわからない。<中略>それに、だれに隠すのか、あなたがたに?なに一つ隠せないあなたがたに?(pp064~065)
今書いたような動きを松葉杖の助けなしにしたのを妙だと思うかもしれない。私も妙だと思う。だが、目がさめたばかりのときは、自分がだれだかすぐには思い出さないものだ。(p053)
読者のお楽しみ(?)であるところの殺人ミステリも入ってくるのだが、こんな具合なので殺され損と言われても仕方ないだろう。奥行きの無いミステリ=意味の消失がダメだしのように描かれる頃には既に我々はモロイのペースに持っていかれた後である。
では、モロイやモランにとって大事な物は何だっただろう?
モロイは母に会いに行くこと、モランは市民的生活の矜持・モロイに会いに行くという仕事の遂行だろう。実際に、泥沼のストーリー展開の中、ギリギリこの行動原理で保たれていると言っていいだろう。
しかし、ここでもまた行動原理の理由はただの相対的な問題にされてしまう。
その理由?それは忘れてしまっていた。<中略>もう一度その理由にお目にかかれるだけで、私はそこに、母の家に、必然性という名の鶏の羽根に乗って、飛んでいっただろう。そう、なぜかということがわかった瞬間から、なにもかもやさしくなるものだ。たんなる魔術の問題だ。どんな聖者に身を捧げるかを知ること<中略>むしろ、魔法の呪文がないらしいのは全体に対してである。どうやら、死後にでもならないと全体などというものはないのかもしれない。(p036)
それにしても、私たちが何かをする理由に「どんな聖者に身を捧げるか」以上の妥当性ってあるかしらと思う。たとえばモランが徐々にモロイ化していくわけだが、はじめに持っていた矜持ある生活において敬虔なキリスト教徒の描写が非常にアイロニカルな苦さを与えてくる。教育パパなところも。
ストーリーは展開しないが、二人にとっての大事な物は明滅する。ここを軸として追ってみることはできるだろう。
<モロイ>
丘でAとBが出会うのを眺める
→母に会いに行くことを思い立つ
→警察の職務質問とラウスの犬との交通事故で中断
→ラウスの家で過ごす(母の重要度は低くなる)
→ラウスの家を出るが、今度は母よりも町を離れてみたい欲求が生じる
→森の中で母への欲求が復活する
→森をぬけるend
<モラン>
日曜日、ミサの時間まで庭にいると…
→ゲイバーから任務の指示
→家政婦や息子への適切なふるまいに精力を出す
→夜(信じられないことに)任務出発の準備
→夜中息子と一緒に出発
→隠れ家にて膝の痛みが起こり、人間性の変化が始まる
→自転車を買った息子とバリバにたどり着く
→息子とケンカ別れてその場にとどまる(モロイという任務は不明瞭になってくる)
→ゲイバーの急な帰還命令(仕事の消化不良から来ると思われる抵抗反応)
→帰途に秋冬かかる(声は聞こえ始めるが無視した)
→家につく(「声」に従っていくだろう)end
二人ともままならないもので、大事にしていたことに対する障害が現れる。そこはモランの方が比較的明瞭である。モランは膝のケガと帰還命令のダブルパンチで人生変わってしまった感じになるのである。息子はそのおまけのようなものに見える。
ああした経験をしなかったら、逆のことを、それも頑固に主張しただろう。だがそうなのだ、立ってもすわっても楽でないとなると、まるで母親の膝の上の子供のように、さまざまな寝姿をやってみることへと逃避する。いまだかつてなかったようないろいろな姿勢を探求し、そこに思いもかけなかった快楽を発見する。(p213)
モロイのほうはどうだろう。これがわかりにくい。なぜかといえば、回想録の効果が強く出てしまっており、小説が終わったところからの観測、つまり最後の一つ前(p007)の状態の不明瞭さが出てしまっている。(そしてこの御仁が小説というものをぶっ壊しているわけだが…)
結論を急ぐとモロイの障害は、他者の介入と自身の集中力に邪魔されている事だと言ってよいだろう。モロイ自らキレネのシモンを引き合いに出しているように、モロイの道程はどこか受難めいたムードで進行していく。
ただモロイの場合は、親切にしてくれた炭焼き職人を攻撃してしまったりするだけのことだ。
ところでモロイは、近似の言葉でいうなれば神経質みたいな感じである。だから簡単なことをするにしても他人どころか自分自身にも邪魔されてしまう。
ものを聞かれると、それがなにかわかるまでに時間がかかる。そして私のいけなのは、今聞いたことを、使い古してはいても耳はかなりいいので、完全に聞こえたのだが、それを静かに考えるかわりに、大あわてで、なんでもかまわず返事してしまうことだ。たぶん、私の沈黙が話相手の怒りを最大限にしてしまうのがこわいのだろう。(p028)
これは警察署での引用だが、ひとつ重要な見解を提示しているのではないだろうか。
すなわち、
他者・世界とのコミュニケーション不全と、自分の肉体の精密な記述が、肉体が最も普遍的である世界を切り出している。と。
「肉体の精密な記述」には、ミクロすぎるゆえにアイデンティティは入る隙間が無いように思われる。ついでに言うならば、アイデンティティには2つの要素があるのではないだろうか。
1:ラベリング=自分の所属などの整理。これは社会性不全と社会に関するモロイ自身の推論能力の低さによって消去されている。
2:時間的同一性。こちらも同じく消去されるわけだが、更に新たな示唆を見出すことができるみたいだ。というのは、時間の積み立てを消去しているということだから。
ひいては、『モロイ』のストーリー性の消去でもある。『モロイ』という小説に、ウチでは、ストーリー(=時間)の蓄積によって物事(=欲望)は解決しないから期待しないでと言われているような。
そのかわりにモロイCPUは口寂しいときに吸う石ころについての演算で暇がないというわけだ。
「他者・世界とのコミュニケーション不全」について。
例えばモロイは初めから母に会いに行く行為をして「ひとりっ子の遊び(p018)」と言っている。母に会いに行く理由なんかごまんと記述できるだろうに、正直者モロイが出てしまう。世の中ではなく私が考えている時にやっと命題の判断ができるということだろうか。 というのもハーリンクス(p073)というのがデカルト研究者らしいという補助線もあったので。しかし、本書に限ってはこの補助線は妥当ではないかもしれない。まさに「私が考える」ということは、何かの世界観に根拠づけを求めないということだし、頼るべき世界観がなくても生きるということなのだろうから。既出の「どんな聖者に身を捧げるか(p036)」というやつである。
別の角度からこういうこともできる(そしてモランに即しているようでもある)。社会的使命のヒエラルキーを登っていくと、ある地点から抽象的な命題を置かざるをえなくなる。平和とか誰かの幸せとか。抽象性を持った使命のために生きることと、私に内在する抽象性のために生きることの違いは限り小さくなっていき、最後に残るのはコミュニケーションの内側の評価だけになっていく。
では使命が自分の問題になっていき、コミュニケーションが必要なくなるならば、何のために言語化されなくてはならなかったのか?現にモロイもモランも回想をしてしまっているではないか。
もともと私の柄ではないこのあわれな書記ちう仕事に甘んじているのは、人が信じるような理由からではない。たしかに、命令にまだ従っていると言ってもよい。(中略)私の聞く声は、ゲイバーにそれを伝えてもらうまでもない。なぜなら、その声は私のうちにあって、自分のものでない利益のために、昔からそうであったように最後まで忠実な召使いであることを勧めるのだ。(p200)
「声」というのがここへきて出てくる。モロイもモランも、全ての社会性や因果関係をとっぱらっても、声の絶対性には従うということになってくる。声については、かつて私が他人に望んだように、しんぼう強く(p200)役割を果たすよう、など色々特徴が出てくるが重要なことではなさそうだ。
声についてもう少し話を進めよう。
だがそれは、ほかの音のように聞きたいときに聞けて、遠ざかるか、耳をふさげばいつでも黙らせられるような音ではない。それは、どんなふうにか、なぜかもわからないまま、頭のなかでざわめきだす音なのだ。それは頭で聞く音で、耳は何の関係もない。(p056)
世界とのコミュニケーションをやめて自分の肉体を主観とするとき、声が聞こえ始めると読むことも出来そうだが、あくまでその辺りは曖昧である。手順や作法の問題ではないだろうと考えられるからだ。
聞こえる、平衡を失い、凝固した世界、弱々しく静かなだけの、おわかりだろうか、それもまた凝固した、だが見るには十分な光の下の世界について語る自分の声が。(中略)外見とは違い、終わった世界だ、それの終わりが出現させた世界だ。それは終わりながらはじまったのだ。(p056)
「それ」とは学問も捨てて最後に残った魔術から神秘が失われた(よって魔術からも捨てられた)場所とのことである。
コミュニケーション不全なのに言語化するのは「声」のためであって、「声」はコミュニケーション外との交信である。
単純に「声」をメタ的なN次元の先の者とすることも出来そうなのだが、私見では意外と、世界内の隣人ではないが、離れてコミュニケーションが出来ない程度の世界外の第三者(2人称と3人称の関係か?)でもいいんじゃないかと思った。
モロイの1人称についての下記の記述をみてそう思ったのである。
私は、自分がだれかということばかりではなく、自分がいるということも忘れることがあった、存在の忘却だ。(中略)だがそんなことは、そうしじゅうは起こらず、たいてい、私は、季節も庭も知らない自分の箱のなかにおさまっていた。そのほうがよかった。だが、なかにいても、注意は怠れない、自問自答しなければならない、たとえば、相変わらずまだいるのか、(中略)好んでではなく、分別からだ、相変わらずそこにいると信じ込むためにだ。だが、相変わらずそこにいるなんていうことは、なんの足しにもならなかった。私はそれを反省と呼んでいた。私はほとんど絶え間なしに反省していた、やめる勇気がなかった。私が潔白なのはそのおかげかもしれない。(pp070-071)
自分自身の箱の外で世界と一体にならないでいる理由を日々探し続けるということ。
自分の箱には文化や市民的生活、常識が含まれている。このあたりまでは上級浮浪者のモロイは切り離し済みかもしれない。しかし更に、そんなモロイにでさえ気づかない箱、つまり所持品や因果関係、雨をしのぐ家など、そして最後には私という存在自体…。これらが常に内包されているということを点検しつづけなくては箱の外の世界に戻れなくなってしまうと読んでみていいのではないか。
一度比較のためにもモランの変化について引用しておこう。本文中で最も難解な個所の一つと言っても良いように思われる個所だと思う。
ある分解、私が昔からそうなる判決を受けている、そのことからずっと守り続けてくれていたものの怒り狂った崩壊とでもいったものに似ていた。それとも、一度は知りながら否定してしまったなんとも言いようのない光と顔に向かってのしだいに早さを増す一種の穴掘りのようだった。(中略)そして、それ以上、それを見きわめようとしなかったという事実が、さらに、私がどれほど変わり、自分自身をしっかりつかんでいることにどれほど無関心になっていいたかということのしるしになっていた。(pp225-226)
当然、モランはモロイよりも自分の箱を固めにかかっていたはずであるが、周りを固めていたその有機性というか外部との輪郭線のようなものに外部からの非難を感じたのだろうか。少なからずいろんな意味でフォーカスが甘くなっていることが示されている。明言できるのはそれだけである。
なお、この日モランはなんとなく私の顔に似てい(p229)る男の話し声が遠くから聞こえてくるように思えた(pp229-230)という体験をしている。自分の箱の写し鏡を世界から見せられているような話だ。
話を戻してモロイが具体的に聞いた声を挙げたい。
ひとつ目は、それこそN次元から聞こえた声ではない。ビー玉を拾ってあげた男の子の「かなりありがとう(p071)」である。そしてそれと同じくらい明瞭に聞こえたのが、
自分の声が聞こえた、気をもむにはあたらない、だれか助けに来るさ(p125)
自分が自分の箱から外れて世界の声となり、こだまのブーメランが、純粋な自然の音となって、箱の外の自分に直接響くとき煩わしい悟性のバイパスを介さずに直に聞くことができるのかもしれない。
ついでに言うならモランの例もそのようではなかったか。
そこで一つ思い当たることがある。世界と一体とか、世界の声とかって、どこかでスルーしたような…
さてもう一度引用すると、「どんな聖者に身を捧げるか(p036)」にあった、
むしろ、魔法の呪文がないらしいのは全体に対してである。どうやら、死後にでもならないと全体などというものはないのかもしれない。(p036)
これのようではないだろうか。
声の在り処はN次元というより私が部分であるところの全体ではないだろうか。さらに死後というのが回想録を書いてる私ともダブってくるというところである(あるいはこれは興ざめな蛇足かもしれないが)。
こうした「他者・世界とのコミュニケーション不全」と「自分の肉体の精密な記述」を無視出来なくなったとき、
言い換えるならあらゆる文化性を取り払っても、というか取り払うことではじめて「肉体が最も普遍的である世界」が現れる。すなわち、私たち自身がそれ以上遡って理由を言及できない対象となりうる。ここにまず大きな救いを感じることとなる。オシャレな喫茶店もスマートな職場も素因数分解された要素に私の肉体は入りようがないから。
そしてさらに、自分の声が外から聞こえてくるような地平にあるとき、結果として潔白であるような、無理のない根拠に対して自分が開いているような気持になることができるだろう。これもまた逆に、文化や社会から切り取った要素から作り出すことはできない。能動的な働きであるがゆえに、救いもありそうな気がする。
色々習うことだろう。
楽しいひとときだろう。