スター・レッド(萩尾望都著 小学館文庫 1995)

「・・・わたしのせいで・・・」
「おまえのせいでわたしは決心し わたしのせいでおまえは逃げる おまえのせいで一族はみだれ 一族のせいでおまえは追われる それぞれの運命は時間の上に八面のなわを張っている バランスよく」(p191)

スター・レッド (小学館文庫)

スター・レッド (小学館文庫)

※以下の内容には『スター・レッド』のネタばれが含まれます※
年末辺りからなんだかんだと忙しく、もうとっくに読み終えてたのにレビュー出来ずにいたけれど、これは本当に素晴らしい本に出会ったと思う。この幸福感がやめられなくて本を読むのをやめられないのではないかと考えてしまう。こういった幸福感は自分の好みの方向性を囲ってくれる。はてはアイデンティティの形成・認識に繋がってくる。少なくとも私自身にとって読書とアイデンティティはそう縁遠いことがらではない。
さて、本書の主人公で火星人ペンタ(第5世代)の貴重な生き残りであるセイにとってのアイデンティティは長いこと行ったことのない母なる星、火星である。
話の内容は、セイが火星にたどり着いてから始まる火星の終わり、の歴史 かなあ。
話自体は半ば叙事譚の趣きを呈していて、非常に強い力を持つセイやエルグはまるで神のようだが、一方で宇宙規模の歴史の変動の中で、抗いきれない運命に立ちつくされて翻弄するもやはりこの能力を持つ者たちである。
本書のSF像で面白いところは、円熟した社会の中では論理偏重主義社会になってゆくだけではなく、身体性に関して排斥主義・超平等主義に収れんしていくような社会が垣間見えるところである。だってエスパーが超能力を封じられるわけです。異能力は脅威であってフェアではないわけ。たしかに暴力をなくそうとか考えた時にエスパーの封印は理にかなっていると思ったけれど、その考え方は新しいと思った。一応ゼスヌセル系の人間の言では、肉体を持つ者が超精神能力を持つことが宇宙の法則に反している、ということだそうだけど。
この示唆を順当に推し進めれば、良くも悪くも、完全平和な社会というのはフーコー型の管理社会を最大限緩くしたようなものにしかならないということになるでしょう。本書の宇宙も見方によっては巨大なパノプティコンのように見えなくもない。いずれにしても私たちは平和を目指す以上、管理社会の受容か画期的な解決策の提示の義務がある、ということについてはみんな耳タコだ。
ちなみにベープマンも冒頭の方で、人間以外のESPだとか火星人だとかいうわけのわからないものは嫌いだ、と否定しているのだが、この悪人面の男は不思議とゼスヌセル系の人間たちと同じ意見であったというわけだ。余談だけれど、このベープマンが悪役に徹してくれたとすれば、もしかすると火星は破滅せずにすんだかもしれない。なにせこの話の中では悪役が不足しているから(歴史とは往々にしてそういうものだろうけど)。物語の中では常に、倒すべき悪役の見いだせないヒーローはひどく脆弱な生き物でしかないからだ。
閑話休題。予定調和と運命のはなしはこの辺にしておいて、私が最も感動した場面について言及しておきたい。
それは、精神共同体アミに迷いこんだセイとヨダカがヨダカの体に戻るために合一?したところである。一つの体に戻るためにヨダカが女になって子どもを生むという発想がまさに秀逸だし、なによりアミの世界という形而上的・抽象的な世界から上記のような極めて観念的な事象まで、とても詩的に美しく描かれている。マンガにはこんなことが出来たのかと深い衝撃を受けた場面である。こういった繊細な描写とそれを感受する感覚との交わりをもっと大事にしていきたいと思わされる。