すべての愛がゆるされる島(杉井光著 メディアワークス文庫 2009)

「古ぼけた本にいくら禁止事項が書いてあっても、それだけでは戒律になり得ないということです。犯せば罰せられる。犯せば周囲からにらまれる。守れば祝福される。守れば永遠の命が与えられる。神の名において強迫し、快不快の物差しを造りかえること。幸せを再定義すること。それが信仰です」(第12章 p129)

※以下の内容には『すべての愛がゆるされる島』のネタばれが含まれます※
やたらメディアワークス文庫の書評が多くなるかもしれないけれど、それはメディアワークス文庫が創刊した時に全てのタイトルを無条件に買ってきて、今になってそれを読んでいるからである。
なんでそんな事をしたかと言うと、私自身電撃文庫に非常にお世話になってきたという自覚があったから。
私が本を読むようになった一つの大きな要因を電撃文庫が作ってくれたように感じているから。
で、数あるラノベのレーベルでもなぜ電撃文庫かという理由の一つが、この、杉井光さんです。『火目の巫女』を読んだときは何かこう、新しいタイプの小説だという感覚があって、そこが楽しかった(とはいっても中学生だった私が小説の懐の広さを感じるのはまた後の話なんだけど...)。
電撃大賞受賞後も安定した文章力があって、安心して人に勧めていますね。
話をまとめると、
強く、固執しがちな偏愛をかかえてきた家系に、終止符を打ちに旅に出た女の子の話
この話は面白く読めたけれど、ひとつ文句がありまして。それは、
ちょっとギミックにすぎないか?  という。
スリードがあるせいで、本を読み終えた私は、いの一番に<咲希>と<スポーツバッグ>という言葉を追いかけてしまった。いや、確かに上手いんだけどね、村上春樹なんかが使うパラレルワールド形式が効果的に結びつくあたりなんか、時間の流れてない場所の感覚を上手く表していて。それはもうほとんど快感のレベルで。
ただ、こういったゲーム性を私は求めていない(そしてそれがミステリーを読まない第一の理由なのだが)ので。読後すぐは、とても大事な時間です。
このギミックさえなければ、自分の中でもう少し、別のことを考えるのにエネルギーを使えたかもしれない。もしかしたら杉井さんは、<愛>という普遍的なテーマを、陳腐であるとか、大義すぎるとか感じていたので、ギミックとの合わせ技にしたのかもしれないけど、私自身にとっては不必要なものであったということです。
最近あまりラノベを読まない理由も、もしかしたらこの合わせ技が関係あるかもな〜
悔しいから言っとくけど、「咲希!」と呼ぶ声がして、・・・声の主を捜した。中学生くらいの小さな女の子がわたしの目の前を走り過ぎ、(第三章 p26)
と、<咲希>に喋らせるのは卑怯だと思いませんか、杉井さん?
ギミックの関係で仕方なく、かもしれないがそれならそれでこちらはテクスト論に固執しようと思いまして、ひとつ思ったのは
直樹が相当人が変わったように思う。濃厚な(?)愛に辛酸をなめさせられた者のなれの果てが描き出されているのかな。そんな大学生の直樹のセリフ
「奪った、なんて」・・・そういうふうにしか人と関われないかわいそうな女たちと、遠く海を隔てたどこかの島に取り残されながらもその女たちの真ん中に囚われた父を、僕は心底哀れに思った。でも、僕だってそいつらの間のねとねとした暗闇からにじみ出てきたひとしずくなのだ。(第四章 p42)