輪るピングドラム(監督:幾原邦彦 制作:ブレインズ・ベース) 考察

この世界は強欲な者にしか実りの果実を与えようとしない。だから、全てを捨てた父を私は美しい人だと思っていた。でも、目に見える美しさには必ず影がある。あそこは美しい棺。私はそのことに気づかない子どもだった。(22話 夏目真砂子)
 

輪るピングドラム 1(期間限定版) [Blu-ray]

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※以下の内容には『輪るピングドラム』のネタばれが含まれます※
 
難解な物語が横たわり、イクニさんと言えばという演劇のような独特の感じにペンギンの可笑しみと何やら不穏な大量のピクトグラムたち。この組み合わせが噛み合っているのかどうか分からないので、うん・・・これはこれで・・・と言うしかない、って圧倒され続けて視聴してきた人は私だけではないはずですよね。
そして何よりこれらの混沌を背景にしながら、不自然なまでの明るい家族、キャラクターたち、カラフルな家。。。視聴者も、不穏な背景を気にしないように、登場人物たちに明るく楽しくついて行くしかないわけです。そしてある時タガが外れてがくっと運命の輪に吸いこまれていくわけです。生存戦略、もう引き返せない。
 
で、話が込み入っていて、難解というよりは、思い込みと多角的な目的が錯綜して掘り起こしきれないので、話の筋が分かるまでにえらい時間がかかっちゃいました。この懐の広さがすごいとともに、解釈に不安な部分も残りますよね。
一言で話をまとめるのは色々な方法があると思うんですが、さしあたって自分が一番しっくりくるのは、 高倉冠葉が何者にもなれない自分を受容していく 話ですかね。
 
 
では考察に入ります。
 
<人間はみんな子どもブロイラーで透明にされてきた>
まずは、もうどうでも良くなってるかもしれないけど、重要な子どもブロイラーから考えます。誰にも愛されていない子どもがベルトコンベヤーで下って、粉々になって透明になるわけです。園子温の『冷たい熱帯魚』でも、殺人をしても、サイコロステーキの大きさにして魚のえさにしちゃえば、「透明になっちまう」って言ってましたよね。
ここで18話を参考にすると、多蕗は子どもブロイラーに透明にされかけていて、桃果が無償の救済をしてくれた過去があるんだけど、今度は自分が陽毬を透明にしかけていて、冠葉が無償の救済をしている、の図、これを引き起こしています。冠葉の思いやりで我に返る。で、「僕みたいになっちゃだめだよ、苹果ちゃん
 
でも、迷走の結果、多蕗さん後に重要なことに気付きます。君と僕はあらかじめ失われた子供だった。でも世界中のほとんどの子供たちはぼくらと一緒だよ。だからたった1度でもいい、誰かの愛してるって言葉が必要だった(22話、24話)
実はみんな子どもブロイラーに行くくらいにはつらい思いをしてるんだ!って。だから子どもブロイラーには、僕らがうらやましかったあの子やこの子もいたかも・・・
 
これを眞悧先生や黒ウサギ風に言うと、世界はいくつもの箱だよ。人は体を折り曲げて自分の箱に入るんだ(23話、眞悧)一生そのままで、いつしか自分が、何が好きだったかとか、そういうことを忘れちゃう。で、僕らは箱の中でひとりぼっち。そこで何かを得ることはないだろう。出口はどこにもなく、誰も助けられない。たとえ隣に誰かいても壁を越えて繋がることはできない。だから壊すしかない(全て23話の眞悧談)。
ウサギは、何者にもなれなかったけど、力を手に入れ、自分を必要としなかった世界に復讐する、そしてやっと透明じゃなくなる!って言ってる(23話)。
特別な誰かじゃなくて、世の中のみんなが、箱に入っていて、以前は子どもブロイラーで透明にされてきたんだ!ってね。ここまでは多蕗、ゆり、眞悧の共通認識。
 
もうひとつ、子どもブロイラーの象徴として換気扇があるけど、それよりももっと劇中で広く使われてるものがあります。それは<粉々になった>ガラスの破片です。これが最終話までしつこくこびり付いてきます。
 
 
 
<潔白の荻野目姉妹と罪深い高倉兄弟>
苹果ちゃんの、この物語の中での考えをざっくり分けると、桃果になりたい!→日記を取られてあきらめる(それどころじゃなくなる)が、ゆりに半分返される(23話)→運命とか別に変えたくないけど・・・(なぜなら苹果は運命って言葉が好き!だし)→運命を乗り換えて陽毬ちゃんを守る!罪も背負う!という感じ。
 
なんで苹果は桃果になれなかったか?それは多蕗・ゆりという桃果に助けられた組の仲間になれなかったからで、それは苹果が高倉兄弟と仲良くしてたからですね。でも最終的には桃果のようになれるわけです。最後に陽毬を助けたい、無償で助けたい!って思えたから。もう桃果の日記は必要ない。あなたたちって似てる、ってゆりさんも言ってたよね。生まれながらにして無償で人を愛せる系譜なわけです。
でも一つ重要なのは、苹果ちゃんの呪文は厳密には自分のものじゃない。ダブルHに教えてもらったわけだから、陽毬とダブルH、そして実行者としての苹果ちゃんがいて始めて呪文が成り立つ。あんなに簡単な呪文だけどね。で、後述しますけど、実はあの呪文は苹果→陽毬、となったわけじゃない。たぶん意図せず。
 
荻野目姉妹とは反対の系譜が高倉冠葉・昌馬兄弟です。12話を思い出してください。メリーさんはリンゴの木をよみがえらせたけど、怒った女神様に、一番理不尽な罰を受けてしまう。メリーさんの3匹の子羊のうち一番小さい女の子を罰したので。その後は、この罪を3匹が共有している(主に陽毬)わけ。
3人が罪を背負っていたことには、陽毬は結構ずっと気づいていて、次に昌馬が24話で気付く、と。なんで3人が罪を共有しているかというと、冠葉→陽毬、陽毬→昌馬、昌馬→冠葉がそれぞれ運命の人で、ピングドラムはこの3人の中で輪っているから。
 
 
 
<冠葉を軸に、23話あたりから最後までの考察>
運命を受け入れたくない人はたくさんいるだろうけど、とりわけ高倉兄弟ほど受け入れたくない人もいないだろうね。ずっと罪を背負わなくちゃいけないし。「運命って言葉が嫌いだ(1話13話、昌馬 12話、冠葉)」ってね、なぜなら、「何者にもなれないってことだけがはっきりしていたんだから(同上)」
 
冠葉は、何者かになりたかったわけだ。そして、オレと陽毬は新しい世界に一緒に行くんだ!(23話、冠葉)箱の中から抜け出して、っていうカッコつきでね。
すると、どうやら同様に何者かになりたい男とコミットするのは当然のように考えられます。眞悧は<箱を壊す>力を与え、冠葉は実行する。
ところが、眞悧もとい「企鵝の会」は幻のものなんですよ。眞悧は幽霊だし、両親はもう死んでる。真砂子はこのことにずっと気づいていた。この記事の冒頭で挙げたセリフが物語ってる。何も分からなかった自分を以前冠葉は助けてくれた。でも今や冠葉は「お父様のように組織に使い捨てられ」つつあり、所詮<何者にもなれない>。そして、世界も運命も魔法で変えることなんてできない!(23話、真砂子)って本人に訴えかけてる。
でも悲しいことに、結果的には真砂子は冠葉・眞悧の作戦に加担してしまう。それは、正義よりも実際の冠葉の命の方が大切だからやむを得ないし、<命をかけて守りたい、愛してる>っていう方を選んだわけですね。だから、「ごめんなさいマリオさん、あなたを守れなかった」のです。
 
しかし、最終回に入って、冠葉に対して陽毬は「一緒に帰ろう」って言います。冠葉は、選ばれし者としての力をまだ陽毬に与えていない(過去に昌馬にリンゴをあげた実績もあって)からだめだ!ってなる。
けど、この時は実は陽毬や昌馬が冠葉に何かをあげる番だったんですよ。陽毬はガラスの破片に傷つきながら冠葉の元へ向かう。粉々になって透明な世界の中で、特別な冠葉だけをまっすぐに見てる。子どもブロイラーでお馴染になった図ですね。自分がもらう番だと気付いたとき、力を持っていない(何者にもなれない)冠葉が露呈して、同時に<箱を壊す>力を拒否する方にシフトした。
これを受容したということは、リンゴ(=宇宙そのもの)によって、箱を壊す以外の方法で<隣の人と繋がれる>可能性を受容したということです(cf.過去に冠葉が昌馬にリンゴをあげた)。文字通りリンゴはこの世界とあっちの世界をつなぐものとなっています。
 
このあたりを理解するカギは、1話で二人の子供が意味深にしゃべってたことです。こういったことに気づけたので、運命の乗り換え後冠葉は同じことを言います(24話)。
リンゴは宇宙そのものなんだよ。手のひらに乗る宇宙。この世界とあっちの世界をつなぐものだよ。
―あっちの世界?
カンパネルらや他の乗客が向かってる世界だよ
―それとリンゴに何の関係があるんだ?
つまり、リンゴは愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ。
―でも、死んだら全部おしまいじゃん。
おしまいじゃないよ!むしろそこから始まるって賢治は言いたいんだ。・・・
 
でも、自分に力がないということは陽毬は助からないということになります。ただ、ピングドラムの受け渡しはできるので、何も持たない<自分の命に変え>れば陽毬は助かる。この条件があって、偶然この場面で冠葉は<愛による死を自ら選択する>ことになる。冠葉は<何者にもなれない>ので子どもブロイラーのように粉々にされ、透明になっていきます。この場面で箱に入った人間を粉々にする機械のカットも出てきます。
そして、<ごほうび>として<苹果>が呪文を唱え、<この世界とあっちの世界をつな>ぎ(運命の乗り換え)、<むしろそこから始まる>のです。ペンギンも箱の中に入っていって、子どもブロイラーと同じベルトコンベアーに乗って落ちる覚悟をします(運命が乗り換わって逆向きに動きだしますが)。
 
このとき、ごほうびとして運命の乗り換えが起こったのは誰なのでしょう?
冠葉を守った真砂子
冠ちゃんを命に代えてでも止めようとした陽毬
陽毬ちゃんの運命を変えて罰を受けようとした苹果
陽毬にピングドラムを渡した冠葉
そして、苹果ちゃんの罰を請け負った昌馬
 
苹果の罰を昌馬が負ったのは、上述したように昌馬は罰せられるべきだと自ら運命を受け入れたから。この時駅名の標識は「命⇔蠍の炎」と書かれています。
銀河鉄道の夜』を参照すると、蠍は、今まで散々毒針で殺しておいて(罪深い自分)イタチに追いかけられた時になぜ素直に食べられなかったのだろう?そうすればイタチはその分生きながらえたろうに・・・という話ですから、この場面では昌馬が運命を悟って自ら苹果に食べられる、という図式が成り立つでしょうね。昌馬はこのとき苹果に<愛してる>っていいますよね。
 
この思いやりの連鎖の結果として、今回は陽毬と苹果は生き残って、冠葉と昌馬は死ぬ(?)ことになったわけだけど、「リンゴは宇宙そのものだよ・・・」というセリフを喋る冠葉と昌馬はどこかおそらくカンパネルラや桃果のいる世界に向かって進んでいきます「これからどこに行こうか」って。
 
 
最後に、ここまで追ってくると、<愛による死を自ら選択する>ことだけが唯一だとなりそうだけど、そうじゃない人もいる。多蕗とゆりたちだ。それでもいいわけだ。
 
多蕗「君と僕はあらかじめ失われた子どもだった。でも世界中のほとんどの子供たちは僕らと一緒だよ。だからたった一度でもいい、誰かの愛してるって言葉が必要だった
ゆり「たとえ運命が全てを奪ったとしても、愛された子供はきっと幸せになれる。私たちはそれをするために世界に残されたのね
多蕗「愛してる
ゆり「愛してるわ」(22話、24話)
 
彼らは運命の乗り換えを行っていない。なぜなら、死を選択したわけじゃないから。それでもいいわけだ。あらかじめ失われた子供たちは愛してるって言葉の後に救われて、そうして皆が<そうするために>この世界に残されたんだから。