ラス・マンチャス通信(平山瑞穂著 角川文庫 2008)

由紀子は答えた。ほかにもたくさん、このことを知っている人が町にいると思うわ。みんなわざわざ口にしないだけ。わざわざ口に出さなければ、ないものと見なすことが出来るもの。本当はそうじゃないかもしれないっていう可能性が残るわ。(第三章 次の奴が棲む町 p167)

ラス・マンチャス通信 (角川文庫)

ラス・マンチャス通信 (角川文庫)

※以下の内容には『ラス・マンチャス通信』のネタばれが含まれます※
<いま>の状況を見て見ぬふりをしたり、あきらめたり、普遍的な事実であるように視野を狭めたりすることは、私たちの生活の中で欠かせない能力・現象でしょう。
それもこれも、現状を組みかえることに過剰な、面倒くささの化け物みたいな生物を脳みそに飼いならしていることと関係があるように思うけれど、ラス・マンチャスの家族たる<僕>も、陸魚と同様に幼いころからこの生物に慣れ親しんできたのだ。ま、いわゆる日本人的特徴ってやつでしょうかね。合わない友達との微妙な関係を是正しようとしない(出来ない、ではないかな)とか、そういう。
ガラパゴス化が進むこの地域ではヒト科の生物学的な分類からはずれてメンドクサガリヒト科とかになる日が来るかもしれない。
この話、大枠には不幸を背負った僕が、煉獄から抜け出そうとする話、もしくは運命、かな。
そもそも、物語を通じて、どうも根なし草のような薄い、倦怠感を伴った雰囲気で進展していくのには、<僕>が上記のような人だからという理由の他に、帰りたい帰りたいと言いながらどこに帰ればいいのかの めど が全く立っていないことではないか。
最後には、帰りたいところは物理的に示すことはできず、抽象的にanywhere but here(ロバート・A・ハインラインを思い出してしまって・・・) と、取りあえず仮想地域を設けることでお茶を濁している。
スリードなのか、第五章冒頭(p239〜)では小嶋さんの山荘が終点になりそうに見えているけれど。
ちなみに、イナガワの箕浦さんは、俺がこの町を出て行ったら、この町がもとのままの形ではなくなってしまうような気がした(第三章 p146)と言っていて、山荘にいる<僕>の状況と似ているが
ここで<僕>が憧れた定住それ自体が幸せそのものではなかったということを示している。
もっとも『望ましい終着点ではない』『なんらかの意味で「終わっている」状態』と、始めから幸せとは無縁の感想を山荘に抱いているから、本人はそんなこと、とっくに分かっていたんだろう。
ところで、今後<僕>が、何らかの形で両親と接触できるかもしれないけれど、その時には両親は<僕>に殺されるんじゃなかろうか。よく考えたら、<僕>は兄弟を全員殺しているわけだから。まあ、小嶋さんとは<父>なんじゃないかという考え方も出来るけれどやめておきます。