夜のみだらな鳥(ホセ・ドノソ著 集英社 1984)

ただ、物語の肝心かなめの点だけは変らない。つまり、父親の幅広なポンチョが戸口をふさいで、身分の高い登場人物である娘を隠し、作男たちの注意と報復を老婆のほうへそらすべく物語の中心から遠ざけているということである。<中略>ひとりの人間としての心理もこれといった特徴も欠いたその召使が、主家の娘に代わって物語の中心人物となり、人間には禁じられた力と接触を持つという恐ろしい罪の償いを、一身に背負っているのだ。(第2章p33)
※絶版書
 
※以下の内容には『夜のみだらな鳥』のネタばれが含まれます※
この物語とは、情報社会の現代人たる私としては、かなり長期間付き合ってきたことになりました。長く付き合わざるを得ない作品は往々にして、その物語と付き合っている時間よりも、ひとりひとりの登場人物たちと向き合い彼らの生涯を共有する時間の方が圧倒的に長くなることが多いです。基本的にそれがひとりであることはあまり無くて、時には5人とか、本当に多くの人と向き合わなくてはいけない。この話も複数人の登場人物の人生がひとつテキスト上で交錯し、チリの土壌や生活を耕している。でもそろそろこの本と一対一で向き合うのも終わりにしようと思って、一応総括的なことを書きます。
絶版本で長いから手に取りにくいでしょうが、それ以上に価値のある本だと思うので、皆さんも図書館なんかで手にとってみてはいかがでしょう?なんなら、全30章分の要約的なものを作ったので、一声かけてもらえれば提供しますんで、どうぞコメントとかツイッターとかで声をかけてください。
 
ひとことでこの話を示すと、圧倒的な血筋、権力、美貌を備えたヘロニモは、しかし生活上の問題とともに失墜し、名家アスコイティアが没落する物語、としときましょう。物語の語り手はヘロニモの元秘書であるウンベルトがほとんどなので、ウンベルトの物語と言いたいところだけど、一貫性が高いのは、ウンベルトや登場人物たちが穴があくほど注目してきたヘロニモなので。
 
ここからの進め方として、ヘロニモ付近の話、ウンベルトと修道院の話に分けたうえで、場面は大きくヘロニモ、修道院、ボーイのいるリンコナーダに分けて考えると分かりやすいでしょう。
<ヘロニモのパート>
大枠は上の青字で書いたとおりです。ヘロニモは地方のあらゆる権力を持っていて最強なんだけど、生活は思い通りにいかない家族のことでぼろぼろになってしまう。一つは妻であるイネスで、もう一つはやっと生まれた一人子のボーイ。
イネスも貴族上がりなんだけど、結構リベラルで頑固なもんで、畏れ多い権力者たるヘロニモは頭を抱えると。イネスは乳母のペータという年寄りをかなり信用しているけど、本書では(ウンベルトが?)、年寄り=貧しい、年寄り=魔女というような価値観にとても強く傾倒していて、遂にはイネスも乳母たちと見分けがつかなくなり、魔女になっている。
ペータ・ポンセのような老婆たちには、時間を重ね合わせたり混乱させたりする力がそなわっている。彼女たちは時間を掛けたり割ったりする。あらゆる出来事はその皺だらけの手の上で、華やかなプリズムに当たったように屈折し、拡散する。(13章p180)
ここでイネスとペータについて物語は重要な示唆をし続けることになります。本書の大きな幹の一つに、アスコイティア家とその勢力範囲に伝わる伝説があって、この伝説は、地主(もちろんアスコイティア家のことでしょう)の娘と魔女である乳母が夜な夜な濃密な会話をして娘が<たぶらかされそう>になったところを兄たちや父が助け、魔女を追放するという話で、これがイネスとペータに大きく重なってくるわけです。ちなみに冒頭で引用した文は父親が乳母と娘の部屋に踏み込んでいったシーンで、もはや娘も人ではないのではないか、という示唆が与えられています。実際に、この娘もイネスという名前ですが、乳母の一幕の後は修道院に閉じ込められ、多くの伝説を残した伝説のイネスとして崇められていきます。ですが、魔女であればこそ、大司教は、イネスの遺体が納められた柩を先祖代々の墓所で見ることができなかったのだ(21章p289)とはウンベルトの言葉。
伝説では2つに分かれたこの物語ですが、ヘロニモ―イネス間では大きなひずみとしてぬぐい切れなかった感がありますね。例えば、イネスはついに絶頂に達して叫び声をあげた…あれは快楽の叫びというだけではなかった。恐怖の叫びでもあった。…目を開いたとき、黄色い牝犬の姿が映ったからだった。(12章p156)
黄色い犬とはこの物語の中で繰り返し描かれる、伝説のイネスを導く魔女の姿です。まるでイネスはヘロニモではなくてペータを見ているみたいに。さらにヘロニモの示唆は十分ではなく、イネスの伝説が負の側面を負っていることを理解しないまま、イネスは伝説のイネスになるため、さびれた修道院で清貧に過ごすことに決めてしまい、<老婆>になっていく。昔の約束は、しかし、ふたりは異なるふたつの肉体であることをやめて、一体となることだった(25章p351)とあるように、伝説とは違ってイネスとペータは一つの老婆になる。(でも凄いのはこのあとイネスはちゃんと伝説のイネスになるところかな。奇跡で身ごもる衝撃がすごい(p378))
 
さて、もうひとつのヘロニモの悩みは、ボーイだった。やっと後継ぎが出来たと思ったけど、ボーイは体が不自由だったので、権力で威圧して家のためにバリバリ働かせようという思惑が難しいと思ったのでしょう。ここでヘロニモはすごいこと思いついて、障がいを持ったボーイのまわり全員が障がい者だったら自分を障がい者だと思わないよね!健常者を障がい者だと思うよね!という発想。そしてとんでもない金持ちなんで、これを実行しちゃうという。リンコナーダという屋敷を封鎖して、その中に住人として障がい者を雇い続けると。この時にヘロニモが提案したイデオロギーは、障がい者は健常者のような一義的な価値観や美的感覚に収まらない感覚を持っている、というもの。
しかし、もちろんこの計画はすでにはじまった頃からぼろぼろに崩れてしまうし、ボーイが青年の時にやっと訪れたヘロニモは、健常である自分を卑しく思い、死んでしまう。
私だけだけがこの格好で、彼らは、連中はちがう。池の水が、きっと、この顔を変える手助けをしてくれるにちがいない。水に浮いている私の仮面。…恐ろしい仮面を引き剝すために腕を伸ばす……(28章p416)
 
<ウンベルトのパート>
召使であるウンベルトと主人のヘロニモは絶望的に違う世界に住んでいるけど、2つだけ同じ思いを持っている。そのうちの1つ目は、ヘロニモが死んだのと同じこと。ウンベルトはリンコナーダで健常であることを考えて、秘書としての力を完全になくしてしまう。池の水面に映った己の姿を眺めた。たしかに醜くて、卑しい(15章p202)のである。リンコナーダについてのトラウマは、ヘロニモはボーイに対するものだけど、ウンベルトのものはどうやら同僚であるエンペラトリスやアスーラ博士に向かっていく。こうして彼の新しい<ムディート>としての生が始まることになるわけだけど。
確かに最後の一歩、ヘロニモの後を押したのはリンコナーダでの一件だとしても、それまでの生活でも精神的に切迫していただろうということが分かるのがウンベルトともう一つの共通理解であって、これが主従関係を規定するもの、主従関係は見方によっていつでも逆転するのだという考えでしょう。この考え方も一つ大きな概念として印象に残ったと思うんです。
これについてまずはヘロニモの言
ここでこうして、おれたちの仕合せを見せつけられているが、お前たちは所詮、飢えた目でしかない。いやいや、証人であるお前たちこそ主人なのだ。ふたりの快楽の能力をその前で証明しろという要求にこの場でしたがわなければ、お前たちはさっさと消えてしまうだろう(12章p154)
対して召使たちがごみを集め貯め込むのを評したウンベルトの言
闇のなかのかのじょたちはそうした不潔な汚れもので、それらを奪い取った主人たちだけではなく世間全体の、いわばネガを再現して楽しんでいるのだと(4章p51)
 
さて、物語の主な語り手たる者はウンベルトだけど、外的実体はその形を大きく変えていく。時系列順に言えば、幼少期ウンベルト→ヘロニモの秘書であるウンベルト→修道院の<ムディート>→イリスの子として生まれたボーイ、ということになるかな。
貴族階級への強い憧れをもつウンベルトは上述のように潰れ、ムディートとなる。
 
ムディートは修道院の下人で、老婆たちにまぎれて暮らしている。ムディートはいつからか老婆の一種になってしまった。もちろん、ペータやアスーラ博士から逃れよう(という強迫観念)として半ば自発的にまぎれてるんだけど、半分は圧倒的な老婆力みたいなものに飲み込まれていくと見える。
俺はすでに存在しないのだ。おれには声も性器もない。おれは七番目の老婆なのだ。おれはとっくの昔に知性など捨ててしまった(8章p103)
この話は結構この老婆力が優勢で、貴族力と拮抗している。ウンベルトも典型的な貴族志向の人間だったのに、その人生いつの間にか老婆になっている。他にも金持ちであることをやめたいと思ってる人がごまんと出てくる。もう引退したいラケル夫人や清貧にいそしむイネス、老婆をやめたくないブリヒダ、ついに最後にはシスター・ベニータまで老婆になっていく。でもこの中でラケル夫人は唯一老婆にならない、なんでだ。
 
一つの要因はきっとこれだろう。
さっき老婆力ということを言ったけど、何というか老婆が繁殖する場所がなければこんなにやすやすと取り込まれてしまわないと思うんです。だから、ポイントは閉鎖的な環境なのかなと。本書では、神経質なまでに壁をふさいで外界からの(悪)影響を絶つという考え方が随所に見られて、その実体としてのリンコナーダや修道院であり、インブンチェが出てくる。
修道院に住む老婆たちは、
全ての光を奪ってしまうものの訪れを待ちつづける。不意に襲う暗黒のなかでは、悲鳴をあげることもままならない。暗がりだと助けを求める声さえ、ちょっとやそっとでは見つからないからだ(1章p19)
いや、ムディートが神経質に自らふさいでるわけだけど。だだっ広く閑散として、丁寧に外界と遮断された空間ではこんなことがあってもおかしくない。
リンコナーダも要は健常者を外界から決して入れない要塞として内部秩序を守っていて、修道院とパラレルに話が進んでいくから、すごく両者が重なり合って繰り返しくりかえし刷り込まれていくような感覚。
 
インブンチェというのはこの地域の怪物で、赤ん坊の穴という穴を縫いふさがれると出来るらしい。ひゃー恐ろしい、そりゃ怪物にもなるわ。
お行儀よくしないとインブンチェにしちゃうよ、とインディオの血がなかばまじった祖母が、当時まだ恐がりや女の子だったブリヒダを嚇かしたことがあった。古い時代のよその土地で育った、もともと彼女は田舎者である。インブンチェになってみたい、あるいは他人をインブンチェにしてみたいという誘惑は、そこから生れて意識の底に潜んでいた(4章p50)
こういったある種の神話的要素と、全てをふさぐという閉鎖性がこの物語を大きく一つにまとめ上げているみたいな感じ。例えば、インブンチェを作り上げようとする老婆たちの心境といえばこんなもん
あの子に言葉ひとつ教えちゃいけないのよ。それどころか、知っている言葉を、忘れさせなきゃいけないのよ。ひとつでも、ふたつでも喋ったら、それが始まりで、わたしたちには分からない悪いことを、どんどん喋るようになるかもしれないんだから(29章p425)
ここに書かれた<あの子>というのは実は語り手のムディートの生まれ変わり(?)で、ある日イリスの子として生まれた。インブンチェの作り手たる老婆の心持ちのなかに外界への不安のような動機がある一方で、インブンチェ自身はというと、語り手の独白ではこんなかんじ
すれてヒリヒリする痛み、けばによる息苦しさ、締めつけられる圧迫感。これがおれの唯一の存在の形式なのだ<中略>おれには過去の記憶がなく、未来についてはなんの見通しもない。すべてを忘れ、すべてに忘れられて、忘却という、この至福の静寂のなかに安息している(30章p443)
ふさぐ不安とふさがれる安心が、ある程度の妥協の結果成り立っている様子。
 
この閉鎖性の潔癖さがどうこうというだけの話ではなくて、例えばヘロニモだって何も死ぬこたぁねえよと思うけれど、思いつめた人が外界からガチガチに閉鎖した空間に投げ出されてしまっては、内部からの非難の目というか、迫ってくるものがあるんだろう。ユビキタス社会になりつつある私の生活からすると、こういう土地だとか土くれで出来た壁だとかそういったものに分節される感覚ってそろそろなくしちゃうんじゃないかと思ったりするもんです。