魔術師(ジョン・ファウルズ著 河出書房新社 1972)

私は突然その場で私たちが一つの肉体、一つの人格と化してしまったような感覚に襲われた。その瞬間、アリスンが消えたならば、私は自分の半身を失ったように感じたに相違ない。その頃の私ほど頭脳的かつ自己陶酔的でない人ならば簡単に分かったのだろうが、その死に似た恐ろしい感覚はただの愛であった。私はそれを欲望と取り違えた。そしてすぐ車で家に帰り、アリスンの服を剥ぎとった。(1-4 上巻p29)

 
※以下の内容には『魔術師』のネタばれが含まれます※
 
何よりもまず、本書はドラマチックでストーリーが面白いという点を推したいのです。古書であることを除けば、人におススメしたい種類の本なのでした。
もう一つ素晴らしい点を挙げるなら、それはファウルズの言語センスの高さ。翻訳者の方の力も大きいと思えますが、本を越えて著者が素晴らしいと思えることってやっぱり凄いことですよね。たぶんかなり心の機微みたいなものに敏感なんだと思いますね。本の中でも、私が思ってることを察して、相手が止まれずこう言っちゃった、みたいな応酬があったりして、こうだよなぁ、と思わされるのね。それを可能にする言語センス。
 
で、そんな中で本書はたくさんの普遍的なテーマについて言及していくわけです。自由、戦争、愛。。。ただし印象としてはたたき台に上げてるような感じで、「おれはこう思うけど、君たちどう?」みたいな。
実は魔術師である優秀な板前さんが、マグロやらカンパチやらを俎上に載せて、さあ今日はどういたしましょうかね?というような。じゅるり。
もちろんカリスマぞろいの登場人物の言葉を鵜呑みにしても良し、調理するも良し。
 
こういったことを考えてくると、どうしても本書のコンヒスとファウルズがオーバーラップしてくるようです。コンヒスは「完璧な芝居」をニコラスに提示し続け、常に高次に立って芝居を掌握し続けていくのだから、これはもしやファウルズが読者に呈示するやり方なのかなーと思うんですよね。特にそのサービス精神がね。
興味深いのは、本書は小説であったけど、コンヒスは作中でこう言うわけですね。
「たかだか五つ六つのちっぽけな真理を掴むために、なぜ苦労して作り事の文章を何百頁も読まなきゃならんのです」
「楽しみのためならば?」
「楽しみ!」<中略>「言葉は真理のためにあるのです。事実のために。フィクションのためにではない」(2-15 上巻p94)
まるで自虐的なんですね。本書がドラマチックに読みやすくなってる原因がここにありそう。本書は真理のための作品ではないよ、というパフォーマンスみたいな。
 
ところで、ファウルズの経歴を調べると、ニコラスも彼の投影であることがすぐに分かるんだな。だから、コンヒスもニコラスもどちらも本質的には同一なのだ、と思うんですね。年老いた方と若い方。あるいは、素材になって実働する側と編纂する側。
ここで一つの謎が解けたような気がするんです。というのは、何故ニコラスは最後に「微笑む」ことを覚えはじめ、さらにあんなにウザいと思っていた「芝居」を自らアリスンと催さねばならなかったのか。この点がどうしても気になってたんですよね。それは、物語の中でコンヒスとニコラスが一つに収斂していくからではないのか、という見解になったのです。
 
おそらく本書の最も重要な主張は、自由(エレフセリーア)についての捉え方であり、その実践としての微笑み。ラブストーリーになっていくのは、若く何者でもない人生に絶望した青二才にとって、数少ない扇動されうる自由の実践場だからだと言われているように感じるんですよね。檻のない自由な劇場にどうやったら配役を留め続けるか。
もしも私設動物園を持つ人間がいるとした場合、その人間の関心は動物たちを逃さずにおくことであって、檻の中の動物に一々行動を指示することではあるまい。<中略>彼は自分の仮面劇にハイゼンベルグの原理を応用しているかもしれず、従って劇の大部分は観察者兼観淫者としての彼自身にも、被観察者である私たちにも不確定なのだ (2-49 下巻p42)
 
なぜ自由を中心に据えるかというと、コンヒスが重きを置いていたかどうかではなく、ニコラスという揺るぎない一人称が全編を通してはまり込んでいった視座であったと感じるから。本書全体の話の流れは以下の通り。
ニコラスはアリスンという選択をしないがためにギリシアへ向かい、何についても中途半端なことを憂いて自殺をしようとするけど、それさえ成し遂げられない。折しもブーラニ岬という迷宮に応じてしまいコンヒスの芝居に結局最後まで付き合うことになる。途中コンヒスは配役にアリスンを迎え入れ(パルナッソス山の旅行以降)、死まででっち上げる。最後にニコラスはコンヒスと芝居を認め、アリスンとの再会を果たす。
口が悪いのは勘弁してほしいけど、何度かアリスンとの関係をリトマス紙に、ニコラスの立場をフィードバックしてるような。
 
さて微笑みとは何かというのはコンヒスがトルコの遺跡の石像を見せるシーンで言及されてる。
「この微笑みには何か無慈悲なものがありますね」
「無慈悲?<中略>それは真理のためです。真理とは無慈悲なものですからね。しかし、この真理の本質や意味は決して無慈悲ではない」
<中略>
「ベルゼンを知っていたら、こんなふうに微笑できたでしょうか」
「かれらが死んだからこそ、私たちには自分らがまだ生きていることが分かります。一つの星が爆発し、この世界に似た数千の世界が滅びればこそ、私たちにはこの世界の存在が分ります。それがこの微笑みです。あり得なかったかもしれないものが今あるということ」(2-23 上巻p149)
コンヒス最後のセリフも微笑むことを学びなさい(2-62 下巻p194)だった。微笑むとは、上述したように実践の形なのだと思った。
実践と言うと、本書で一番良かったと思っているのは、コンヒスの感慨深い過去話なんですよ。2度の大戦とノルウェー森の神と会話する男の体験。どれも泥臭く、本物よりも生々しい老人の昔話。この人ボケてるんじゃないかと思いつつ、だとしても全く評価が変わらないような口伝え。この体験を経てコンヒスは微笑むことを学んだんだろうね。というより、泥臭い生の価値を認め、生活の指標をそちらにシフトすればこそ微笑みが必要であったと言うべきか。
 
これって日本で言うところの「諦念」に近いよなー。少し明るめの諦念みたいな。
そこには森羅万象を受け入れる視座が存在しているんじゃないかと。ところが自由というのはある選択、ある真理によって成る、みたいな感じで説得にかかるんだよな。その点少し現代風に脳内アップデートを推し進める必要がありそう。自由の意味が、あまりに達観していて、世の中との共生になじまないのではないか。
リリー・デシータスはこの芝居を「神様遊び」と呼び、さらには自身らが神様ではなく、芝居も遊びではないと言う(3-75 下巻p298)。この魔術的な芝居は十分に生々しく、微笑みにも至ろうが、別の側面から見ると、ますますフリーメーソンの入団儀式めいている。
まあ、これがイギリス貴族的スノビズムかもしれないけど、ちょっと確証がない。少なくとも、主張し、言及することは普遍的に意味のあることでしょうから。
 
例えば戦争が足がかりになった主張。イギリス的視点だから、第一次大戦の言及が興味深い。この辺日本的歴史観では盲点になる部分だし。というか、第二次大戦前に生まれた主人公に対して第一次大戦から出兵していた老人という対比自体がもはや現代では成立しない構図ですよね。
コンヒスが、エレフセリーア(自由)の章の前、二次大戦のエピソードの前置きとして極めて明確に言及するには
戦争とは、もろもろの関係を見ることができないところから生じた精神病です(2-52 下巻p85)
ということらしい。これだけでは、この意見に何とも甲乙つけ難いわけですが、コンヒスの素晴らしさはこれ以降の体験談にあるということです。
具体的には、一次大戦時の体験談が引用に耐えるでしょう。
そこで私は二人の人間に分裂しました――ひたすら見守る人間と、他人に見守られていることを忘れようと努める人間とにね。私たちは殺すことよりも、むしろ殺されることを習いました(2-18 上巻p119)
あるいはこう、
現在の私は分かっています。何らかの目的を達成しつつあるのだ、何らかの計画に奉仕しているのだという私たちの信念、それこそが虚偽なのです。何か偉大な計画が全てを押し進めているのだから、究極的には何もかもめでたしめでたしに終るだろうという信念ですね。現実はそんなものじゃない。計画など、どこにもありません。すべては偶然です。私たちを守るのは私たち自身だけなのです(2-20 上巻p129)
 
全ては偶然だというからには、ニコラスを選民に選んだ理由も偶然だし、芝居のエンディングは完全なる自由であった。ところが最後の最後までニコラスは魔術師とのゲームという体裁からのフィードバックに反応し続けた。エピローグがあったとすれば、おそらくそれが初めての自由というものだろうと思うけど、とりあえずその前まででパッケージされているのだった。
 
いくらニコラスがコンヒスと軸を一にしていくとしても、コンヒスがのたまうアフォリズムをニコラスのものとして考えることは出来ない。だから戦争についての言及、エレフセリーア、「王子と魔術師の寓話」(2-65 下巻p215)ほか、いくら完璧な自信に担保されたセリフであっても、本書を彩る材料であっても、本質にはなり得ないように思える。
冒頭のセリフは、その側面を踏まえて選んだものでもある。この愛についての確信は、まぎれもなくニコラスの体験から現れたものだから。この確信に相当する部分は、王子と魔術師の寓話で言えば、美しいけれども偽物の島を、偽物であるけれども美しい王女たちを、彼は思いだしたのである。(2-65 下巻p216)という一文の行間に含まれたはずのものである。ところが寓話とはその行間を挟む余地を与えてはくれない。それが小説の、神様遊びのパッケージングによる限界なのである。
 
そしてこれは、読者である(不特定多数の)私たちにも投げかけられていること。
 
「登場人物の言葉を鵜呑みにしても良し、調理するも良し」とはそういうつもりのことなのでした。建設的な意見を聞くことから、自分の意見は始まるのだ、とそういう風に思えたし、たぶんコンヒスもそういうつもりなのだと思うのです。

第三の警官(フラン・オブライエン著 筑摩世界文学大系68 1998)

「鉄製自転車を乗り廻すことのに生涯の大半を費やす人々については、原子交換の結果、本来の性格と自転車の性格との混交が認められる。この教区の住民のうち半分人間、半分自転車と目される人々の数を知ったらあんたも仰天するだろう」(6章 p386)

ジョイス2・オブライエン (筑摩世界文学大系)

ジョイス2・オブライエン (筑摩世界文学大系)

 
※以下の内容には『第三の警官』のネタばれが含まれます※
 
テクスト中心で作品を考える(たぶん・・・)記事なので、作品を俯瞰する都合上どうしてもネタばれちゃいますけど、本作は特にその部分が面白いと言う人が多そうなことに配慮して、本編前にこんな前振りを挟んでおります。
未読者向け本作の一言まとめは、上の引用のような、トンデモ不思議理論に身を置いて翻弄される話という感じ。ふー、ネタばれないと何も書けないっす。
ちなみに、「そのこと」について私個人は結構すぐ気付いたので、2013年現在ではもはや「そのこと」に特別頓着しない人も居るだろうとは考えられます。日本の昔話にも似たようなのがありますし・・・おっと!
 
というわけで以下は本当に容赦なくネタばれです
 
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●本作のメタ的構造●
・・・という経緯があったので、個人的にはネタばれるかどうかにはあまり興味がない本作なのです。
ストーリーは、老人殺しをした主人公が黒い箱を求めこの世ならぬ警察を行き来するが、自分が死んでいたと気付き再び警察署に行くことになる話。
ちなみにどの時点で私が、主人公が死んでいると分かったかということですが、具体的には、3章で非常に牧歌的な道をただひたすらに歩いてる主人公の姿が『やし酒のみ』っぽいなぁ、と思った時でしょうかね。『やし酒のみ』でも同じような雰囲気の所があって、どんな文化圏でも死ぬってのはこういうもんかーという。やたら平和な世界を何故か一人で歩いている、というような。あと、本作の主人公は名前を忘れちゃうんですよね。それってやっぱ空蝉じゃないわな。そしてダメ押しに、冒頭のド・セルビィの高説で死が仄めかされてるので。
 
円環機構については、私にとっては子どもの頃からテキストサイトなんかではkanon問題というのが盛んで、「ループもの」というのも、ひとジャンルでしたが、
ここで特別思うのは、このオブライエンにしても、グリムウッド『リプレイ』にしても、何にしても人生が円環するということは言われも無く不気味なものだ、という印象を醸し出しているところ。
というわけで、死後の世界は存外陽気な所だけど円環するのは不気味である、という発想は面白く、何か人間の本質的な部分を突いてるような気がするんですよね。そこには興味があるなぁ。煉獄がつらいってアイデアもこれに近いような。
 
●トンデモ理論の飛び交う世界●
冒頭で引用した人間自転車説みたいなことが平然とまかり通る警官たちもさることながら、トンデモ思想家のド・セルビィもぶっ飛んでる。これがいかにも権威的に膨大な注(たぶん創作)が付いてるのが面白くて。地球がソーセージ型だとか、夜は大気の汚れで起こるとか。でも所々良いこと言うんだよなーこのカリスマ御大。道は風景を規定する、とか。
主人公が傾倒してしまうのも何となく分かる気がする。こんなだから警官に対しても、はじめは警官を騙して黒い箱の在りかを聞き出そうとするだけど、逆にだんだんトンデモ話に感化されていって目覚めていくのが微笑ましい。
 
●警察署とは何か?そしてなぜ「第三」か?●
ここが本作の最大の関心事にして、よく分からない部分。上2つのトピックで十分面白いということで何となくうやむやにしそうになっちゃったよ。でも、主人公の死、ひいてはこの世界での死というものを考える上では警察が重要なのだ。
 
まず、警察署については、死んだメイザース老人が少し言及してくれている。老人は、自分固有の色に沿った衣装を毎年重ねて身につけるものだと言う。その衣装が重ねられて真っ黒になった時人は死ぬらしい。だから、薄い色ほど長生きなんだとか。
いずれにしてもわしは毎年新しい衣裳を一着手に入れた
どこでそれを手に入れたのですか?
警察。外歩きもかなわぬ幼い頃にはわしの家に届けられたが、長ずるに及んでからは警察署まで取りに行くことになった
<中略>
警察当局にはどんな人がいるのですか?
巡査部長ブラックとマクリスキーンという警官、それから三番目にフォックスというのがいるんだが、これは25年前に姿を消して以来消息がない。はじめの二人は署に詰めているが、聞くところによればもう何百年もそこに腰を据えておるそうだ」(2章 p352-353)
 
これを聞いて主人公は何故か、盗もうとしている黒い箱を見つけてもらいに、あろうことか警察に行く事になるわけだけど、何故だ!っていうね。もうロジックじゃなくて強迫的に警察に向かおうとする。
で、ある一つの仮説だけど、もしかしてこれが警察署の役目なのかもしれないとか思う。つまり、老人が言ってる話は、死んだ後の何か、四十九日的なちゃんと死ぬまでの修行みたいなものなのかも。主人公はこのシーンで死んだわけだけど、老人もかなり最近死んだわけで、現実と霊界の間みたいな所で二人は出会ったのでは。
だとすると円環というのは無限ではない。衣裳を手に入れるような作業を一定終わらせると正真正銘死ぬことになる、とかね。主人公は終始黒い箱には固執し続ける。だからほとんど箱に操られるようにして動いてる。だから、この黒い箱に従って何かの通過儀礼をしてるのかもしれないなぁ、と。主人公が生に未練を持つのも、死んだ原因も、この黒い箱に関わってくることなので。
だからこの線で考えられる筋書きはこうだ。2週目のはじめに、主人公はやっと手に入ると思った箱をディヴニィに良いようにされていた(と仮に解釈する)。ここでディヴニィと一緒に警察に出頭することになる。段々と黒い箱が自分にとって何だったのか自問することで、最終的には固執が無くなり黒い箱に追われた地獄のような(著者の言)円環から抜け出せる。・・・まあ抜け出せるというのは希望ですが。
 
これが妥当かは分からないけど、この主人公が黒い箱に固執しているということだけは確かなように思える。だからこそ警察署から現世(?)に帰る時にもどうしても老人の家に長居してしまう。ここでまた第三の警官に半ば黒い箱欲を誘発されてしまう。
さて、ここで何故「第三」の警官なのか?と疑問に思う。これが実はほとんど良く分からない。というのも、彼は最後の老人の家でちょっと出てくるだけだし、そこでのやり取りも話の根幹を担うとはあまり思えない。
 
第一の警官=巡査部長は主人公を言われも無く絞首刑にしようとした。第二の警官マクリスキーンは、実は黒い箱の中身であると後に判明する万能の事物、「オムニアム」の素晴らしい有用性を見せてくれた。では第三の警官フォックスは何か?
フォックスについては、巡査部長でさえ老人に毛が生えたくらいにしか分かっていない。
「・・・彼の姿を見かけることは決してないし、彼のことが話題になっているのを聞いたためしもない。それというのも、仕事熱心な彼はいつでも受け持ちの巡回区域に出向いており・・・」
<中略>
巡査フォックスはある年の6月23日まるまる一時間マクリスキーンと個室に引き籠っていたことがある。その日以来彼は誰とも口をきかなくなってしまって・・・」(6章p380)
彼がしたことといえば、黒い箱=オムニアムを使って二人の巡査を翻弄し、偶然にも主人公が死ぬのを阻止したこと。そして黒い箱を主人公が持つように手配したこと。
マクリスキーンと個室に籠って、というのはたぶんオムニアムの有用性を知ったことなのではないでしょうか。そして今やフォックスは二人の警官が使う不思議な力についてもオムニアムの力で全て操っているように思える。誰もそうとは知らずに。
主人公も結局黒い箱を手に入れることは無かった。
 
ところで、フォックスの顔は老人と同じだったそうな。先の説とは矛盾するけど、もし、始めに老人の幽霊と話していたと思っていた人物がフォックスだったとしたら?すると主人公の行く末を操っていたのは黒い箱というよりフォックスなのではないか?警察署の話を始めたのも老人(=フォックス?)だし、絞首刑を免れたのもフォックスの「偶然」であった。警察署周辺はフォックスの思うまま。
一つ手違いがあったとすれば、主人公が警察署から逃げ出した時、巡査部長の示した原則の一つである可能な限り左折を旨とすべし(4章p370)を破り、右折したこと。そして黒幕フォックスのお目見えと相成ったのである。主人公が死んだと思っていたと言っているフォックスだが、ところが神がかった手腕で素顔も見せず、再度主人公に黒い箱を誘惑することに成功した。
そんな考え方もありかなと思う。
 
 
最後になるが、
どうやら主人公は死んでいるらしい。それは良いとしよう。それでは、もし彼が警察署で絞首刑になったらどうだったのか?これについて考えるのは、本作をとらえる上でとても面白い命題のように思われる。
主人公の心の声ジョーは夢の中で、人間は内部なるボクの種族たちに安んじて全てを託していると言い、更にボクが君のもとを去る時、君は死を迎える(8章p408-409)と言う。
主人公が絞首刑にされる寸前までは、どうやら死んだら凡俗以上の内的特質の真正にして純粋な核心(10章p437)になりたいと思っているみたいだ。
いずれにしても、彼が心酔するド・セルビィが言うには、人間存在は幻影にほかならぬ<中略>死と称される至高の幻影の接近に眩惑され心を煩わすごときは、思慮深き人にそぐわぬ所行である(冒頭引用部)そうだ。
本作の総意として、人間という存在に固執することにはあまり賛成しないらしい。それは、人間はどうせ生きているのか死んでいるのかも分からずに警察署やなんかをさ迷っているし、その世界は第三の警官のような者に干渉されているかもしれない。そうでなくとも気付けば私は半分自転車になっているかもしれない、という不可避の事態に常に直面しているとの警告からではないだろうか。
やし酒飲み (岩波文庫)

やし酒飲み (岩波文庫)

リプレイ (新潮文庫)

リプレイ (新潮文庫)

夜のみだらな鳥(ホセ・ドノソ著 集英社 1984)

ただ、物語の肝心かなめの点だけは変らない。つまり、父親の幅広なポンチョが戸口をふさいで、身分の高い登場人物である娘を隠し、作男たちの注意と報復を老婆のほうへそらすべく物語の中心から遠ざけているということである。<中略>ひとりの人間としての心理もこれといった特徴も欠いたその召使が、主家の娘に代わって物語の中心人物となり、人間には禁じられた力と接触を持つという恐ろしい罪の償いを、一身に背負っているのだ。(第2章p33)
※絶版書
 
※以下の内容には『夜のみだらな鳥』のネタばれが含まれます※
この物語とは、情報社会の現代人たる私としては、かなり長期間付き合ってきたことになりました。長く付き合わざるを得ない作品は往々にして、その物語と付き合っている時間よりも、ひとりひとりの登場人物たちと向き合い彼らの生涯を共有する時間の方が圧倒的に長くなることが多いです。基本的にそれがひとりであることはあまり無くて、時には5人とか、本当に多くの人と向き合わなくてはいけない。この話も複数人の登場人物の人生がひとつテキスト上で交錯し、チリの土壌や生活を耕している。でもそろそろこの本と一対一で向き合うのも終わりにしようと思って、一応総括的なことを書きます。
絶版本で長いから手に取りにくいでしょうが、それ以上に価値のある本だと思うので、皆さんも図書館なんかで手にとってみてはいかがでしょう?なんなら、全30章分の要約的なものを作ったので、一声かけてもらえれば提供しますんで、どうぞコメントとかツイッターとかで声をかけてください。
 
ひとことでこの話を示すと、圧倒的な血筋、権力、美貌を備えたヘロニモは、しかし生活上の問題とともに失墜し、名家アスコイティアが没落する物語、としときましょう。物語の語り手はヘロニモの元秘書であるウンベルトがほとんどなので、ウンベルトの物語と言いたいところだけど、一貫性が高いのは、ウンベルトや登場人物たちが穴があくほど注目してきたヘロニモなので。
 
ここからの進め方として、ヘロニモ付近の話、ウンベルトと修道院の話に分けたうえで、場面は大きくヘロニモ、修道院、ボーイのいるリンコナーダに分けて考えると分かりやすいでしょう。
<ヘロニモのパート>
大枠は上の青字で書いたとおりです。ヘロニモは地方のあらゆる権力を持っていて最強なんだけど、生活は思い通りにいかない家族のことでぼろぼろになってしまう。一つは妻であるイネスで、もう一つはやっと生まれた一人子のボーイ。
イネスも貴族上がりなんだけど、結構リベラルで頑固なもんで、畏れ多い権力者たるヘロニモは頭を抱えると。イネスは乳母のペータという年寄りをかなり信用しているけど、本書では(ウンベルトが?)、年寄り=貧しい、年寄り=魔女というような価値観にとても強く傾倒していて、遂にはイネスも乳母たちと見分けがつかなくなり、魔女になっている。
ペータ・ポンセのような老婆たちには、時間を重ね合わせたり混乱させたりする力がそなわっている。彼女たちは時間を掛けたり割ったりする。あらゆる出来事はその皺だらけの手の上で、華やかなプリズムに当たったように屈折し、拡散する。(13章p180)
ここでイネスとペータについて物語は重要な示唆をし続けることになります。本書の大きな幹の一つに、アスコイティア家とその勢力範囲に伝わる伝説があって、この伝説は、地主(もちろんアスコイティア家のことでしょう)の娘と魔女である乳母が夜な夜な濃密な会話をして娘が<たぶらかされそう>になったところを兄たちや父が助け、魔女を追放するという話で、これがイネスとペータに大きく重なってくるわけです。ちなみに冒頭で引用した文は父親が乳母と娘の部屋に踏み込んでいったシーンで、もはや娘も人ではないのではないか、という示唆が与えられています。実際に、この娘もイネスという名前ですが、乳母の一幕の後は修道院に閉じ込められ、多くの伝説を残した伝説のイネスとして崇められていきます。ですが、魔女であればこそ、大司教は、イネスの遺体が納められた柩を先祖代々の墓所で見ることができなかったのだ(21章p289)とはウンベルトの言葉。
伝説では2つに分かれたこの物語ですが、ヘロニモ―イネス間では大きなひずみとしてぬぐい切れなかった感がありますね。例えば、イネスはついに絶頂に達して叫び声をあげた…あれは快楽の叫びというだけではなかった。恐怖の叫びでもあった。…目を開いたとき、黄色い牝犬の姿が映ったからだった。(12章p156)
黄色い犬とはこの物語の中で繰り返し描かれる、伝説のイネスを導く魔女の姿です。まるでイネスはヘロニモではなくてペータを見ているみたいに。さらにヘロニモの示唆は十分ではなく、イネスの伝説が負の側面を負っていることを理解しないまま、イネスは伝説のイネスになるため、さびれた修道院で清貧に過ごすことに決めてしまい、<老婆>になっていく。昔の約束は、しかし、ふたりは異なるふたつの肉体であることをやめて、一体となることだった(25章p351)とあるように、伝説とは違ってイネスとペータは一つの老婆になる。(でも凄いのはこのあとイネスはちゃんと伝説のイネスになるところかな。奇跡で身ごもる衝撃がすごい(p378))
 
さて、もうひとつのヘロニモの悩みは、ボーイだった。やっと後継ぎが出来たと思ったけど、ボーイは体が不自由だったので、権力で威圧して家のためにバリバリ働かせようという思惑が難しいと思ったのでしょう。ここでヘロニモはすごいこと思いついて、障がいを持ったボーイのまわり全員が障がい者だったら自分を障がい者だと思わないよね!健常者を障がい者だと思うよね!という発想。そしてとんでもない金持ちなんで、これを実行しちゃうという。リンコナーダという屋敷を封鎖して、その中に住人として障がい者を雇い続けると。この時にヘロニモが提案したイデオロギーは、障がい者は健常者のような一義的な価値観や美的感覚に収まらない感覚を持っている、というもの。
しかし、もちろんこの計画はすでにはじまった頃からぼろぼろに崩れてしまうし、ボーイが青年の時にやっと訪れたヘロニモは、健常である自分を卑しく思い、死んでしまう。
私だけだけがこの格好で、彼らは、連中はちがう。池の水が、きっと、この顔を変える手助けをしてくれるにちがいない。水に浮いている私の仮面。…恐ろしい仮面を引き剝すために腕を伸ばす……(28章p416)
 
<ウンベルトのパート>
召使であるウンベルトと主人のヘロニモは絶望的に違う世界に住んでいるけど、2つだけ同じ思いを持っている。そのうちの1つ目は、ヘロニモが死んだのと同じこと。ウンベルトはリンコナーダで健常であることを考えて、秘書としての力を完全になくしてしまう。池の水面に映った己の姿を眺めた。たしかに醜くて、卑しい(15章p202)のである。リンコナーダについてのトラウマは、ヘロニモはボーイに対するものだけど、ウンベルトのものはどうやら同僚であるエンペラトリスやアスーラ博士に向かっていく。こうして彼の新しい<ムディート>としての生が始まることになるわけだけど。
確かに最後の一歩、ヘロニモの後を押したのはリンコナーダでの一件だとしても、それまでの生活でも精神的に切迫していただろうということが分かるのがウンベルトともう一つの共通理解であって、これが主従関係を規定するもの、主従関係は見方によっていつでも逆転するのだという考えでしょう。この考え方も一つ大きな概念として印象に残ったと思うんです。
これについてまずはヘロニモの言
ここでこうして、おれたちの仕合せを見せつけられているが、お前たちは所詮、飢えた目でしかない。いやいや、証人であるお前たちこそ主人なのだ。ふたりの快楽の能力をその前で証明しろという要求にこの場でしたがわなければ、お前たちはさっさと消えてしまうだろう(12章p154)
対して召使たちがごみを集め貯め込むのを評したウンベルトの言
闇のなかのかのじょたちはそうした不潔な汚れもので、それらを奪い取った主人たちだけではなく世間全体の、いわばネガを再現して楽しんでいるのだと(4章p51)
 
さて、物語の主な語り手たる者はウンベルトだけど、外的実体はその形を大きく変えていく。時系列順に言えば、幼少期ウンベルト→ヘロニモの秘書であるウンベルト→修道院の<ムディート>→イリスの子として生まれたボーイ、ということになるかな。
貴族階級への強い憧れをもつウンベルトは上述のように潰れ、ムディートとなる。
 
ムディートは修道院の下人で、老婆たちにまぎれて暮らしている。ムディートはいつからか老婆の一種になってしまった。もちろん、ペータやアスーラ博士から逃れよう(という強迫観念)として半ば自発的にまぎれてるんだけど、半分は圧倒的な老婆力みたいなものに飲み込まれていくと見える。
俺はすでに存在しないのだ。おれには声も性器もない。おれは七番目の老婆なのだ。おれはとっくの昔に知性など捨ててしまった(8章p103)
この話は結構この老婆力が優勢で、貴族力と拮抗している。ウンベルトも典型的な貴族志向の人間だったのに、その人生いつの間にか老婆になっている。他にも金持ちであることをやめたいと思ってる人がごまんと出てくる。もう引退したいラケル夫人や清貧にいそしむイネス、老婆をやめたくないブリヒダ、ついに最後にはシスター・ベニータまで老婆になっていく。でもこの中でラケル夫人は唯一老婆にならない、なんでだ。
 
一つの要因はきっとこれだろう。
さっき老婆力ということを言ったけど、何というか老婆が繁殖する場所がなければこんなにやすやすと取り込まれてしまわないと思うんです。だから、ポイントは閉鎖的な環境なのかなと。本書では、神経質なまでに壁をふさいで外界からの(悪)影響を絶つという考え方が随所に見られて、その実体としてのリンコナーダや修道院であり、インブンチェが出てくる。
修道院に住む老婆たちは、
全ての光を奪ってしまうものの訪れを待ちつづける。不意に襲う暗黒のなかでは、悲鳴をあげることもままならない。暗がりだと助けを求める声さえ、ちょっとやそっとでは見つからないからだ(1章p19)
いや、ムディートが神経質に自らふさいでるわけだけど。だだっ広く閑散として、丁寧に外界と遮断された空間ではこんなことがあってもおかしくない。
リンコナーダも要は健常者を外界から決して入れない要塞として内部秩序を守っていて、修道院とパラレルに話が進んでいくから、すごく両者が重なり合って繰り返しくりかえし刷り込まれていくような感覚。
 
インブンチェというのはこの地域の怪物で、赤ん坊の穴という穴を縫いふさがれると出来るらしい。ひゃー恐ろしい、そりゃ怪物にもなるわ。
お行儀よくしないとインブンチェにしちゃうよ、とインディオの血がなかばまじった祖母が、当時まだ恐がりや女の子だったブリヒダを嚇かしたことがあった。古い時代のよその土地で育った、もともと彼女は田舎者である。インブンチェになってみたい、あるいは他人をインブンチェにしてみたいという誘惑は、そこから生れて意識の底に潜んでいた(4章p50)
こういったある種の神話的要素と、全てをふさぐという閉鎖性がこの物語を大きく一つにまとめ上げているみたいな感じ。例えば、インブンチェを作り上げようとする老婆たちの心境といえばこんなもん
あの子に言葉ひとつ教えちゃいけないのよ。それどころか、知っている言葉を、忘れさせなきゃいけないのよ。ひとつでも、ふたつでも喋ったら、それが始まりで、わたしたちには分からない悪いことを、どんどん喋るようになるかもしれないんだから(29章p425)
ここに書かれた<あの子>というのは実は語り手のムディートの生まれ変わり(?)で、ある日イリスの子として生まれた。インブンチェの作り手たる老婆の心持ちのなかに外界への不安のような動機がある一方で、インブンチェ自身はというと、語り手の独白ではこんなかんじ
すれてヒリヒリする痛み、けばによる息苦しさ、締めつけられる圧迫感。これがおれの唯一の存在の形式なのだ<中略>おれには過去の記憶がなく、未来についてはなんの見通しもない。すべてを忘れ、すべてに忘れられて、忘却という、この至福の静寂のなかに安息している(30章p443)
ふさぐ不安とふさがれる安心が、ある程度の妥協の結果成り立っている様子。
 
この閉鎖性の潔癖さがどうこうというだけの話ではなくて、例えばヘロニモだって何も死ぬこたぁねえよと思うけれど、思いつめた人が外界からガチガチに閉鎖した空間に投げ出されてしまっては、内部からの非難の目というか、迫ってくるものがあるんだろう。ユビキタス社会になりつつある私の生活からすると、こういう土地だとか土くれで出来た壁だとかそういったものに分節される感覚ってそろそろなくしちゃうんじゃないかと思ったりするもんです。