黒い時計の旅(スティーヴ・エリクソン著 福武書店 1990)

二十世紀の外に?と彼女は考え、父親の胸の内を思ってぞっとした。「でも秘密の部屋には何があるの」と彼女はそっと訊ねた。しばらく間をおいてから、父はようやく「良心だ」と答えた。 <中略> 優しい眼差しで、彼女は父親の狂気を見つめた。この人は二十年間、これが二十世紀の見取図だと信じてきたのだ。どこかにその良心の隠し部屋があるはずの、二十世紀の見取図だと。(92章 p178)

黒い時計の旅 (白水uブックス)

黒い時計の旅 (白水uブックス)

(私が読んだのがuブックス版ではないので、引用ページ数は参考にならないでしょうけど、一応記載します…)
 
※以下の内容には『黒い時計の旅』のネタばれが含まれます※

この作品の特筆すべき素晴らしさは、何と言ってもヴィジュアル的な美しさにあるように思えます。死人が出ると死体を木にぶら下げるチャイナタウンでは、製氷機が年中音を出し続けている。なぜヴィジュアルが美しく機能しているのか?
おそらくそれは、本書が因果律での結び付けから解き放たれて、でもモンタージュに支えられているからではないか。そこには、1つ1つの作者のドグマが埋め込まれているからではないか。そう思えてならないのです。

「あたしが踊るたびに、いま誰かが死んでいる、とあなたは思ってた。でも全然そうじゃなかったかもしれないのよ。<中略>あたしが踊るのをあなたが見るたびに誰かが死んでいたのかもしれないのよ」(102章p214)

これは統計学上で気を付けるべき誤謬として良く知られているけれども、物語はこの誤謬と相補関係にある。だからスティーエリクソンは違う方法で本懐を積み重ねていった。
紙が破れそうだと思った時、セロテープを貼るでしょう。傷より少し大きめのセロテープ。そして時が経ち、古びたセロテープの上からさらにセロテープを重ねる。それはもとのセロテープからはみ出した形で重ねられるのです。こういった感じで堆積した厚みで覗く虫めがねのようなものとしてのモンタージュ
 
この辺で一度本書の流れをまとめておくと、大きくみて三つの区切りとして捉えられるでしょう。
1.チャイナタウンと本土の境界を生きるマーク
2. バニング・ジェーンライトの半生
3. デーニアの半生
 
一言でお話を表すとすると、こんな感じ。
Zのための物語を起こしたジェーンライトが、Zへの恨みを具現化するためにデーニアを懐妊させマークが生まれる話。 
各人の詳細は以下の通り。
 
【ジェーンライト】
養子として不遇な生活をした後、ひょんな義理兄弟のいたずらから実の母親がインディアンであることを知る。家を燃やし、恐慌時代のニューヨークを裏ルートで登り詰め、顧客のついた作家となる。親殺しの指名手配でウィーンに亡命し、結婚子どもをつくる。顧客Zを取り巻く環境のせいで妻子を失う。
時が経ち、イタリアでの幽閉生活でZの存在に気づく。漁師のジョルジョの助けでZと亡命を果たす。遂にニューヨークに至り、デーニアの父親の青写真を手にする。ニューヨーク時代の事務所でヒントを得てダウンホール島に至る。
 
【デーニア】
ロシアから亡命した父親とスーダンのプヌドゥールクレーターに住む。銀の短い毛の牛が現れ、母弟を無くし、ウィーンに住む(ダンススクールでホアキンと出会う)。父親がスパイのライメスに殺され、自らもライメスを殺める。戦争が終わり、ホアキンに招かれロンドンのバレエ団に移り、ニューヨーク遠征をする。ホアキンとポールが死んだことをきっかけにしてダウンホール島に移る。探偵のブレーンがデーニアに会いに来るが、ジーノに殺される。ダウンホール島で懐妊する。
 
【マーク】
子どもを産むような年ではないデーニアから生まれた。ジェーンライトの死体を部屋で見て、ダウンホール島を出ることを決意する。島を離れられず、ジーノの舟で生活を続けるが、壮年期のある日、青いドレスのカーラと接触し、デーニアに会いに行く運命となる。また、デーニアの死後にはカーラの後を追い、島を遂に永久に離れることとなる。カーラの死後、北極圏を抜け20世紀の初めに到達し、死を迎える。
 
張りつめた糸が一気に一つの死に向かって動き出すシーンは、どれも凄まじく統制されたエネルギーを感じて、本書の良さの一つなんだけれど、良い作品には良くあることだけど、捉える命題の多さが枚挙にいとまがないので、いくつかを抜き出して考えられればなぁ、と思います。
 
まず、1つの重要な気付きがあります。それは、デーニアは様々な中間媒介者でありながらにして、全ての因果律から隔たれた、部外者であるというところ。彼女が生死にかかわる時、それは彼女の知らない所で進められるものであったと言えます。デーニアは自分の子どもが何故自分の体から生まれてきたのか、ついぞ知らずに終わったとも解釈できるのです。
彼女のとって、彼はいわば理論上の子どもという感があった。自分の想像力が生んだ途方もない虚構を見守るかのように、彼女は子供を観察し、吟味した。(2章p006)
皆が当てつけのようにデーニアを利用するが、間接的な交わりによってデーニアの意志が曲げられるということもない。デーニアは幸福な人生を送ったわけではなかったけど、結果的に誰かに人生を踏み倒されたわけではなかったように見える。これは見かけ上の事なのかもしれないし、実際にはかなり際どい部分もあるが、その意味では彼女は普通の20世紀の亡命者だったと言えるかもしれない。
一つだけ、彼女がライメスを撃ち殺したとき、何を思っただろう、と考える。土壇場で銃の引き金を引く度胸のある人間は、運命への使命感を背負うことが出来る人であっただろう。そこに幼少期のライメスとの思い出がオーバーラップするとすれば、それはデーニアの記憶とは関係のない、潔白な第三者のパズルゲームにすぎないんじゃないかな。
 
デーニアは親の仇をその場で晴らすことが出来た。その場に立ち会う事が出来たからであるし、全世界の人類の中で、親を殺した人間はライメスただ一人だったからであった。母弟への弔いはあくまで形式的な物に過ぎなかったはずだと思います。
ところが、ジェーンライトはそうはいかなかった。妻と子どもを殺したのは、人ではなく構造だったからなのだった。
もう生きるために書く必要はなくなったが、今度は復讐のために物語を書くことにしたのであった。すなわち、ジェーンライトはZにとっての神になることにしたのであった。
ところが、ジェーンライトは図らずも、Zを支配する、という領域を越してしまったのだった。実際にデーニアが懐妊したのであった。
結局のところ、たったひとつのちっぽけな命を仕返しとして絞殺することができるにすぎないのだ。それではとても復讐には足りない。<中略>おのれの悪を忘れてしまった男を殺して、それが何の復讐になるだろう?(112章p226)
最終的に、これを敷衍すれば、やはり何のかんのと言ったところでデーニアの子どもを殺すことは出来ない道理であった。これは、彼が神に一歩近い立場で強いられた分別でもあったと思う。
 
一方密度の高い感情が詰め込まれた胎盤で育ち生まれたマークはこう思うわけである。
だが、あの初めての瞬間、霧が四方から追って水と蒸気以外には世界に何ひとつなくなったあの瞬間、新しい船長は老人のことをまだ忘れてはいなかった。一人取り残された彼は、僕は宇宙のどこにいるんだ?とみずからに問う。だがそれはいままでいつでも問いえた問いだ。生まれてずっと、彼はチャイナタウンという名の、水上に漂う船の上にいたのだから。(10章p014)

全ての人と同じように、彼が何者であったかは分からないのである。分かっていることは、彼はジェーンライトの人生の後で、20世紀をさかのぼり、百の幽霊たちの記憶がふわふわと漂うように空へ上がってゆき、ついには空しく破裂(164章p281)したのであった。
しかし、これはダウンホール島で洪水が起きた時に地表から流れ出たたくさんの死体たちと同じで、それをマーク少年は見届けているところは興味深いところなのだった。
 
また、マークを結果的に牽引した青いドレスの少女カーラは何であっただろう。これがまた分からないのである。カーラはダウンホール島には「埋めるために来た」のだけど、何だろう。
ジェーンライトはとっくの昔にデーニアが埋めてしまったし、デーニアを埋めたのもマークだった。もちろん、カーラがきっかけを与えたのではあるけど。
とすると、やはり二つの20世紀の溝を、と考えるのが妥当だろうか。
だとすれば皆が成り行きで関わっていった20世紀に対して、カーラは唯一的を見据えた上で行動した主体だと言えるだろう。ところが、マークだけではなくテキストにおいてもカーラを見つけることは難しい。何かを埋めた彼女自身は、展望台のもと、意図的に埋められなかったということが分かるばかりである。
極まっている場の流れを、先導する一点の特異点は物語の主役になり得ない。それは光のように質量のないただの軌跡である。
 
大局を振り返ってみると、ジェーンライトが20世紀への言われも無い恨みを背負った所からのスタートなのだと改めて感じさせられる。この大男の受けた150km/hのレシーブ。ジェーンライトを責める気になれないのはこういった事情もある。つまり、本書全体が20世紀の鎮魂歌であると同時にジェーンライトの鎮魂歌でもある、とそう思う。
 
青写真の事もかなり気になる。
ロシアから亡命する時に持ちだしたデーニアの父が世界に残していったものである。父だけでなくデーニア自身も見つけられなかった「秘密の部屋」をジェーンライトが見つけたというのは大いなる皮肉である。さらに、Zに与えられたメモとなることはもっと大きな皮肉である。
説明でも墓碑銘でも弁明でもなく、ただの謎を書く。"Aber ici liebte sie.(だが私は彼女を愛していたのだ)―A.H."(151章p268)
良心。
 
ジェーンライトの世界とデーニアの世界が交わったことは、実は少ないのではないか。ジェーンライトとデーニアの交わりはいつでもどこでも、といった感じがあるので混同しそうになってしまうけれども。
デーニアに白いあざが出来た時でさえ、2つの世界は形而上的な交わりしかもっていなかったように思えるのである。ジェーンライトが中年になって、20世紀がピークを越えてからやっと世界が交わったかのようでもあるが、初めの形而下での交わりは、妻子を亡くしたジェーンライトの散歩の先、もはや誰もいないデーニアの住んでいた家だろう。
 
そして意外とその次は青写真の忘れ置かれた部屋かなぁ、と思う。ジェーンライトの作業部屋でありブレーンの事務所部屋。このあたりから、つまりZが死に絶えてからは、急ピッチで二つの世界は距離を縮めていくようだ。
と、いうのはいかにも私たちが望みそうなシナリオであって、もしかすると世界が交わる本当の理由は、誰も見つけられなかった青写真をジェーンライトがたどることが出来たからなのではないか。そう思うのも悪くはないと思うんですよね。
 
だって、多くの人が真に求めているのは、独裁者の死にざまではなく、良心の隠された秘密の部屋のはずですから。

魔術師(ジョン・ファウルズ著 河出書房新社 1972)

私は突然その場で私たちが一つの肉体、一つの人格と化してしまったような感覚に襲われた。その瞬間、アリスンが消えたならば、私は自分の半身を失ったように感じたに相違ない。その頃の私ほど頭脳的かつ自己陶酔的でない人ならば簡単に分かったのだろうが、その死に似た恐ろしい感覚はただの愛であった。私はそれを欲望と取り違えた。そしてすぐ車で家に帰り、アリスンの服を剥ぎとった。(1-4 上巻p29)

 
※以下の内容には『魔術師』のネタばれが含まれます※
 
何よりもまず、本書はドラマチックでストーリーが面白いという点を推したいのです。古書であることを除けば、人におススメしたい種類の本なのでした。
もう一つ素晴らしい点を挙げるなら、それはファウルズの言語センスの高さ。翻訳者の方の力も大きいと思えますが、本を越えて著者が素晴らしいと思えることってやっぱり凄いことですよね。たぶんかなり心の機微みたいなものに敏感なんだと思いますね。本の中でも、私が思ってることを察して、相手が止まれずこう言っちゃった、みたいな応酬があったりして、こうだよなぁ、と思わされるのね。それを可能にする言語センス。
 
で、そんな中で本書はたくさんの普遍的なテーマについて言及していくわけです。自由、戦争、愛。。。ただし印象としてはたたき台に上げてるような感じで、「おれはこう思うけど、君たちどう?」みたいな。
実は魔術師である優秀な板前さんが、マグロやらカンパチやらを俎上に載せて、さあ今日はどういたしましょうかね?というような。じゅるり。
もちろんカリスマぞろいの登場人物の言葉を鵜呑みにしても良し、調理するも良し。
 
こういったことを考えてくると、どうしても本書のコンヒスとファウルズがオーバーラップしてくるようです。コンヒスは「完璧な芝居」をニコラスに提示し続け、常に高次に立って芝居を掌握し続けていくのだから、これはもしやファウルズが読者に呈示するやり方なのかなーと思うんですよね。特にそのサービス精神がね。
興味深いのは、本書は小説であったけど、コンヒスは作中でこう言うわけですね。
「たかだか五つ六つのちっぽけな真理を掴むために、なぜ苦労して作り事の文章を何百頁も読まなきゃならんのです」
「楽しみのためならば?」
「楽しみ!」<中略>「言葉は真理のためにあるのです。事実のために。フィクションのためにではない」(2-15 上巻p94)
まるで自虐的なんですね。本書がドラマチックに読みやすくなってる原因がここにありそう。本書は真理のための作品ではないよ、というパフォーマンスみたいな。
 
ところで、ファウルズの経歴を調べると、ニコラスも彼の投影であることがすぐに分かるんだな。だから、コンヒスもニコラスもどちらも本質的には同一なのだ、と思うんですね。年老いた方と若い方。あるいは、素材になって実働する側と編纂する側。
ここで一つの謎が解けたような気がするんです。というのは、何故ニコラスは最後に「微笑む」ことを覚えはじめ、さらにあんなにウザいと思っていた「芝居」を自らアリスンと催さねばならなかったのか。この点がどうしても気になってたんですよね。それは、物語の中でコンヒスとニコラスが一つに収斂していくからではないのか、という見解になったのです。
 
おそらく本書の最も重要な主張は、自由(エレフセリーア)についての捉え方であり、その実践としての微笑み。ラブストーリーになっていくのは、若く何者でもない人生に絶望した青二才にとって、数少ない扇動されうる自由の実践場だからだと言われているように感じるんですよね。檻のない自由な劇場にどうやったら配役を留め続けるか。
もしも私設動物園を持つ人間がいるとした場合、その人間の関心は動物たちを逃さずにおくことであって、檻の中の動物に一々行動を指示することではあるまい。<中略>彼は自分の仮面劇にハイゼンベルグの原理を応用しているかもしれず、従って劇の大部分は観察者兼観淫者としての彼自身にも、被観察者である私たちにも不確定なのだ (2-49 下巻p42)
 
なぜ自由を中心に据えるかというと、コンヒスが重きを置いていたかどうかではなく、ニコラスという揺るぎない一人称が全編を通してはまり込んでいった視座であったと感じるから。本書全体の話の流れは以下の通り。
ニコラスはアリスンという選択をしないがためにギリシアへ向かい、何についても中途半端なことを憂いて自殺をしようとするけど、それさえ成し遂げられない。折しもブーラニ岬という迷宮に応じてしまいコンヒスの芝居に結局最後まで付き合うことになる。途中コンヒスは配役にアリスンを迎え入れ(パルナッソス山の旅行以降)、死まででっち上げる。最後にニコラスはコンヒスと芝居を認め、アリスンとの再会を果たす。
口が悪いのは勘弁してほしいけど、何度かアリスンとの関係をリトマス紙に、ニコラスの立場をフィードバックしてるような。
 
さて微笑みとは何かというのはコンヒスがトルコの遺跡の石像を見せるシーンで言及されてる。
「この微笑みには何か無慈悲なものがありますね」
「無慈悲?<中略>それは真理のためです。真理とは無慈悲なものですからね。しかし、この真理の本質や意味は決して無慈悲ではない」
<中略>
「ベルゼンを知っていたら、こんなふうに微笑できたでしょうか」
「かれらが死んだからこそ、私たちには自分らがまだ生きていることが分かります。一つの星が爆発し、この世界に似た数千の世界が滅びればこそ、私たちにはこの世界の存在が分ります。それがこの微笑みです。あり得なかったかもしれないものが今あるということ」(2-23 上巻p149)
コンヒス最後のセリフも微笑むことを学びなさい(2-62 下巻p194)だった。微笑むとは、上述したように実践の形なのだと思った。
実践と言うと、本書で一番良かったと思っているのは、コンヒスの感慨深い過去話なんですよ。2度の大戦とノルウェー森の神と会話する男の体験。どれも泥臭く、本物よりも生々しい老人の昔話。この人ボケてるんじゃないかと思いつつ、だとしても全く評価が変わらないような口伝え。この体験を経てコンヒスは微笑むことを学んだんだろうね。というより、泥臭い生の価値を認め、生活の指標をそちらにシフトすればこそ微笑みが必要であったと言うべきか。
 
これって日本で言うところの「諦念」に近いよなー。少し明るめの諦念みたいな。
そこには森羅万象を受け入れる視座が存在しているんじゃないかと。ところが自由というのはある選択、ある真理によって成る、みたいな感じで説得にかかるんだよな。その点少し現代風に脳内アップデートを推し進める必要がありそう。自由の意味が、あまりに達観していて、世の中との共生になじまないのではないか。
リリー・デシータスはこの芝居を「神様遊び」と呼び、さらには自身らが神様ではなく、芝居も遊びではないと言う(3-75 下巻p298)。この魔術的な芝居は十分に生々しく、微笑みにも至ろうが、別の側面から見ると、ますますフリーメーソンの入団儀式めいている。
まあ、これがイギリス貴族的スノビズムかもしれないけど、ちょっと確証がない。少なくとも、主張し、言及することは普遍的に意味のあることでしょうから。
 
例えば戦争が足がかりになった主張。イギリス的視点だから、第一次大戦の言及が興味深い。この辺日本的歴史観では盲点になる部分だし。というか、第二次大戦前に生まれた主人公に対して第一次大戦から出兵していた老人という対比自体がもはや現代では成立しない構図ですよね。
コンヒスが、エレフセリーア(自由)の章の前、二次大戦のエピソードの前置きとして極めて明確に言及するには
戦争とは、もろもろの関係を見ることができないところから生じた精神病です(2-52 下巻p85)
ということらしい。これだけでは、この意見に何とも甲乙つけ難いわけですが、コンヒスの素晴らしさはこれ以降の体験談にあるということです。
具体的には、一次大戦時の体験談が引用に耐えるでしょう。
そこで私は二人の人間に分裂しました――ひたすら見守る人間と、他人に見守られていることを忘れようと努める人間とにね。私たちは殺すことよりも、むしろ殺されることを習いました(2-18 上巻p119)
あるいはこう、
現在の私は分かっています。何らかの目的を達成しつつあるのだ、何らかの計画に奉仕しているのだという私たちの信念、それこそが虚偽なのです。何か偉大な計画が全てを押し進めているのだから、究極的には何もかもめでたしめでたしに終るだろうという信念ですね。現実はそんなものじゃない。計画など、どこにもありません。すべては偶然です。私たちを守るのは私たち自身だけなのです(2-20 上巻p129)
 
全ては偶然だというからには、ニコラスを選民に選んだ理由も偶然だし、芝居のエンディングは完全なる自由であった。ところが最後の最後までニコラスは魔術師とのゲームという体裁からのフィードバックに反応し続けた。エピローグがあったとすれば、おそらくそれが初めての自由というものだろうと思うけど、とりあえずその前まででパッケージされているのだった。
 
いくらニコラスがコンヒスと軸を一にしていくとしても、コンヒスがのたまうアフォリズムをニコラスのものとして考えることは出来ない。だから戦争についての言及、エレフセリーア、「王子と魔術師の寓話」(2-65 下巻p215)ほか、いくら完璧な自信に担保されたセリフであっても、本書を彩る材料であっても、本質にはなり得ないように思える。
冒頭のセリフは、その側面を踏まえて選んだものでもある。この愛についての確信は、まぎれもなくニコラスの体験から現れたものだから。この確信に相当する部分は、王子と魔術師の寓話で言えば、美しいけれども偽物の島を、偽物であるけれども美しい王女たちを、彼は思いだしたのである。(2-65 下巻p216)という一文の行間に含まれたはずのものである。ところが寓話とはその行間を挟む余地を与えてはくれない。それが小説の、神様遊びのパッケージングによる限界なのである。
 
そしてこれは、読者である(不特定多数の)私たちにも投げかけられていること。
 
「登場人物の言葉を鵜呑みにしても良し、調理するも良し」とはそういうつもりのことなのでした。建設的な意見を聞くことから、自分の意見は始まるのだ、とそういう風に思えたし、たぶんコンヒスもそういうつもりなのだと思うのです。

第三の警官(フラン・オブライエン著 筑摩世界文学大系68 1998)

「鉄製自転車を乗り廻すことのに生涯の大半を費やす人々については、原子交換の結果、本来の性格と自転車の性格との混交が認められる。この教区の住民のうち半分人間、半分自転車と目される人々の数を知ったらあんたも仰天するだろう」(6章 p386)

ジョイス2・オブライエン (筑摩世界文学大系)

ジョイス2・オブライエン (筑摩世界文学大系)

 
※以下の内容には『第三の警官』のネタばれが含まれます※
 
テクスト中心で作品を考える(たぶん・・・)記事なので、作品を俯瞰する都合上どうしてもネタばれちゃいますけど、本作は特にその部分が面白いと言う人が多そうなことに配慮して、本編前にこんな前振りを挟んでおります。
未読者向け本作の一言まとめは、上の引用のような、トンデモ不思議理論に身を置いて翻弄される話という感じ。ふー、ネタばれないと何も書けないっす。
ちなみに、「そのこと」について私個人は結構すぐ気付いたので、2013年現在ではもはや「そのこと」に特別頓着しない人も居るだろうとは考えられます。日本の昔話にも似たようなのがありますし・・・おっと!
 
というわけで以下は本当に容赦なくネタばれです
 
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●本作のメタ的構造●
・・・という経緯があったので、個人的にはネタばれるかどうかにはあまり興味がない本作なのです。
ストーリーは、老人殺しをした主人公が黒い箱を求めこの世ならぬ警察を行き来するが、自分が死んでいたと気付き再び警察署に行くことになる話。
ちなみにどの時点で私が、主人公が死んでいると分かったかということですが、具体的には、3章で非常に牧歌的な道をただひたすらに歩いてる主人公の姿が『やし酒のみ』っぽいなぁ、と思った時でしょうかね。『やし酒のみ』でも同じような雰囲気の所があって、どんな文化圏でも死ぬってのはこういうもんかーという。やたら平和な世界を何故か一人で歩いている、というような。あと、本作の主人公は名前を忘れちゃうんですよね。それってやっぱ空蝉じゃないわな。そしてダメ押しに、冒頭のド・セルビィの高説で死が仄めかされてるので。
 
円環機構については、私にとっては子どもの頃からテキストサイトなんかではkanon問題というのが盛んで、「ループもの」というのも、ひとジャンルでしたが、
ここで特別思うのは、このオブライエンにしても、グリムウッド『リプレイ』にしても、何にしても人生が円環するということは言われも無く不気味なものだ、という印象を醸し出しているところ。
というわけで、死後の世界は存外陽気な所だけど円環するのは不気味である、という発想は面白く、何か人間の本質的な部分を突いてるような気がするんですよね。そこには興味があるなぁ。煉獄がつらいってアイデアもこれに近いような。
 
●トンデモ理論の飛び交う世界●
冒頭で引用した人間自転車説みたいなことが平然とまかり通る警官たちもさることながら、トンデモ思想家のド・セルビィもぶっ飛んでる。これがいかにも権威的に膨大な注(たぶん創作)が付いてるのが面白くて。地球がソーセージ型だとか、夜は大気の汚れで起こるとか。でも所々良いこと言うんだよなーこのカリスマ御大。道は風景を規定する、とか。
主人公が傾倒してしまうのも何となく分かる気がする。こんなだから警官に対しても、はじめは警官を騙して黒い箱の在りかを聞き出そうとするだけど、逆にだんだんトンデモ話に感化されていって目覚めていくのが微笑ましい。
 
●警察署とは何か?そしてなぜ「第三」か?●
ここが本作の最大の関心事にして、よく分からない部分。上2つのトピックで十分面白いということで何となくうやむやにしそうになっちゃったよ。でも、主人公の死、ひいてはこの世界での死というものを考える上では警察が重要なのだ。
 
まず、警察署については、死んだメイザース老人が少し言及してくれている。老人は、自分固有の色に沿った衣装を毎年重ねて身につけるものだと言う。その衣装が重ねられて真っ黒になった時人は死ぬらしい。だから、薄い色ほど長生きなんだとか。
いずれにしてもわしは毎年新しい衣裳を一着手に入れた
どこでそれを手に入れたのですか?
警察。外歩きもかなわぬ幼い頃にはわしの家に届けられたが、長ずるに及んでからは警察署まで取りに行くことになった
<中略>
警察当局にはどんな人がいるのですか?
巡査部長ブラックとマクリスキーンという警官、それから三番目にフォックスというのがいるんだが、これは25年前に姿を消して以来消息がない。はじめの二人は署に詰めているが、聞くところによればもう何百年もそこに腰を据えておるそうだ」(2章 p352-353)
 
これを聞いて主人公は何故か、盗もうとしている黒い箱を見つけてもらいに、あろうことか警察に行く事になるわけだけど、何故だ!っていうね。もうロジックじゃなくて強迫的に警察に向かおうとする。
で、ある一つの仮説だけど、もしかしてこれが警察署の役目なのかもしれないとか思う。つまり、老人が言ってる話は、死んだ後の何か、四十九日的なちゃんと死ぬまでの修行みたいなものなのかも。主人公はこのシーンで死んだわけだけど、老人もかなり最近死んだわけで、現実と霊界の間みたいな所で二人は出会ったのでは。
だとすると円環というのは無限ではない。衣裳を手に入れるような作業を一定終わらせると正真正銘死ぬことになる、とかね。主人公は終始黒い箱には固執し続ける。だからほとんど箱に操られるようにして動いてる。だから、この黒い箱に従って何かの通過儀礼をしてるのかもしれないなぁ、と。主人公が生に未練を持つのも、死んだ原因も、この黒い箱に関わってくることなので。
だからこの線で考えられる筋書きはこうだ。2週目のはじめに、主人公はやっと手に入ると思った箱をディヴニィに良いようにされていた(と仮に解釈する)。ここでディヴニィと一緒に警察に出頭することになる。段々と黒い箱が自分にとって何だったのか自問することで、最終的には固執が無くなり黒い箱に追われた地獄のような(著者の言)円環から抜け出せる。・・・まあ抜け出せるというのは希望ですが。
 
これが妥当かは分からないけど、この主人公が黒い箱に固執しているということだけは確かなように思える。だからこそ警察署から現世(?)に帰る時にもどうしても老人の家に長居してしまう。ここでまた第三の警官に半ば黒い箱欲を誘発されてしまう。
さて、ここで何故「第三」の警官なのか?と疑問に思う。これが実はほとんど良く分からない。というのも、彼は最後の老人の家でちょっと出てくるだけだし、そこでのやり取りも話の根幹を担うとはあまり思えない。
 
第一の警官=巡査部長は主人公を言われも無く絞首刑にしようとした。第二の警官マクリスキーンは、実は黒い箱の中身であると後に判明する万能の事物、「オムニアム」の素晴らしい有用性を見せてくれた。では第三の警官フォックスは何か?
フォックスについては、巡査部長でさえ老人に毛が生えたくらいにしか分かっていない。
「・・・彼の姿を見かけることは決してないし、彼のことが話題になっているのを聞いたためしもない。それというのも、仕事熱心な彼はいつでも受け持ちの巡回区域に出向いており・・・」
<中略>
巡査フォックスはある年の6月23日まるまる一時間マクリスキーンと個室に引き籠っていたことがある。その日以来彼は誰とも口をきかなくなってしまって・・・」(6章p380)
彼がしたことといえば、黒い箱=オムニアムを使って二人の巡査を翻弄し、偶然にも主人公が死ぬのを阻止したこと。そして黒い箱を主人公が持つように手配したこと。
マクリスキーンと個室に籠って、というのはたぶんオムニアムの有用性を知ったことなのではないでしょうか。そして今やフォックスは二人の警官が使う不思議な力についてもオムニアムの力で全て操っているように思える。誰もそうとは知らずに。
主人公も結局黒い箱を手に入れることは無かった。
 
ところで、フォックスの顔は老人と同じだったそうな。先の説とは矛盾するけど、もし、始めに老人の幽霊と話していたと思っていた人物がフォックスだったとしたら?すると主人公の行く末を操っていたのは黒い箱というよりフォックスなのではないか?警察署の話を始めたのも老人(=フォックス?)だし、絞首刑を免れたのもフォックスの「偶然」であった。警察署周辺はフォックスの思うまま。
一つ手違いがあったとすれば、主人公が警察署から逃げ出した時、巡査部長の示した原則の一つである可能な限り左折を旨とすべし(4章p370)を破り、右折したこと。そして黒幕フォックスのお目見えと相成ったのである。主人公が死んだと思っていたと言っているフォックスだが、ところが神がかった手腕で素顔も見せず、再度主人公に黒い箱を誘惑することに成功した。
そんな考え方もありかなと思う。
 
 
最後になるが、
どうやら主人公は死んでいるらしい。それは良いとしよう。それでは、もし彼が警察署で絞首刑になったらどうだったのか?これについて考えるのは、本作をとらえる上でとても面白い命題のように思われる。
主人公の心の声ジョーは夢の中で、人間は内部なるボクの種族たちに安んじて全てを託していると言い、更にボクが君のもとを去る時、君は死を迎える(8章p408-409)と言う。
主人公が絞首刑にされる寸前までは、どうやら死んだら凡俗以上の内的特質の真正にして純粋な核心(10章p437)になりたいと思っているみたいだ。
いずれにしても、彼が心酔するド・セルビィが言うには、人間存在は幻影にほかならぬ<中略>死と称される至高の幻影の接近に眩惑され心を煩わすごときは、思慮深き人にそぐわぬ所行である(冒頭引用部)そうだ。
本作の総意として、人間という存在に固執することにはあまり賛成しないらしい。それは、人間はどうせ生きているのか死んでいるのかも分からずに警察署やなんかをさ迷っているし、その世界は第三の警官のような者に干渉されているかもしれない。そうでなくとも気付けば私は半分自転車になっているかもしれない、という不可避の事態に常に直面しているとの警告からではないだろうか。
やし酒飲み (岩波文庫)

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リプレイ (新潮文庫)

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