マルドゥック・スクランブル(完全版)2・3(冲方丁著 ハヤカワ文庫 2010)

泣きながら考えた。前進することについて。ウフコックもドクターも前を見ていた。前進し、漠然とした価値や目標に向かって、具体的な成果を上げようとしている。だがシェルやボイルドは違った。彼らは振り返ってしまったのだと思った。自分自身を振り返り、もうとっくに死んだはずの過去と、目を合わせてしまった。過去は、自分の思い通りにすることのできる屍だ。ただしそれが、きちんと埋葬されている限りは。(2巻 第3章p147)

※以下の内容には『マルドゥック・スクランブル』のネタばれが含まれます※
1巻と映画の感想はこちらだけど、全部読み終わったところでの全体の感想というつもりで書きますので、もしかすると1巻も言及するかも。
 
ストーリーを一言で表すと、九死に一生を得たバロットが09法案によって法外のテクノロジーを携え、自分の事件を解決していくお話
個人的な見解では、本書を良書たらしめている理由は徹底的な取材力を別にすると、圧倒的に「楽園」のくだりを支持したいです。だからその部分について大きく最後のほうで取り上げたい。もっと言うと、作者や読者に多く支持を受けているらしいカジノのシーンは冗長のように感じて飽きてしまった。リアルなんだけど、変化に乏しいので修行みたいな感じですかね?バロットと一緒に修行する会
 
本書は典型的なビルディングス・ロマンであって、バロットは冒頭からバブルにならんばかりの高度成長を遂げていて、これが3巻の終わりまでとことん続くのである。状況を整理すると
目覚め→誘拐屋・ボイルドとの戦い→楽園→カジノ(スロット→メカニック→ベル・ウイング→マーロウ→アシュレイ)→ボイルド
というターニングポイントを経るごとに成長するという感じで、途中からの成長は、まだ成長の余地があるのか・・という、まさに人外 
誘拐屋・ボイルドでウフコック濫用のファウル、楽園で決断の壁を超え、本書でバロット自身の一番の賢者はベル・ウイングで、最大の敵はアシュレイだったかと。もう、ベル・ウイングを取り込んだ時点でバロットの安定成長は約束されたようなものだったんだけどね。ちなみにベル・ウイングに抗うモチベーションは、身につけた力を駆使して何かを獲得したい、という強い欲求(2巻p217)
対してベル・ウイングが運を右回りにするために説くありがたい教えは、いるべき場所、いるべき時間に、そこにいるようにする(2巻p241)こと ただしこの段階ではまだ不安で、一人で問題を解決する手段を得つつあることはドクターが示唆してもピンとこないようだった。ウフコックにも同じようなことを言われて、やっとマーロウに勝てる
『もちろん、俺やドクターの誘導にも振り回されることはない』
―私、あなたを信じたい。あなたたちを。それは悪いこと?
『君は君自身の判断を磨くべきだ。君は事件の解決に、そういう方法を選んだ』
―私、きっと一人じゃ勝てない。
『君のサポートは我々の職務の一つだ』(2巻p323)
 
究極的にはアシュレイとの戦いも、ここに気づいたことが戦局を変える一番のファクターだったと言える。ウフコックの統計と確率には個性が欠けていて、それらを生みだしているのが他ならぬアシュレイとバロットなのだという個性(第3巻p110)に気づき、セマンティックに情報を動かせるようになったということはつまり、自分の能力や役割について正確に把握できたということだろうから。
ちなみに、最後のバロットの成長は痛みを感じないように操作できるようになる場面だけど、これは楽園でフェイスマンがボイルドに説明してた、自己意識の希薄化であって、正確には成長というより気付き、かな?ターニングポイントというには上記のものに比べてあまりにお粗末です。
 
ところで、バロットはするすると成長の階段を登りつめていったが、私たちも各々がこうしたビルディング・ストーリーやサクセスストーリーを歩もうとしているただ中で、先にバロットが達成しえた要因はなんだったかと考えてみる。達成に失敗したアシュレイの兄について、アシュレイは非常に参考になる意見を残している。兄に車の知識か、知識を与える誰かか、自力で見つける運か、この3つのうちどれかがあれば(p140)と。
私見では、バロットは少なくとも後ろ2つはきっちり利用している。目覚めた時、それから楽園でボイルドからするりと逃げられた時。楽園は唯一バロットが積みかけていたぎりぎりの場面だったんじゃないかなぁ。もう少しタイミングが違えば恐らくバロットはあそこで死んでたんじゃないかと思うんだけど。
 
さっきも言ったように、おそらく本書最大の試練はアシュレイであって、そのあとのジョン・オクトーバー、シェル、そしてボイルドのくだりは、ともすると冗長になりかねなかったはずだけれど、やる気を保って読み続けられたのは、黒幕的存在のフェイクが連続して現われてくれたおかげではないかと。カジノを去った時点で気分的にはラスボスはボイルド、いやオクトーバー、いや、シェルをどうするかの葛藤、いや、ボイルドと、ミステリーのような振り回され方を楽しめるからだろうと思います。
 
さて、わたし的本書のウリである楽園のシーンについて
本書髄一の賢者はフェイスマンだと思っている。それは、蓄積された過去も含めてだけど、ボイルドを唯一耳を傾け躊躇させた存在だから(それはボイルドはフェイスマンに何ぞのことを吹き込まれなければバロットに勝っていたのではないかと思うほどに)。
「命に価値があるかどうか、おれに再び教えられるというのか」
「命に価値があるか?」
フェイスマンは力を込めて繰り返した。
「真理を逆転させた愚かな問いだ。価値はあるのではない。創り出すものだ。命の価値を創り出す努力をおこたれば人は動物に戻る。社会とは価値をめぐって機能する人間独自のシステムだ。今、お前との議論で問題にしているような同族同士の殺し合いとて、人間固有の行為ではなく、むしろ動物全般に共通するということを多くの観察が証明している。動物は殺すために殺す衝動を常に備えており、価値がその永続システムに拮抗するのだ」(2巻p94)
このあと、人間には動物と違って価値を創造できる、それをウフコックは知っている、と続く。フェイスマンというふるいによって初めに引用したセリフは同語反復を繰り返している。つまりボイルドは教えられることだけを求め、バロットは自ら知り前進するところに運命の分かれ道があったと、しつこいくらいに反復される。バロットは何と言ったか
<わたし変われる気がしています。あのひとたちのおかげで>
「それは部分的で個人的な変化だ。人には全体的な革新が必要なのだよ。人という種の革新が。<中略>だが、我々は、いわば役を仕込まれていない役者のようなものだ。君も私も、生を即興で演じねばならないという厳しい現実の中にいる。<中略>今の社会は君を助けてくれるかね?」<中略>
<事件の当事者になるのは凄く怖かった。でも今は、そうして良かったと思います。社会がわたしを助けてくれることはないです。でも、助かる道があることを教えてくれました>(2巻p63〜)
 
フェイスマンは多分このことを気付かせようとしてだろうけど、ボイルドにサメの話をしている。サメが人を襲うのは好奇心のせいだよ、好奇心こそが暴力の本質なんだよって(cf.2巻p114)。「俺はもう、俺が生み出す虚無にしか、興味がない」(2巻p114)とボイルドは言うけれど、このころからウフコックが気になってしょうがなくなる、というより、気付かないようにしてたことをフェイスマンに言われてしまう。
ボイルドを追い詰めたのはやっぱフェイスマンに一票で。