虐殺器官(伊藤計劃著 ハヤカワSFシリーズJコレクション 2007)

言語が人間の思考を規定しない、というのはわかる。とはいえ、言語が進化の適応によって発生した『器官』にすぎないとしても、自分自身の『器官』によって滅びた生物もいるじゃないか。
長い牙によって滅びた、サーベルタイガーのように。(第二部 p90)

虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

虐殺器官 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

※以下の内容には『虐殺器官』のネタばれが含まれます※
私が本書を手に取った段階で、本書の作者はすでに亡くなっている。本書を手に取るきっかけとなったのは、知人などによる口コミの部分が大きいけど、彼らは必ずと言っていいほど作者の早世について多かれ少なかれ情報をつけ加えていくのである。しかし当然別段作者と親交があったわけでもなく本書を手にしたものとしては作家論のような考察とは無関係であるべきだと先に述べたうえで、はじめにちゃっちゃと作家ありきの感想を述べたい。
前半辺りではとても野暮ったい描写がいくらかあって、その点、個人的にあまり良い評価をしていない。けれども後半ではそういった違和感のようなものは感じなくなったので、すんなりと読めるようになった印象。もちろん前半については設定と私の常識のずれを考慮する必要もあるけど。
そして、好みの問題かもだけど、ちょっと情報(というか知識?)の嵐がすぎるんじゃないかと思うところがあった。特にプラハでルツィアと話す場面とか冗長かなと感じた部分もある。何が言いたいかというと、お話というものは情報濃度を高めればいいというものじゃないよ、と言いたいのです。本書は、例えば絵でいえば、キャンバスの中で単純な背景になっている部分を良しとせず細かくぎっちりと描き込んでいる、といえばいいのか・・・   
以上内容に入ります 本書を一言で表せば
ラヴィスが幾度かのジョン・ポール暗殺作戦に従事して遂にはジョン・ポールの最期に立ち会う話
人は誰しも、自分の物語のなかに他者の物語を組み込んでいる(p280)のであり、クラヴィスの物語には、ジョン・ポールと周辺事情が晴れて加わったということ。
本書のテーマをざっと挙げるなら

  1. 言語の持つ力と役割
  2. 自由に生きるということはどういうことか

これらに加えて戦争モノが担うはずの死の肉質感、責任感などに関する描写が支配的であると言える。当然戦争にはウェーバー的な官僚型の物理性・責任性に関する分業システムも機能している。
1つ目について本書における特筆事項はやはり「虐殺の文法」であろう。これは食糧不足に対応するために進化の適応器官としての言語が生み出した必然として登場する(cf.チョムスキー生成文法)。
列車の中では、ちょっとメンタリティーについて傷のあるクラヴィスはジョン・ポールに虐殺の文法と軍の行っていることの類似性を指摘されて動揺してしまうわけです。故意の殺人が世の中から無くならない限り、私たちもこういった指摘に反発する権利はないように思われる。
2つ目に関しては、まず、自由の本質から言及されている。自由はバランスの問題だ。純粋な、それ自体独立して存在する自由などありはしない。(p96)として、アイデンティティを情報セキュリティ会社に預けることで核攻撃されるなどの不安をなくそうとしている。どこに行くにも何を買うにもID認証を必要とする社会である。その意味では、戦場の子どもたちと同じロジックで取引をしていると言えるし、以下のクラヴィスの憐れみも、果たしてお前にそんなこと言う資格があるのか、といった感じ
少年たちは国民でない誰かさんから、スーパーの棚に並ぶ商品に昇格することを望んで兵士になる。マーズ・バーやプリングルススニッカーズと肩を並べるために、戦場へ行く。(p36)
追い打ちに、このIDによる追跡可能性に懐疑的なルーシャスには、この防衛手段は効果的ではなく、誰もがそう思いたがっているからこそ成り立っているにすぎないと言われてしまう(p163)。クラヴィスヴィクトリア湖でついにウィリアムズと対峙した時にも追跡可能性への懐疑心があらわになっている(そして口論として多少筋違いのことを言っている)。
結局なークラヴィスという人間の心にわだかまってるものってのは、自分の心だけで背負いきれなくなった自由の所在というか、責任なんだよな。だからこそルツィアにこんなことを言われて心底救われてしまう。
人は選択することができるもの。過去とか、遺伝子とか、どんな先行条件があったとしても。人が自由だというのは、自ら選んで自由を捨てることができるからなの。自分のために、誰かのために、してはいけないこと、しなければならないことを選べるからなのよ。(p147)
けれどまだ思い切りがないのか、地獄はここにあるんですよ、とこめかみを指すアレックスを尻目にカウンセラーを前に悶々としてしまう。
しかし、この殺意が虚構だったとしたら、僕の殺意でなかったとしたら、僕は罪を失ってしまう。生の実感を得るために受け入れた罪がぼく自身のものでなかったとしたら―そのとき、ぼくの「生の実感」のすべては嘘でしかない。お前が殺したのだ、と誰かに言ってほしい。(p191)
死の罪に対してアレックスの潔さをうらやみ、罪悪感を感じる、そんな日々が繰り返されたに違いないだろう。
天国とか地獄とかいうオルタナティヴな世界を想定すれば。なんだ、宗教の最低の利用法じゃないか。僕はぜんぜん無神論者なんかじゃない。(p146)
しかし本書はクラヴィスの物語である。クラヴィスが上記のような課題をさしあたってクリアすることで本書は終わる。彼自身は罪を自ら引き受けることを自分に許すのである。あるいはルツィアという最後の砦を失ってから選択肢がなくなったか。いずれにしても私たちのモラリティーからして結末を受け入れることは難しい。そこに後味の悪さや違和感が付きまとう原因があるように思われる。
だからもう少しクラヴィスの課題をフェアな形でとらえ直したい。幸い良い表現を本書は残してくれている。
戦争は絶えず変化した。しかし、デリバリー・ピザは不変だった。ぼくが生まれる前から変わらず存在したし、たぶんぼくが死ぬまで立派に営業するだろう。ドミノ・ピザが普遍性を獲得している世界から、ぐるぐる変わる世界を語ることはとても難しい。(p32)
ピザの普遍性を一夜にして吹き飛ばしたのは紛れもなくクラヴィスであり、彼なりの罪の受け入れ方が形をとって現われたといえる。地獄はここにあるんですよ、と言いながらね。
そしてウイリアムズならこんな風に言うだろう。
なんのことはない、やっぱり普通の虐殺者だ。『正しさ』の狂信者ですよ(p67)とね