私自身の見えない徴(エイミー・ベンダー著 角川文庫 2010)

以前、私は死というものは私たちの体のどこかに隠されているのかもしれないと考えていた。<中略>人それぞれちがう。それぞれの寿命が決まっている。あなたが死を迎える日、それは溶け出して体中から流れ出す。温かい、お風呂でたっぷりかく汗みたいに。その日まで。死は待っている――封印され、沈黙して。(part1 [20] 第9章)

 
※以下の内容には『私自身の見えない徴』のネタばれが含まれます※

エイミー・ベンダーの作品は、以前に『燃えるスカートの少女』を読んでいて、これが非常に素晴らしかったので、ぜひレビューしたいと思ったのですけど、短編だし、砂金をすくうようにして言葉を一言ぽんと乗せればいいという気もしなかったので、長編ならば是非にと思って手に取った作品でした。非常に直感的で独善的な短い文の中に、ファウスト作家もびっくりの他に類を見ない、彼女にしか表現できない(見えない)世界を描いてくれます。
 
この話を一言でまとめるとすれば、止めることで自ら世界から遮断されてきたモナ・グレイが、そのことに気づかされる話、とすることにします。
モナは、父親が病気になった時から自分も色々なことを<止め>はじめます。モナは、これはすごい技だ。上手く止めるためには、直感的に美しさを見抜かなくてはならない。どこで方向転換するかを感じとらなくてはいけない。たとえば、枝で桃が甘くなるように「止めること」が熟したときとか・・・(1p17)と言っているけれど、私にはこの言葉を素直に受け入れることは難しいです。
明らかに止める物事たちの発端はと言えばお父さんと一緒に止めなくてはいけなかったことだし、こういった言葉に先行して、でもお父さんは出来ないしなぁ、という気持ちがあるだろう。一つには、旅行の計画をするときであったり、また、陸上で走ることもたぶん。お父さんも元々は各種競技を総なめにするような素晴らしい陸上選手で、モナはいつも、いつかあの背中を追い越してやるぞ!と考えていたんだけど、本人が考えてたのとは全く違う形で達成してしまった、不戦勝になってしまったわけだ。
いまでは私のほうが父よりずっと速く歩くので、ミス・スピーディーという名前はその正しさのせいですごくいやな名前になった(4p52)
こうして多くのことを止めていくけど、それには代償が必要で、そのおまじないのようなものがノックすること。モナは10年弱の間に、ノックの中に欲望や自分自身の一部を封じ込める方法を完璧にマスターした。とても観念的で厳格な<自分ルール>のもとに。
 
でも、こうして自分自身の徴(しるし)を外部どころか自分にも見えないところに押しやっていくのが、無自覚にでしょうけど、どうも上手くいかないようだ。どうしたものか、となってくる。例えば、まれに、衝動的に斧で自分に徴をつけてみたくなる。斧で体を切ってしまえば、誰が見ても分かる一つの意味を持つでしょう、決して隠すことなんてできないでしょう。そうすれば、切り口から内側に封印していたものが抑えようもなく出てきてしまうかもしれないし、それはしょうがないことかも。
 
モナは数学の教員になるけど、子どもたちの描写がとてもいきいきしていて、ほとんど怪物たちのようで、本書のうりのひとつでしょう。
さて、子どもたちは対照的に、自分の世界を十二分にぶつけてくるのだけど、とりわけモナは、母親がもうすぐ死ぬことが分かっているリサ・ヴィーナスに激しく共感し、揺さぶられていくことになるわけです。
リサはとても得意そうに真実を掲げ、彼女は看板でありメガフォンであり、生理食塩水とビニールで宝石を作り上げていたため、私は猛烈に、ねっとりと、彼女が妬ましかったのだ。(5p65)
でも、いつもいつも声高に、母親が癌です!って言っちゃうのって、そのことについていつも考えてるからでしょう。リサも自分なりにそのことについて色々アプローチしてみていて、仮に自分が死んだらどうか?とかそんな気持ちがたまによぎるのも、あるいは<母親だけが死ぬということ>についての手探りのある視点なんじゃないかなぁ。
遂には、斧で自分を傷つけてみたいモナとリサを差し置いて、成り行きでアンが実際にけがをしてしまうわけだけど、このときリサはこう言います
わたしはわたしの腕を切り落としたかった、わたしはやりたかった、どうしてアンがやったりしたの、どうしてダニーのパパにはやれたの、どうしてアンが斧を取ったの、わたしはカーペットじゅうに血をまきちらしたかった、わたしは化学療法を受けたい、わたしは髪の毛なんかなくなりたい、わたしも病院にいたい、ママはたったひとりで死んでいかなくちゃならない・・・(22p266)
二人はとても近い悩みを抱えているんだけど、じゃあお互いに助け合いましょうとか、客観的に相手を見て落ち着けたとか、そういったうさんくさい話にはならなくて、むしろ困難さがひときわ浮き彫りになっていくのです。だってしょうがないよね、誰にもどうすることも出来ないことなんだから。
 
この後リサは、おでこを自らぶつけてたくさん出血することになるんだけど、これについてモナはこう考えるのです
裏庭で円から出ようとするわたしの父みたいに、あの子は自分の頭から押し出そうとしていた、追い出そうとしていた、消そうとしていた、額に穴をあけてやればたぶん悪いものが、泡から立ち上る煙のように、そのまま染み出してゆくんじゃないかと(23p271)
リサが本当にこんな風に考えていたとはあまり考えられないけど、こんなに具体的なイメージはモナ本人が一番強く抱いてきたイメージなんじゃないかい?ノック一回ごとにため込んできた<悪いもの>が、<泡から立ち上る煙>のようなものが出て行ってしまうのが恐いけど、いっそそうなってくれたら・・・
 
だから、理科の先生スミスはちょっと苦手だ。なぜなら、
賛成しなかった人、わたしが妥協したときにあっさり見抜いた男に、手をふれることなんかできない。その気持ちと戦うためには、バケツを飲みこまなくてはならない。泡立つお風呂をまるごと飲み干さなくてはならない(13p154)
から。スミスはどろどろした泡にタバコの煙を入れて飛ばしたいと思っている。こういうことを自然にしちゃうわけだ。そして、ずばり君はウソをついているね?とか聞かれちゃう。だからなんとなく決まりが悪くなって対面できないし、初めに家に来た時も耐えられなくて石鹸を食べちゃう(!)ことになる。自分で何か<悪いもの>をため込もうとしたのかも。だけどスミスはウソをつく君は全然好きじゃない!って言ってくれる。この時フラッシュバックした音楽の先生の言葉が何か格言めいている
あなたを愛しているだれかが、これは少なくとも部分的にはうそだとお互いにほんとうは心の底でわかっていることを何とか信じようと無理しているのを見るのは、やっぱりすごくひどい、すごくいやなことよ(17p205)
全然気付かなかったけど、スミスって潔白な男として出てくるんだな。。。
物語の最後に出てくるスミスは、モナに石鹸を食べさせないようにする。そんなものは体にため込まなくていいんだよ、ってことなのかな。やさしいね。
 
スミスの件だけではなくて物語は終盤になると、どうも、全てをノックのおまじないで体に封印するのが違うのではないか・・・という結論に達するかもしれない、非常に遠回りな事実というのがいくつか現れる。
一つには、子どもたちはみんなグレイ先生のノックを知ってるよ!ってリサが暴露すること。ノックは私自身の、うしろめたい、個人的なギロチンとして(22p261)こっそりやってたつもりだったのに。
また、部屋で首から下げる新しい数字を作っている場面で、ジョーンズさんも意外と自分の話を聞いてくれていたことが分かってきます。
そして、自分自身の思い込みも、はずれて肩すかしというか、とり越し苦労というかそんな感じで、自分の家に50のマラソンゼッケンがあったから父は50歳で死ぬかも、アンの家にジョーンズさんの42があったからディランの夫婦は・・・
ということは全く見当が外れていたという結果になったのです。この大いなる勘の的外れは、否応なくモナの心の在り方を変えるきっかけになるはずでしょう(当面は良い方向に?)。なぜなら、この直感はモナの死に対する幼いころの印象・経験を踏まえたものだから。
つまり、ジョーンズさんの言葉を借りれば、モナ、君は色褪せちゃったなぁ、という話です。本人も何と戦ってるんだろう?と考えるきっかけになったんじゃないかな。
 
こうして、モナは少しだけ物事、とりわけ死と向き合えるようになったらしい。父の51歳の誕生日には、以前には決まりが悪いと思っていたマラソン選手の写真集をあげたし、それまでどうしても会えなかったリサのお母さんに会いに行こうと計画している。父がしてくれた話も、死のある町に喜んで向かっていく改変を加えてリサに話してあげることになる。
 
リサはまだ現状に対する心の矛先をどう制御したらいいか分からなくている。でも毎日学校に行っていて、遊びもすれば算数がちょっと好きだったりする・・・そんなリサと先生をクビになったモナが映画に行く前にリサはレーズンアイスを買うんだけど、このラストシーンはとてもいいシーンです。
あなたを買う人なんてぜんぜんいないよー、と彼女はいった。レーズンが好きなの?と私は訊いた。いいえ、と彼女はいった。レーズン・ブランのシリアルなら好きですけど。私は笑った。わたしはレーズン・アイスクリームがお払い箱にならないようにしたいだけ
<中略>
捨てていいよ、と私は彼女にいった。気にしないから。悪いなんて思わなくても、私はかまわないから。
<中略>
彼女はちょっと泣き、涙が競走するみたいに頬をまっすぐ伝って落ちた。二、三分して、彼女は口を開いた。レーズン・アイスクリームを捨てちゃいやだ、と彼女はいった。いまでは溶けたアイスでコーンもぐずぐずになった、紫茶色のどろどろのしずくができてきた。(28p321)
 
リサのお母さんはいつか死ぬわけで、いつかもしかしたらモナの物語で状況を受け入れることが出来ることもあるかもしれないけど、できればその時にも、ぱっとしない運命にあるレーズン・アイスクリームを気遣うような気付きを持っていてくれるとうれしいかなと、そう思いますね。
 
燃えるスカートの少女 (角川文庫)

燃えるスカートの少女 (角川文庫)

輪るピングドラム(監督:幾原邦彦 制作:ブレインズ・ベース) 考察

この世界は強欲な者にしか実りの果実を与えようとしない。だから、全てを捨てた父を私は美しい人だと思っていた。でも、目に見える美しさには必ず影がある。あそこは美しい棺。私はそのことに気づかない子どもだった。(22話 夏目真砂子)
 

輪るピングドラム 1(期間限定版) [Blu-ray]

輪るピングドラム 1(期間限定版) [Blu-ray]

 
※以下の内容には『輪るピングドラム』のネタばれが含まれます※
 
難解な物語が横たわり、イクニさんと言えばという演劇のような独特の感じにペンギンの可笑しみと何やら不穏な大量のピクトグラムたち。この組み合わせが噛み合っているのかどうか分からないので、うん・・・これはこれで・・・と言うしかない、って圧倒され続けて視聴してきた人は私だけではないはずですよね。
そして何よりこれらの混沌を背景にしながら、不自然なまでの明るい家族、キャラクターたち、カラフルな家。。。視聴者も、不穏な背景を気にしないように、登場人物たちに明るく楽しくついて行くしかないわけです。そしてある時タガが外れてがくっと運命の輪に吸いこまれていくわけです。生存戦略、もう引き返せない。
 
で、話が込み入っていて、難解というよりは、思い込みと多角的な目的が錯綜して掘り起こしきれないので、話の筋が分かるまでにえらい時間がかかっちゃいました。この懐の広さがすごいとともに、解釈に不安な部分も残りますよね。
一言で話をまとめるのは色々な方法があると思うんですが、さしあたって自分が一番しっくりくるのは、 高倉冠葉が何者にもなれない自分を受容していく 話ですかね。
 
 
では考察に入ります。
 
<人間はみんな子どもブロイラーで透明にされてきた>
まずは、もうどうでも良くなってるかもしれないけど、重要な子どもブロイラーから考えます。誰にも愛されていない子どもがベルトコンベヤーで下って、粉々になって透明になるわけです。園子温の『冷たい熱帯魚』でも、殺人をしても、サイコロステーキの大きさにして魚のえさにしちゃえば、「透明になっちまう」って言ってましたよね。
ここで18話を参考にすると、多蕗は子どもブロイラーに透明にされかけていて、桃果が無償の救済をしてくれた過去があるんだけど、今度は自分が陽毬を透明にしかけていて、冠葉が無償の救済をしている、の図、これを引き起こしています。冠葉の思いやりで我に返る。で、「僕みたいになっちゃだめだよ、苹果ちゃん
 
でも、迷走の結果、多蕗さん後に重要なことに気付きます。君と僕はあらかじめ失われた子供だった。でも世界中のほとんどの子供たちはぼくらと一緒だよ。だからたった1度でもいい、誰かの愛してるって言葉が必要だった(22話、24話)
実はみんな子どもブロイラーに行くくらいにはつらい思いをしてるんだ!って。だから子どもブロイラーには、僕らがうらやましかったあの子やこの子もいたかも・・・
 
これを眞悧先生や黒ウサギ風に言うと、世界はいくつもの箱だよ。人は体を折り曲げて自分の箱に入るんだ(23話、眞悧)一生そのままで、いつしか自分が、何が好きだったかとか、そういうことを忘れちゃう。で、僕らは箱の中でひとりぼっち。そこで何かを得ることはないだろう。出口はどこにもなく、誰も助けられない。たとえ隣に誰かいても壁を越えて繋がることはできない。だから壊すしかない(全て23話の眞悧談)。
ウサギは、何者にもなれなかったけど、力を手に入れ、自分を必要としなかった世界に復讐する、そしてやっと透明じゃなくなる!って言ってる(23話)。
特別な誰かじゃなくて、世の中のみんなが、箱に入っていて、以前は子どもブロイラーで透明にされてきたんだ!ってね。ここまでは多蕗、ゆり、眞悧の共通認識。
 
もうひとつ、子どもブロイラーの象徴として換気扇があるけど、それよりももっと劇中で広く使われてるものがあります。それは<粉々になった>ガラスの破片です。これが最終話までしつこくこびり付いてきます。
 
 
 
<潔白の荻野目姉妹と罪深い高倉兄弟>
苹果ちゃんの、この物語の中での考えをざっくり分けると、桃果になりたい!→日記を取られてあきらめる(それどころじゃなくなる)が、ゆりに半分返される(23話)→運命とか別に変えたくないけど・・・(なぜなら苹果は運命って言葉が好き!だし)→運命を乗り換えて陽毬ちゃんを守る!罪も背負う!という感じ。
 
なんで苹果は桃果になれなかったか?それは多蕗・ゆりという桃果に助けられた組の仲間になれなかったからで、それは苹果が高倉兄弟と仲良くしてたからですね。でも最終的には桃果のようになれるわけです。最後に陽毬を助けたい、無償で助けたい!って思えたから。もう桃果の日記は必要ない。あなたたちって似てる、ってゆりさんも言ってたよね。生まれながらにして無償で人を愛せる系譜なわけです。
でも一つ重要なのは、苹果ちゃんの呪文は厳密には自分のものじゃない。ダブルHに教えてもらったわけだから、陽毬とダブルH、そして実行者としての苹果ちゃんがいて始めて呪文が成り立つ。あんなに簡単な呪文だけどね。で、後述しますけど、実はあの呪文は苹果→陽毬、となったわけじゃない。たぶん意図せず。
 
荻野目姉妹とは反対の系譜が高倉冠葉・昌馬兄弟です。12話を思い出してください。メリーさんはリンゴの木をよみがえらせたけど、怒った女神様に、一番理不尽な罰を受けてしまう。メリーさんの3匹の子羊のうち一番小さい女の子を罰したので。その後は、この罪を3匹が共有している(主に陽毬)わけ。
3人が罪を背負っていたことには、陽毬は結構ずっと気づいていて、次に昌馬が24話で気付く、と。なんで3人が罪を共有しているかというと、冠葉→陽毬、陽毬→昌馬、昌馬→冠葉がそれぞれ運命の人で、ピングドラムはこの3人の中で輪っているから。
 
 
 
<冠葉を軸に、23話あたりから最後までの考察>
運命を受け入れたくない人はたくさんいるだろうけど、とりわけ高倉兄弟ほど受け入れたくない人もいないだろうね。ずっと罪を背負わなくちゃいけないし。「運命って言葉が嫌いだ(1話13話、昌馬 12話、冠葉)」ってね、なぜなら、「何者にもなれないってことだけがはっきりしていたんだから(同上)」
 
冠葉は、何者かになりたかったわけだ。そして、オレと陽毬は新しい世界に一緒に行くんだ!(23話、冠葉)箱の中から抜け出して、っていうカッコつきでね。
すると、どうやら同様に何者かになりたい男とコミットするのは当然のように考えられます。眞悧は<箱を壊す>力を与え、冠葉は実行する。
ところが、眞悧もとい「企鵝の会」は幻のものなんですよ。眞悧は幽霊だし、両親はもう死んでる。真砂子はこのことにずっと気づいていた。この記事の冒頭で挙げたセリフが物語ってる。何も分からなかった自分を以前冠葉は助けてくれた。でも今や冠葉は「お父様のように組織に使い捨てられ」つつあり、所詮<何者にもなれない>。そして、世界も運命も魔法で変えることなんてできない!(23話、真砂子)って本人に訴えかけてる。
でも悲しいことに、結果的には真砂子は冠葉・眞悧の作戦に加担してしまう。それは、正義よりも実際の冠葉の命の方が大切だからやむを得ないし、<命をかけて守りたい、愛してる>っていう方を選んだわけですね。だから、「ごめんなさいマリオさん、あなたを守れなかった」のです。
 
しかし、最終回に入って、冠葉に対して陽毬は「一緒に帰ろう」って言います。冠葉は、選ばれし者としての力をまだ陽毬に与えていない(過去に昌馬にリンゴをあげた実績もあって)からだめだ!ってなる。
けど、この時は実は陽毬や昌馬が冠葉に何かをあげる番だったんですよ。陽毬はガラスの破片に傷つきながら冠葉の元へ向かう。粉々になって透明な世界の中で、特別な冠葉だけをまっすぐに見てる。子どもブロイラーでお馴染になった図ですね。自分がもらう番だと気付いたとき、力を持っていない(何者にもなれない)冠葉が露呈して、同時に<箱を壊す>力を拒否する方にシフトした。
これを受容したということは、リンゴ(=宇宙そのもの)によって、箱を壊す以外の方法で<隣の人と繋がれる>可能性を受容したということです(cf.過去に冠葉が昌馬にリンゴをあげた)。文字通りリンゴはこの世界とあっちの世界をつなぐものとなっています。
 
このあたりを理解するカギは、1話で二人の子供が意味深にしゃべってたことです。こういったことに気づけたので、運命の乗り換え後冠葉は同じことを言います(24話)。
リンゴは宇宙そのものなんだよ。手のひらに乗る宇宙。この世界とあっちの世界をつなぐものだよ。
―あっちの世界?
カンパネルらや他の乗客が向かってる世界だよ
―それとリンゴに何の関係があるんだ?
つまり、リンゴは愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ。
―でも、死んだら全部おしまいじゃん。
おしまいじゃないよ!むしろそこから始まるって賢治は言いたいんだ。・・・
 
でも、自分に力がないということは陽毬は助からないということになります。ただ、ピングドラムの受け渡しはできるので、何も持たない<自分の命に変え>れば陽毬は助かる。この条件があって、偶然この場面で冠葉は<愛による死を自ら選択する>ことになる。冠葉は<何者にもなれない>ので子どもブロイラーのように粉々にされ、透明になっていきます。この場面で箱に入った人間を粉々にする機械のカットも出てきます。
そして、<ごほうび>として<苹果>が呪文を唱え、<この世界とあっちの世界をつな>ぎ(運命の乗り換え)、<むしろそこから始まる>のです。ペンギンも箱の中に入っていって、子どもブロイラーと同じベルトコンベアーに乗って落ちる覚悟をします(運命が乗り換わって逆向きに動きだしますが)。
 
このとき、ごほうびとして運命の乗り換えが起こったのは誰なのでしょう?
冠葉を守った真砂子
冠ちゃんを命に代えてでも止めようとした陽毬
陽毬ちゃんの運命を変えて罰を受けようとした苹果
陽毬にピングドラムを渡した冠葉
そして、苹果ちゃんの罰を請け負った昌馬
 
苹果の罰を昌馬が負ったのは、上述したように昌馬は罰せられるべきだと自ら運命を受け入れたから。この時駅名の標識は「命⇔蠍の炎」と書かれています。
銀河鉄道の夜』を参照すると、蠍は、今まで散々毒針で殺しておいて(罪深い自分)イタチに追いかけられた時になぜ素直に食べられなかったのだろう?そうすればイタチはその分生きながらえたろうに・・・という話ですから、この場面では昌馬が運命を悟って自ら苹果に食べられる、という図式が成り立つでしょうね。昌馬はこのとき苹果に<愛してる>っていいますよね。
 
この思いやりの連鎖の結果として、今回は陽毬と苹果は生き残って、冠葉と昌馬は死ぬ(?)ことになったわけだけど、「リンゴは宇宙そのものだよ・・・」というセリフを喋る冠葉と昌馬はどこかおそらくカンパネルラや桃果のいる世界に向かって進んでいきます「これからどこに行こうか」って。
 
 
最後に、ここまで追ってくると、<愛による死を自ら選択する>ことだけが唯一だとなりそうだけど、そうじゃない人もいる。多蕗とゆりたちだ。それでもいいわけだ。
 
多蕗「君と僕はあらかじめ失われた子どもだった。でも世界中のほとんどの子供たちは僕らと一緒だよ。だからたった一度でもいい、誰かの愛してるって言葉が必要だった
ゆり「たとえ運命が全てを奪ったとしても、愛された子供はきっと幸せになれる。私たちはそれをするために世界に残されたのね
多蕗「愛してる
ゆり「愛してるわ」(22話、24話)
 
彼らは運命の乗り換えを行っていない。なぜなら、死を選択したわけじゃないから。それでもいいわけだ。あらかじめ失われた子供たちは愛してるって言葉の後に救われて、そうして皆が<そうするために>この世界に残されたんだから。

神様のボート(江國香織著 新潮文庫 2002)

でもそれはかなしいことじゃないわ。<中略>すぎたことは絶対変わらないもの。いつもそこにあるのよ。すぎたことだけが、確実に私たちのものなんだと思うわ(1997・高萩 p20)
 

神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)

※以下の内容には『神様のボート』のネタばれが含まれます※
 
家族って何なんだろうね。近くて遠いですよね。近いってのは物理的な距離の話だけど、遠いって(むしろこっちの方が強く感じる)たぶん生きるスピードの違いだと思うんだ。
 
江國香織の本は実を言うと今まで読んだことがなかったから読んでみた。
子連れで遍歴を続けていた親子が、草子の高校進学とともに草子は寮に入り、葉子は東京へ帰ってゆく話 と、まとまらないです。なにせ300ページ弱の中に7年が詰まっているのだからまとまりようもないですね。だけど、実際はというと、7年も詰めないと300ページが埋まらないほどには平坦な物語になっている。
ただし、これは葉子の尺度であって、確かに葉子は旅に出て以来時が止まったような生活をしていて、四季は同じ軌道を円環して、こんなに動かない生活は「あの人」にとって(そして自分にとっても)不誠実だと思っているだろう。
葉子にとって引っ越すということは、ちょうど草子が「位置移動」するのと同じなのじゃないかと思う。ただ寝ているだけではつまらない。ただ、草子の位置移動の場合ママはいつも帰ってくるし、たまには4人で出来たりもするけど、葉子の場合はそうはいかない。なんせ「あの人」は東京で葉子の帰りを待っているのだから、昼夜を問わず出会えるはずがない(一応言っとくと、最後に葉子とあの人が本当に会ったのかどうかは定かではないと思う)。
 
だけど、草子のほうはというと、引っ越しは大冒険で、わくわくする。劇薬だ。それに小学生から中学生なんて何もなくても波乱万丈で生きていくだけでもものすごく大変だし、知り合いもコロコロと変わってしまう。
ちょうどいいので草子視点で遍歴をまとめるなら、
 
場所 時期       友達
高萩 小学校中学年 りか子ちゃん
佐倉 小学校高学年 沼田くん
逗子 中学生      依子ちゃん
 
引っ越すときに沼田くんは「仕方ないね、親の都合だから(p164)」とか言うけど、依子ちゃんは片親の草子に養育費はどうなの?とか聞いてきたりする。
 
早い話が、葉子と草子は同じ空間を生きているけど、それぞれが持つ物語の進行については全く歩幅があっていない。
葉子としても、家出してもいいし、引っ越すのだって草子が嫌なら延ばしてもいい、けど、なんで寮に入っちゃうの??って思ってる。本当はこんなことばっかりなんじゃないか。
草子が小さい頃は、このどうして?の多くが草子の側にあって、パパと出会う夢を見たりする。ただ、小さな頃にはドグマがあって、
すぎたことはみんな箱の中に入ってしまうから、絶対になくす心配がないの。すてきでしょう?(p20)
これがすんなり今の状況を打開できるアイデアのように思えるし、すごく素敵な感じがする!ということで、また実際に葉子も本当にこう思っているわけだから、ママの目線の先についてある程度の理解があったとも言える。
でも、ママは新しいものを拒まない。でも絶対慣れてしまわない(p189)ことを不思議だとも思う。
 
二人が寮制の高校に行くことでもめる時も、草子は、
ママにはわからないかもしれないけど、あたしは慣れた場所で暮らしたいの。慣れた場所で、慣れた人たちの中で(p208)
と言うけれど、「ママ」が「わからない」なんて思ってたというよりは、だらだらとした共依存関係を思い切って脱却しようとしているととらえた方が自然だし、だからこそ何か空しい感じがしていて、本質的には家を出るという事実と関係のないものだろうと思う。
 
こうして葉子の、ひとまとまりの物語は、足の速い草子によってここで強制終了させられた。だから、この物語は葉子の物語のようであって、実は草子の物語なのである。ここへきて葉子はひたすら果たしてきた今までの物語より前の物語を思い出すとともに、もう草子を連れまわすことも、ぬいぐるみと寝かせることも出来なくなった。
 
するとどういうわけか、あれほど探しても見つからなかった人が、以前の物語の登場人物が、ひょっこりと顔をだしたりすることもある。