V.(トマス・ピンチョン著 新潮社 2011)

独りで追っていったワニのことを、プロフェインは振り返ってみた。そいつは、みずから歩をゆるめて追いつかせ、自分から求めるように撃たれていった。なにか取り決めでもあったのか。(中略)プロフェインはワニに死を与える、ワニは彼に職を与える。それでイーヴン、恨みっこなしと。プロフェインにワニは必要だが、ワニはなぜプロフェインが必要だったのか。その原始的な脳の回路に、記憶と理解が生じていたのか。子供のころ自分たちはただの消費財で、財布やハンドバッグになった両親や親戚のおじさん、おばさんたちと一緒に、世界中のデパートで、あらゆるガラクタと一緒に陳列されていたことを憶えていたのか。(中略)望みは、元の自分たちの暮らしにある。それを叶える完璧な形は死ぬことだ。死んで、ネズミ職人の歯によってロココ様式の死骸になることしかない。(6章pp218)

※以下の内容には『V.』のネタばれが含まれます※
 
 
 
前置きが長くなりそうだから結論から言うと、プロフェインにもステンシルにも繋がるパオラを中心にしてこの話をまとめてみることにした。すると、
マルタ生まれのパオラは、アメリカ海軍の夫パピー・ホッドの家を抜け出してヤンデルレン生活が始まるが、ヤンデルレン生活の半面であるマクリンティックの娼婦仕事の中で気付きを得て、プロフェイン、ステンシルと共に母国の父を訪れ、夫と復縁する話
ということになるかのようだ。
 
いや、まてまて、と思われるだろう。
実体としては、
1956年現在アメリカ。ヨーヨー運動をし続ける木偶の坊(でも女の子達にモテモテ)プロフェインと、幻想の過去世界をトリップするステンシルが交差し、マルタへ向かい、またそれぞれの性分通りの生活が始まる話
という方が近そうだと思う。
でも、これでは何だかさっぱり分からないという状態である。読者が勝手に主役だと思っていた人たちが、解決して欲しかったことを解決してくれず、要らないことばかりが進んでいくという印象が拭えないのが本書の特徴のように思える。
 
そもそも、主人公(?)2人を追って最後まで付き合ったとき、どんな感想になるだろう?
彼らがフェードアウトする画面の右下には「to be continued...」と見えてくるのではないかと思う。スターシステムのヒーロー達に問題の解決を促すことはお門違いということなのかもしれない。
と、いうより友だちとバーベキューしてたけど、1ヶ月後友だちの友だちもバーベキューに参加しました、というようなテンションを作り上げる名手の木偶の坊プロフェインと、それにバランスを取る形でシリアス(でサスペンス)な過去の話・歴史の話が挿入されていく温度感でバテてしまいそうになる。
幸か不幸か、全体をまとめる際に必要な主要人物というものはほとんどいないようだ。あとはどの文脈を本線とするかにかかってるというか、とにかくゆる〜く有機的に繋がっている。
 
本書で考えたいことと言えば、ぼんやりとしたストーリーの中に突然強固な意志をもって現れる頻出ワードや概念について。しかし、理詰めでこれに対応するのは難しい。なぜなら、同じフレーズが場合分けされてしまったり、曖昧で矛盾含みのように見えたりするからだ。
そもそも本書の特徴として、発言の妥当性を1文ずつ疑わなくてはならないという部分があって、それがギリギリの緊張感で続いて行く。だから水掛け論にならない抽象度でまとめるのが丁度良い気がする(なお、2011新潮社版下巻のあとがきにはV.の一生?という項目があるので便利である)。この話をパオラの話として組み立てる理由の2つ目はその妥当性に関するもので、ステンシル父の話のどれが真実か全く判別出来ない一方、パオラの父ファウストの意見はほぼ信用出来るという私の判断によるものでもある。
 
とにかく頻出フレーズをひとつずつ見ていきたいと思う。
 
まずは「ツーリズム」
一体何ゆえに、彼らは年々その数を増やしながらトーマス・クックの代理店に詰めかけ、ローマ平原の熱病やレヴァントの不潔やギリシャの腐った食物に身をさらすのか?異国の地の皮膚だけを愛撫して遍歴するツーリスト、(中略)都市を愛してまわりながら、愛人の心については何一つ語れないドン・ファンなのだ。(7章 pp274)
ゴドルフィンフィレンツェでの独白。もちろんレジャーとしての旅行客なのだが、人生をかけた陰謀と向き合う者(ピンチョンもかな?)からすれば子供がスタンプラリーをこなすのと同じように見えるということでもある。
ところが、話が進むにつれて、このような解釈も出はじめる。
自分たちの愛がツーリズムの1ヴァージョンに過ぎないことにさえ思い及ばなかった―クッションとベッドと鏡に取り囲まれた二人の時間に旅行のような「時間配分」は存在しないとはいえ、これはこれで観光旅行のようなものだ、ということに。世界を観光して回る者は、それまで展開してきた世界の中に自分たち自身の世界を持ち込み、ついにはそのパラレル・ソサエティを世界の全都市に蔓延させてしまう。(14章 pp630)
V.の創ったフェティッシュも持ち込みであり…と続く。これがピンチョンの世の中に対する嘆きの出発点なのではないかと思う。1をきいたら6〜7わかるのに、何を汗水たらさなくてはならないのか、という戸惑い。
 
次の頻出ワード「<シチュエーション>」
「ツーリズム」が個人の主観についての問いかけだったとすると、これは社会の主観への問いと言えるかもしれない。
<シチュエーション>なるものに客観的リアリティはない、というのが、ステンシルがずっと前に達した結論だった。<シチュエーション>とは、その場でたまたまそれに関わりを持った人間の思考の中にのみ存在するのだ。複数の人間の思考の寄せ集め、あるいはくみあせが<シチュエーション>であるからには、それが均一ではなく雑種性を帯びるのは当然(7章 pp282)
<シチュエーション>は父ステンシルのキーフレーズである。
ゴドルフィンから「ヴィーシュー」という陰謀のコードネームが出てきたとき、よし!これを追いかければいいんだな!と思わされるが、その先は行き止まりだ。何故なら<シチュエーション>の要素でしかないからだ。たまたまV.たち(つまり子ステンシルの筋立て)にとって大事かのようであるが、ヴィーシュー自体が真理の解決や不特定多数の人々が欲しがるような何かではないということである(cf.7章pp253,pp306~307)。
普通の小説であればここで父ゴドルフィンの人生総括くらいには用いられてもいいだろう。しかし父ゴドルフィンは自らヴィーシューへの執着を否定し、その後は若い頃のフォプルの代弁者として綺麗にバトンタッチしていき、外様関係者のV.や父ステンシルにしこりを残していく。
 
 
 
そして社会性と個人は接触するわけである。
シェーンメイカーの例が包括的な洞察になっているので少し長いが引用してみたい。シェーンメイカーがいかにしてレイチェルに非難されるような「悪徳」形成外科医になったのか。
最初の内は、ハリダムへの憎しみとゴドルフィンへの愛の名残に動機づけられていた。次に生じたのが「使命感」だったが、こちらは愛や憎しみに比べて脆弱なものだから、堅固な支えをあてがわなくてはならない。そこに割り込んできたのが、形成外科医学の「あるべき姿」をめぐる覚めた諸論理であった。(中略)世の中を見れば、政治と機械が結託して戦争を遂行している。機械と化した医療に見捨てられ、後天的な梅毒の症状を悪化させていくものもいる。(中略)しかし、それらを取り除くことができるだろうか。その存在は、すでにありのままの現実の一部を成しているのだ。現状を肯定する怠惰な思いが、シェーンメイカーの精神を冒すようになった。これを一種の社会的意識の成熟と見ることはできるだろう。だが、その意識があちこちで社会と結託するうちに、あの兵舎の晩、軍医に向かって思いのたけをぶつけたときの壮大な怒りは交代を余儀なくされた。目的の瓦解―これもひとつの腐敗である。(4章pp150)
 
余談ではあるが、このゴドルフィンとは、子ゴドルフィンであり、ヴィーシューの父ゴドルフィンの息子である。全く関係が無いはずだった世界線上で、微妙にボタンを掛け違い続けるのが本書の一つの特徴である。
 
シェーンメイカーを土台にしてファウスト・マイストラル1、2、3、4の変遷に言及できるだろうか。第11章「マルタ詩人ファウストの告解」は本書で最も難解な章ではないだろうかと思う。でも上述の通り、本当のことを言っているクレタ人…ではなくマルタ人のファウストを道しるべにする必要がありそうだ。
 
ファウスト1からファウスト2へ、そして限りなく3に近づくまでの変遷は、シェーンメイカーと同様に社会の要請のようなものによって切り替わっていった個人意識の変遷である。
マイストラル2がやってきたのは、娘よ、おまえと共にであり、戦争と共にだった。おまえの誕生は計画外であって、ある意味では悔やまれた出来事だった。(中略)我々が詩的に想像した「運命」は、より深くて古い貴族的任務にとって代わられた。我々は建設作業に従事していた。(11章pp463)
ここまでは言わば「人間の法(cf.11章pp490)」の影響で自身を変化する必要に迫られたという話だった。
 
 
 
話をすすめると、ファウスト3はもっとも無人間性に近い(11章pp463)だという。ここからは「神の法」の領域すれすれになっていく。
廃頽、衰亡。デカダンス、その本性は何か?死に向かっての、あるいはむしろ無人間性へ向かっての、明確な歩み。それだけだ。ファウスト2〜3は、マルタの島とともに無生命の度をましてゆくにつれて、枯葉や金属片のごとく物理の法に従属する時に近づきつつあった。(11章pp490)
デカダンス」というのも頻出ワードのひとつで、ヤンデルレンの様相や、1922旧独領南西アフリカで出てくるフォプルの屋敷の不夜城パーティーデカダンスの現象の現れである。物語終盤ここにきて、否定的ではない何ともニュートラルな定義として登場するのである。ここにV.が晩年に近づくにつれて身体パーツを無生物に入れ替えていく展開が重なってくる(行きつく先が人体研究アソシエーツのSHROUD人形なのだろうか?)。
 
さらにファウストの議論は、必ずしも無生物は「神の法」に含まれず、「アクシデント」こそが神の領域だ、と続いていく。
無生物のほうへと漂いながら学ばされるのは、生の唯一の教訓―人の生には、正気で耐えられる限度を超えた偶発性(アクシデント)に満ちているということ。(11章pp488)
 
 
 
ところで、(おそらく時系列的には)ファウスト2の時世にマルタ人は、マルタ島自体を岩の子宮とみなす世界観の中で「全島的交感(コミュニオン)」に全体が突き動かされていたという。コミュニオンという言葉は聞きなれない概念だったが、私の理解したかんじだと、体系性のある以心伝心のようなもののようだ。
「コミュニオン」が無生物であるファウスト3の時世にもあったかというと、ちょっと分からない。そういった文脈でのメッセージは見つけられなかったからだ。ただ、私は「コミュニオン」は無形のものだとはいえ、人間の法のモノ扱いするのが、より文脈に近しいのではないかと思った。
なぜなら、子ゴドルフィンはヴィーシューをとりまく政治について「これって一種の霊的交感(コミュニオン)ですよ」と言っているし(cf.7章pp288~289)、子ステンシルの総括?も下記のとおりである。
ツーリズムはカトリック教会のごとく国境を越えた存在なのであり、おそらく我々がこの地上において知っている最も絶対的な霊的交感(コミュニオン)である。というのも、アメリカ人であれ、ドイツ人であれ、イタリア人であれ、エッフェル塔やピラミッドやジョットの鐘楼によって全く同じ反応を惹起されるからだ。(中略)彼らこそストリートの信徒なのだ。(14章pp627-628)
 
 
ここで一つの疑問がわいてくるのだが、冒頭で紹介したワニ狩りの話はコミュニオンの話だろうか?
 
 
ワニ狩りの解釈についての感想は、率直に言えばブラックユーモアさを感じる。その発想は無かったという感じ。
そしてこの話は同じ構造の繰り返しの、父ゴドルフィンが無意識下で代弁するフォプルの話としてもう一度現れる。
ここが本書の中で最も衝撃的な叙述だと思う。下記に引用してみたい。
この行為の最中だった―後で聞けば、フライシュも似たような感覚に襲われたという―今まで体験したこともない、奇妙な安らぎが訪れて彼を包んだのは。想像するに、あの死んでいったクロンボが魂を手放したときも同様の安らぎが得られたんだろう。いつもなら、こっちはいらだちを感じるのがせいぜいなのに。(中略)あのクロンボと自分とが、そして自分と自分が今後も始末しつづけなければならない土人の全員が、整然たる一線につながったんだ。定められたシンメトリー。
(中略)
道端で野生の玉葱を掘っている婆さんに出くわした。コニッヒという名前の兵隊が馬から飛び降りて撃ち殺したのだが、引き金を引く前に銃口を額に当てて「殺す」と言うと、婆さんは目を上げて答えた。「ありがたいことです」(9章pp397~398)
 
この様子がどのように分析されているかと言うと、
感情ではあるまい。人間の「感覚」と呼ばれるものの麻痺を伴っているのだから。「任務遂行のための黙契」とでも言えばいいのだろうか。オペレーショナルな共感とか。(9章pp394)
どちらかといえば、人間の法の問題だろう。その意味では「コミュニオン」のような状態と極めて似た状態なのではないか?
 
しかし、別の言い回しでは、無頼の行いのランダムな連続(9章pp410)、アフリカ的だった「政治的エピファニー(9章pp411)とも表現されている。これはまさに神の法治下に照らし合わせた様子ではないか。ワニ狩りもプロフェインの主観ではエピファニーのように描かれているのである。
これが、不思議なことに、ヤンデルレン生活やどんな登場人物たちよりよっぽど快活に描かれていて読者として戸惑いを感じるのである。
 
 
この矛盾しているが、実際に作中で起こっている状態をどう解釈しなければならないだろう?
この問いは、「ツーリズム」や「<シチュエーション>」に対する姿勢を通して考えるに
 
なぜ無秩序で起るはずのない出来事が予定調和的に起りうるのだろうか? 
という問いに変換することができないだろうか。 
 
 
これは、秩序というものが状況より先行することはありえない、ということなのではないだろうか。
つまり、予定調和的に起っているように見える出来事は、まず無人間性と相対性がある中で(唯物論的だ)アクシデントが起こるという順番のみがある。それは運か実力によって結果が現れる性質のものと混同されてはならない、と言う風にも言い換えられるかもしれない。
魂と魂のあいだの出来事を神は直接に支配しないのだ。それは運か実力か、いずれかの影響下にある。(3章pp115)
 
更に別の角度からいえば、出来事として現れた何かが交わって出来た点(秩序的要素)を繋いで、地軸の頂点もしくは20世紀という山脈の頂点に向かって組み上げていってもそこにあるのは虹色*1の無秩序だと言えないか。
 
 
ここで一気にパオラに話を戻そう。
ファウスト曰く、マルタの子供はファウスト3が獲得することになる原型を自然に持っていて、しかもファウストのように断絶した人格になっていなかったという(11章pp506)。
我々の過ぎ去った跡には、どんな怪物が誕生するのか…(中略)どんな怪物が、か。我が子よ、おまえはどんな怪物なのだね?(11章pp469)
 
言うまでもなく、パオラは50年代である現在を生きなければならない。そこは爆弾を避ける「地下」もなく、無人間性とだけ純粋に向き合うことのできる「温室」もない、20世紀と言うストリート(11章pp494)があるのみだ。
パオラは、マルタの女神マラのように(cf.EPpp707~709)、七変化を繰り返しながら器用に生きる怪物となったのだった。
似顔絵はパオラの手描きだ。(中略)「ウィンサム、カリズマ、フウ、わたし、<Vノート>。マクリンティック・スフィア、パオラ・マイストラル」固有名詞しか書いてない。この子は固有名詞だけの世界を生きている。人と場所。モノはない。誰もモノについて教えてくれなかったのか。レイチェルはモノだけで手一杯だというのに。(2章pp072~073)
 
アイヴィー出身のお嬢様も魅力的だが、社会的<シチュエーション>に固定されない、そして「世界の中に自分たち自身の世界を持ち込*2」まない、そして人格が分離しない、そんなある種の理想的なあり方を夢想出来るのではないだろうか。21世紀、これが先験的な姿の一つであると今まだ言えるかどうか、本書のどの部分に妥当性を感じられるか、そうした事を考えるに値するだけの主張が盛り込まれていたと感じられた。

*1:ヴィーシュー

*2:「ツーリズム」箇所参照

世界終末戦争(バルガス=リョサ著 新潮社 2010)

「包囲される前にどうして逃げ出さなかったんだ、こんな鼠捕りのなかにこもって殺されるのを待っているなんて、まったく気違い沙汰じゃないか」
「逃げる場所なんて、どこにもないんだよ」とナトゥーバのレオンが言った。「もうこれまで十分逃げまわってきたんだ。だから、ここに来たんだから。ここが最後の場所だったんだ。連中がベロ・モンテまで来たのならもう、どこにも行くところなんてない」 (pp591 第4部4章)

世界終末戦争

世界終末戦争

※以下の内容には『世界終末戦争』のネタばれが含まれます※
 
長いけど、非常に読みやすく、ストーリー色の強い作品だった。ただしこの小説には主人公はいない。冒険物語のようなものではないからだ。ストーリー展開の面白さや分かりやすさを考えた時、唯物史観的な情報を物語の骨子に交ぜることによって物事の因果関係がさり気なく上手に整理されていることに気付いた。改めてモノが持つ説得力を目の当たりにしてしまったのだった。
 
それもそのはずで、本書は実際にブラジルで有った大きな戦争「カヌードスの反乱※URLはwikipedia」を忠実にまとめた歴史小説という側面を多分に持っているからだ。
そういった意味では、本書について備忘録を残すまでもないという気もする。さらに訳者の方のあとがきでも、大きなテーマについては明晰さをもってほとんど必要なことは書かれている(ブラジルの社会情勢、都市とセルタンゥの歪み、男性主義について)。
というわけで、今後の参照のために最低限必要な要素は既にそろっているので、私のほうは別の側面を補足することにしたいと思います。
 
本書を一言でまとめるなら、
狂信徒コンセリェイロが信徒とともにカヌードスに街を作り、共和国と軍事衝突して鎮圧、解体される話。
 
まずはストーリー展開をざっくりとまとめてみたい。

本書は下記の4部構成になっている。
 
第一部:コンセリェイロたちの拡大、カヌードスに腰を据え2度軍を追いかえす。一方バイア州の野党インテリであるエパミノンダス・ゴンサルヴェスの2枚舌策略で、流浪のイギリス人革命家(自称)ガリレオ・ガルがカヌードスへの道すがら暗殺されかけるところまで。
第二部:エパミノンダス・ゴンサルヴェスの自作自演新聞。バイア州与党(地主カナブラーヴァ男爵の党)がカヌードス反乱の思想的首謀者では?と揶揄をする短い章。
第三部:国をあげてカヌードス反乱は本気で鎮圧にかかられる。共和国軍最強のモレイラ・セザルが新聞記者団を携えて出陣するも、戦場にたどり着くまでのゲリラ戦で消耗した後敗戦。セザル死亡の報にバイア地主のカナブラーヴァ男爵が政権をエパミノンダス・ゴンサルヴェスに譲渡する。
第四部:4度目の共和国の進軍による人海戦術で、カヌードスが鎮圧される。その過程とパラレルで、反乱鎮圧後の未来において、奇跡的にカヌードスから脱出した「メガネ記者」が政界を引退したカナブラーヴァ男爵を訪問して反乱の感想戦が行われる。
 
 
本書がストーリー的である要素の一つとして、多くの登場人物がそれぞれに強い目的と意志を持っていることが挙げられると思う。主要人物だけでも25人くらいを認めることができるけれども、誰の登場が最低限必須なのだろうか?とまずは考えてみた。
 

※人物相関図を簡易的に作りました。
コンセリェイロ:セルタンゥ中を布教して回り、信者とカヌードスに村を構える。共和国の税収を拒否したことをきっかけに軍事衝突。4度目の反乱中に病死。共和国軍により死体の首が解剖に回される。
モレイラ=セザル:3度目の反乱に出陣時点では既に伝説的共和国軍の英雄。貧しい出身で軍隊を実力で登りつめた。「首狩り屋」の異名を持つ。途中カナブラーヴァ男爵邸にて病気の治療を受けつつ進軍するが敗戦。自身も戦死し、首を見せしめに出される。
カナブラーヴァ男爵:バイア自治党の党首であり、カヌードスの所有者。2度目の反乱後にヨーロッパ外遊から帰国し、世論を察知し共和国軍支持に政策転換をするも、モレイラ=セザル敗戦により、反乱軍(パジェウ)にカルンビ農園を焼かれ追い出される。妻の精神衰弱とともに政権を受け渡し引退する。
エパミノンダス・ゴンサルヴェス:バイアの共和派新聞『ジョルナル・ジ・ノチシアス』発行者。カヌードス反乱に乗じてバイア自治党批判を扇動し、カナブラーヴァ男爵の地位を手に入れる。
 
この4人が物語を回すモーターになっているのではないだろうか。皆がはっきりとした立場の上に目的をもって推進力を生みだしている。他の人物はこういった「大局」に付随して生まれた副産物のようだが、史実をまとめると概してこのようになってしまうものだ。(他の人物については別テキストにて人物紹介予定です 2/1:最後に添付しました。)
本書では更に、中心のコンセリェイロという現象に他の人物がどう対処するか、という形で描かれるため、コンセリェイロは文字通り「神」視点であり、大義は存在するがその気持ちは不明瞭になっている。
だから、モレイラ=セザルは反乱を鎮圧したい、カナブラーヴァは地主クラブの最大幸福を維持したい、ゴンサルヴェスは政権を手に入れたい、という意志の下、その場その場で気持ちが揺れ動く一方、肝心のコンセリェイロは揺るぎない信仰があるということ以外の機微を掘り起こせないようになっている。(余談だが、コンサルヴェスが実在の人物かどうか良く分からなかった。調べるにルイス・ヴィアナ知事は実在の人物らしいけど。)
 
各人が目的のために行動していると、物語が進むにつれて色々な交代が生まれてくるものだ。
 
まずは権力の交代。カナブラーヴァからゴンサルヴェスに交代する。カナブラーヴァは地主として、鳥瞰視点からひとり見ている光景がある。これは、教室でいう所の教壇に立っているようなもので、独特な視点なわけである。
「ここの人間は秩序があると感じる時には、盗みもしなければ、火をつけもしない。世界がしっかりとまとまりをもっているように見える時には。彼らほど上下関係を尊重する人間はないからだ」(pp260 第3部3章)
しかし、何か諦念を感じとって引退を、と思ったのであろう。それはゴンサルヴェスがこれから感じることになるかもしれない世界の不条理である。
やつらはさそりみたいな連中だ。農園を焼くというのは自分ら自身に刃をむけることじゃないか、自らの死に手を貸しているんだ」(pp339 第3部5章)
物語の最後に、そのイメージを体現したようなシーンが出てくる。地主クラブの又聞きエピソードだ。
眼下に、かつてカヌードスの町だったものが広がっている地点まで来て初めて、その音が、何千という禿鷹の羽音、くちばしの音であることがわかったのだという。果てしない海のように灰色の黒ずんだ波が、食傷するまで貪り食いながら全てを覆っており<中略>もはや埋葬すべき人間などいない―鳥がそれをやってくれている―ことを理解するや、鼻と口をふさいで大急ぎでひきかえしてきたのだという。(pp648 第4部6章)
一方ゴンサルヴェスの方は、目的達成の充実感と共に本書(=カヌードスの反乱)から早々と姿を消していく。このようにして役が順繰りに回っていくが、いずれにせよ、バイアに限らず場所と歴史は誰かが引き継がなくてはならないものなのだ。
 
そして次の交代はインテリ語り部役。序盤からカヌードス周辺を取り巻く状況を整理し続ける人間はガリレオ・ガルだった。ガルは、完全にカヌードスに肩入れした状態でのレポートを作り続ける。もはや同胞のいない彼方ヨーロッパに向けて…
これまでずっと戦いのなかで生きてきたが、味方の側で見たことと言えば裏切りや分裂や敗北ばかりだった。ただの一度でいいから勝利というのを見たかったんだ。(pp275 第3部4章)
ガルはカヌードスには憧れを持っていたが、それを取り巻く人々については「理解できない」の一言で済ませてしまう不躾さがあったようだ。敵でも味方でもないが、敵にも味方にもなれるバイア人と足の引っ張り合いをしてしまった、という印象が拭えない。
バイア人カイファスからルフィーノへのセリフ
死だけでは十分ではない、死は侮辱を洗い流しはしないということだ。ところが、顔を手か鞭で打つというのならいい。顔というのは自分の母親や自分の女と同じくらい神聖なものだからだ(pp226 第3部2章)
ガルがこれを理解できたなら、生きてカヌードスで勝利を体感できたかもしれないなぁ、と思ったりもする。
一方の語り部はモレイラ=セザルに同行した「メガネ記者」だが、彼はバイア人そして共和国軍側の視点であり、ガルと全く対称的な位置から登場してくるのが興味深い。男爵が可愛がっているカメレオンも暗喩になっている(?)人物で、柳のような、しかし不器用な身のこなしで中盤以降の歴史的重要シーンに居合わせる役目を作者から負わされている。語り部が持っていい主張と悪い主張がある、といわれているような、そんな気持ちになる。ただし、後述しようと思っているが、そんなメガネ記者もカヌードスの本質は体感できなかったんじゃないかなぁ。なぜなら彼はインテリだったから。
 
反乱自体も多くの交代を伴っている。何しろ4度の会戦があったのである。4回の軍隊と4回の行軍ルートがある。行軍ルートを下記画像にまとめてみた。読中の印象よりも案外色々な場所から攻められたんだな、という感想に変わった所ですね。(なお、カヌードスの街マップは見つけられなかった。もちろん資料が残っているとも思えない。)

元データはこちらwikipedia:caudos_state_park記事に付随の写真より)
バイア警察義勇兵大隊長のジェラルド・マセードも、ジョアン・アバージを30年追い続ける過程で、社会的な役割のなか共和国軍に鞍替えしていったというのも広く見れば交代の一種だろう。余談だが、マセードは目的を達成することが出来なかった。大天使にその役目を奪われてしまったからだ。
中々会戦から交代してもらえない人物もいる。1回目の隊長であるピレス・フェレイラ中尉だ。物語全体が反乱軍の敗北を結果として残すなら、その中で共和国軍の敗北であるモレイラ=セザルとピレス・フェレイラが反乱の熾烈さを担っている。
 
 
ここでやっと反乱(戦争)が出てきたが、やはり反乱自体について大きく取り上げるべきであろう。戦場の情景の生々しさこそが本書の魅力の中核をなす部分だからである。
制服対ぼろ着、沿岸部対内陸部、新しいブラジル対伝統的なブラジル、この戦いがそんなふうに見えたとしてもそれは外見だけのことだった。本当は、これは深い所で行われている非時間的な永遠の戦い<中略>自分がその戦いにおいては単なるあやつり人形でしかないことに気づいていたのだ。(pp136 第1部7章)
 
これは当然ジャグンソ側(カヌードス戦士)の視点である。というわけで、ジャグンソからすればこれはいわゆる「戦争」ではないということが分かる。
ゲリラ戦だからでもあるけど、こうした理由によって、斬新で生々しい戦術が現れる。更には、むしろ一周回って美しすぎる戦闘シーンも強く印象に残っている。例えば、不吉な笛の音とともに「動物を二度殺す」シーン(pp264 第3部4章)や、少女を利用して兵士をおびき寄せようとした事後らしき場所にルフィーノがさ迷いこんでしまうシーン(pp292 第3部4章)など。少し長いが引用してみたい。
 
笛の音はある種の鳥の鳴き声に似ている。その不ぞろいな悲歌は耳を貫いて兵士たちの神経に突き刺さり、夜中に彼らをたたき起し、行軍中に奇襲をかけてくる。それは死の前奏曲だ。弾丸や弓矢が続き、かすめるようなうなりをたてながら、的に命中する前に、光あふれる空を背景に、あるいは星のまたたく夜空を背景に輝きたつ。<中略>ちょうど笛が兵士たちの耳―頭、魂―にねらいを定めているように、弾も執拗に動物ばかりを求めて飛んでくるのだ。<中略>―動物自身の命を奪い、同時に、それらを引き連れてきた人間たちの糧となる可能性をも奪うのだ。(pp264 第3部4章)
 
 
全く別の観点になるけれども、カヌードス陥落直前になり、ベアチーニョに連れられ投降する民をジョアン・アバージらジャグンソ達が発砲するシーンについてはどう考えるだろうか(pp672 第4部6章)。この倫理的な命題にたどり着くためにこそ600ページの文学があったのでは、と私は感じさせられたようなシーンだった。
ベアチーニョはコンセリェイロの遺言に閃きを得たのであろう。常に未来のためにしなくてはならないことがあるということなのだろうか。思い出してみれば、カヌードス以前のコンセリェイロも同じようなことを言う人だった。
各自家に帰るようにと求めた。自分と一緒に遍歴を続ければ牢屋に入ることになるか、今では父なる神のもとにいるあの五人の兄弟と同じように死ぬことになるだろうから、と言うのだった。が、誰ひとりとして動かなかった。(pp047 第1部3章)

ジョアン・アバージはどうだろうか?
ここでは生よりも死の方が重要だとされているのだ。すべてから見放された状態で生きてきた彼らの望みといえば、立派に葬られることだけなのだ。<中略>死こそが唯一、苦しみを埋めあわせてくれるもの、コンセリェイロの言う「お祭り」ということになるのかもしれない。(pp584 第4部4章)
 
 
この引用が何か回答になっているだろうか?この独白はメガネ記者のものだが、個人的には、これを次の問いに繋げてみたい。
コンセリェイロの目的は半ば不明瞭なままであった、しかしそれにしても、なぜセルタンゥの人々はコンセリェイロに付き従い、カヌードスに集まったのだろうか?
 
 
この物語に巻き込まれてしまった人たちは、それぞれの立場から推論をすることになったのだが…。
オスカル将軍の推論。
カヌードスを説明するのは何なのか?インディオと混血した連中の血に欠陥があるのか?教養の欠如か?それとも、暴力に慣れ親しんでいる連中の野蛮な本性が、隔世遺伝によって表面に現れ、文明に抵抗しているのか?宗教や神と何か関係があるのだろうか?どう考えても満足のいく説明はつけられない。(pp605 第4部4章)
 
これは物質の問題なのだろうか?メガネ記者。
幸福、不幸の感覚は今では大部分、腹具合にかかっていた。この単純な真実がカヌードスの原則なのだ、が、ではここの人たちは物質主義者と呼ばれるべきなのだろうか?(pp451 第4部 2章)

もちろん物質主義者ではないことは自明だっただろう。そして、メガネ記者は最終的にカヌードスの反乱を「誤解の物語(pp559)」だとし、帝制の奴隷解放への反対者が共和国を作り、奴隷制を復活させる動きだと捉えた人々によるものだ(pp560第4部4章)と結論付けている。
それはその通りなのだろう、恐らく。ただしマクロ的にはそうまとめられるという事にすぎない。それはそれ、である。つまり、これで行間が埋まったようにはどうしても思うことが出来ない。
 
そこで冒頭引用のレオンが出てくる。彼らは物質的にももちろん困窮していたが、追い打ちをかけるように精神も行き場をなくした呪縛霊であった。神が創造した神の無い場所=悪の住まう場所と自分自身が現実性を伴ってオーバーラップしていた。ジョアン・アバージも『悪魔ロベルトの物語』を小人が語って聞かせるシーン(pp675第4部6章)では、罪の苦しみに苛まれている様子が描かれる。
 
それまで恐怖と憎しみと飢えと犯罪と略奪しか知らなかった連中に人生を変えるよう説得したがゆえに、やつらは次々と軍隊を送ってあの人たちを根だやしにしようとしている。こんな不公正をはたらくとは、いったいブラジルは、世界はどうしてしまったんだ?(pp537第4部3章)
 
他人にとっては不都合なことではあるが、当事者たちにとっては抵抗することもまた、障害の多い世界の中で生を全うするための方法論だったのだろう。皆が何に向かっていいか分からない中、自然な役割分担がされ、自然と人が増え、組織ができていく。こんな当たり前だが予定調和的な事があるだろうか。
その組織が鎮圧された状況を清濁併せ呑んでどう咀嚼するのがいいだろうか。
心して知るべきなのであろう、ドグマの信憑性を疑うよりも、概念的秩序が壊された空間の中に禿鷹の海だけが残ったという事実自体の姿を。
 
 
2/1:P.S.
※人物紹介別紙の3ページ分です(DLして見て下さい)


アウステルリッツ(W.G.ゼーバルト著 白水社 2003)

どんな因果によってかかつての所有者よりも長生きして破壊の作用を免れ、テレジンの小道具屋に打ち寄せられた装飾品や道具類や記念の品々もまたことごとくが時を止めているのであり、それらのあいだに、今、私自身の影が幽かに、あるかなきかに写っているのを認めることができるのです。(pp191-192)

アウステルリッツ

アウステルリッツ

 
※以下の内容には『アウステルリッツ』のネタばれが含まれます※「ジャンルを特定できない散文小説である」とのことらしいが、これは口頭伝承の口語書き下しなんだと思う。それもブルースのような類の。もしくは鎮魂歌。
 
とはいうものの、人に何かを訴えようというそぶりは全く見せる気がない。堆積したチリを見るような空気感の中で、がらんどうの空間に分散し、充満する静謐で潔癖な空想がただ広がっている。
本書の本体であり、語り手の側である人物アウステルリッツにとって本意であるかは定かではないけど、それは例えばヴァルヌーイ湖に沈んだ町の風景が体現している。
両親も、兄弟姉妹も、親戚も、隣人も、村民も、ひとり残らず深い水底に沈んでいる、まだ家に至り、そこの通りを歩き回ったりしている、でも口を利くことは叶わず、両の目を大きく瞠っているばかりだと、そんな風に思えてくるのでした。<中略>夜、冷え冷えした部屋で眠りに引き込まれる前には、自分も暗い水底に沈んでいるような気のすることがよくありました。ヴァルヌーイ湖の哀れな魂と同じく、眼を大きく瞠って、頭上はるか、幽かに射しこむ薄日を仰ぎ見ているような、鬱蒼と木の茂る岸辺に恐ろしげな様相でぽつんと立っている石塔の、さざ波に見え隠れする水影に目を凝らしているかのような気がしたものです。(pp052)
イライアスの父親の町があったヴァルヌーイ湖は恐らく想像より少し和平的移住が行われたであろうとは想定することができる。なぜなら、ダム湖であるから。しかし、子どものアウステルリッツにとってはこのような解釈なのであり、つまりアウステルリッツとはこのようなある種ナーバスな人物なのであった。
 
本書を一言でまとめるなら、
幼少期に孤児となった建築史家アウステルリッツが語る、アイデンティティを探る人生の回想録(進行形)
ということになるだろうか。
 
本書の大部分が壮年期を終える人間の回想録であり、それゆえ話題が子細の記憶のパッチワークのように飛散している。行間の無い密集した文字塊の中で、隣の文が30年前の話だったりする。
というわけで備忘録のために、これを年代順に並び替えました(アウステルリッツ目線)。
 
 
1934 アウステルリッツ誕生。チェコにて。
1939 「子供だけの特別移送」チェコからイギリスへ
   バラでの育ての親イライアス夫妻との生活(説教師の生活)
1946 ストーワ・グレインジ学校寄宿生になる(グェンドリンの病気が原因?)
   歴史の先生ヒラリーに学ぶ。自分の名前、孤児であることを知る
   上級寄宿生になってから、後輩ジェラルドとの交流
   休みがあるとジェラルドの家でアデラやアルフォンソの知己を得る
   コートールド・インスティチュートで建築史を始める
1957 パリで研究
   オックスフォードに進学
1965~ ジェラルドの事故死(「私自身の下降のはじまり(pp114)」)
1967 アントワープで「私」と初対面、数日連日で出会う
<<それから「私」はロンドンのアウステルリッツ研究室に何度か行った>>
1968 パリに研究のため滞在、マリー・ド・ヴェルヌイユと出会う
   獣医学博物館で倒れ一時記憶喪失になる
   オーステルリッツ駅でマリーとサーカスを見たり…
1972 マリーとマリーエンバートへ旅行
1975 「私」がドイツから手紙を送るが返事無し(この後連絡取らず)
1991 大学を早期退官、自身の研究をまとめようとするが…
   リヴァプールストリート駅でリュック姿の自分を思い出す
1992 大英博物館近くの古書店のラジオで「子供の移送」を知る
→  そのまますぐチェコへ発ち、ヴェラと会う。
→  テレジンや、子供の移送の経路を列車で追憶する
→  帰省し家の隣のクレメンテ病院に倒れる。庭仕事をする。
1996.11. 「私」と偶然グレート・イースタンホテルのバーで再会
<<ここから回想録が始まる>>
1997頭   2度目のプラハ、アガータの写真を見つける
1997.3.19 アウステルリッツの自宅に招待される「私」
<<ここで回想録と「私」との会話の時間軸がクロスポイントを迎える(pp243)>>
 
1997.9.  アウステルリッツの新しいパリの住所から手紙、会いに行く
その後   パリの国立図書館がオーステルリッツ駅に移籍
→     アウステルリッツの父親の消息あったとの連絡あり。
→     「私」はその足でもう一度アントワープに立ち寄る

 
思い出話の情感を蹂躙して整理してしまったけど、一方アウステルリッツとは、時間というものを疎みすぎるゆえに時間や過去といったものにがんじがらめになってしまった人であり、肥大化した概念が叫びとなってパッチワークが生成され続けている。
 
アウステルリッツアントワープ駅を評価するに、帝国主義時代の大きな国家事業の一つであり、最も高く中心部に置かれているものは時計であるという。
時計はアントワープ駅の中心点であり、<中略>いやがおうにも時計に合わせた行動をとらざるえを得なくなる。<中略>十九世紀の半ばに統一時間が導入されてからというもの、時間は疑いもなく世界を仕切っているのです。(pp012)
グリニッジでの「私」との対話の中でも、時間についてのブルースが物悲しい調べを奏でる。
私は時間が過ぎなければよい、過ぎなければよかった、と願っていたのです、時間を遡って時のはじまる前までいけたらいいのに、すべてがかつてあったとおりならばいいのに、と。<中略>私はあらゆる刹那が同時に並存して欲しいと願っていました。(pp099)
 
そうであるべき、というよりは願いなのだとここに来て理解する事ができるということなのでした。
くどいようだけど、もう一文アウステルリッツの時間についてのコアイメージを引用しておきたいです。時間についての願いがあるのだとすれば、その形而上学的な概念とは。
…私はだんだんこう思うようになったのです。時間などというものはない、あるのはだたさまざまな、高度の立体幾何学にもとづいてたがいに入れ子になった空間だけだ、そして生者と死者とは、このときどきの思いのありようにしたがって、そこを出たり入ったりできるのだ、と。(pp178)

具体的には、建て直し中のリヴァプール駅の中、新旧入り混じった空間のひずみのような場所で、自分の過去を思い出した経験などに象徴される経験則から生まれたものだろう。
面白いのは、そう言いつつ、話している場所がグリニッジだったりするところで、いくら時計を持たない主義だとか言ったところで、しっかり時間に束縛されているじゃないか!もちろん、本人も気づいてはいるけど。
 
ここへきて2つの考えが浮かんでくる。1つは、こうした時間についての考えは究極的には自身の過去にかかわっているということで、2つ目は、自身の思考と自身の身体のある空間を同一視しているということ。これを1つずつ考えていきたい。
 
1つめ;時間にしても建築史家的な知見にしても、あたりまえだけど全ては自身の経験に結び付くものであって、とりわけアウステルリッツについては、家族がWW2時代の動乱にユダヤ人として巻き込まれていった過去に強く結び付いているといえる。だからこそチェコを訪れテレジンや「子供の移送」の経路をたどってみる。
 
2つめ;これは話が飛躍しているかもしれないが、アウステルリッツにしても「私」にしても、動物やモノによくスポットを当てているように思う。自身を覆う空間の表情が自身の表情であり、逆に自分の思考の中に時々ちらつくものが即ち、入れ子になった空間の間で干渉するものとして表出するというような。相互に影響する有機的な状態というか何というか。
このレバー色をした瘡蓋に覆われた柱頭の入り組んだ形を、ほんとうに一九三九年夏、子供の移送でビルゼンを通過した私は憶えているのだろうか、ということであるよりは、ばかばかしい考えながら、肌をかくも瘡に覆われてなにやら生き物めいてきたこの鋳鉄の柱のほうこそ、むしろ私を憶えているのではないか、(pp214)
 
この2つの点がまさに可視化される形で示されたのが、冒頭に引用したテレジンのショーウィンドウに映るアウステルリッツ自身の姿だったように思えるし、果して本当はどちらもアウステルリッツの頭の中だけの出来事かもしれないとも敷衍できる所まで考えが及ぶ中、ゼーバルト作品の特徴である写真、ショーウィンドウの写真が載っているわけです。
 
アウステルリッツにとっては、「私」とのグレートイースタンホテルで約20年ぶりの再会の瞬間も、やはり同様に過去から現れた自身の記憶のように感じただろうと思う(pp044参照)。
父親の痕跡を探しているパリでの話がこれを裏付けているように思われる。
何十年間と少しの変化もないひっそりした裏庭などをのぞきこむと、<中略>私たちの生のあらゆる瞬間がただひとつの空間に凝集しているかのような感覚をおぼえる。まるで、未来の出来事もすでにそこに存在していて、私たちが到着するのを待っているかのようなのです、ちょうど私たちが、受け取った招待に従って定まった日時に定まった家を訪れるのとおなじように。(pp248)
 
話は変わってしまうけど、建物についてもアウステルリッツは独自の考え方を呈示してくる。それは、アウステルリッツの自己の投影が大きな無生物にも及ぶからなのか、空間に根付いたものだからなのか、単に建築史家だからなのか、その全てが入り混じっているからなのでしょう。
例えば、ベルギーのブレーンドンク要塞が兵法的に理想的要塞である一方実践では一切使われなかった経緯と共鳴するように、ユダヤ強制収容所として果した機能と、テレジンの街が重なるようにページを追うごとに誘発されていくしくみになっている(これはアウステルリッツではなくむしろゼーバルトの仕業と言えるけど)。
 
この国の建物でふつう以下の大きさのもの―たとえば野中の小屋、庵、水門のわきの番小屋、望楼、庭園の中の子供のための別荘―がいずれも少なくとも平和のはしくれ程度は感じさせてくれるのに、<中略>ブリュッセル裁判所のような巨大建造物について、これを好きだという人は、まともな感覚の持ち主にはまずいないでしょう。驚くというのがせいぜいのところで、そしてこの驚きが恐怖に変わるのは、あともう一歩なのです。なぜなら、途方もなく巨大な建築物は崩壊の影をすでにして地に投げかけ、廃墟としての後のありさまをもともと構想のうちに宿している…(pp018)
 
このセリフは1967年アントワープでのものだけど、アウステルリッツの生涯で後にこれを自ら体現するかのような出来事が記されていて、予言めいた発言なのだった。それはオーステルリッツ駅のあたりのこと。
唯一伴侶になり得たかもしれないマリーと見た小さなテントのサーカスがあったあたりに、近年国立図書館が移転してきた。これによって、オーステルリッツ駅がユダヤ人から没収された物品の倉庫であった歴史が抹消されてしまっただけではなく、アウステルリッツの2つの思い出(マリーと出会った国立図書館とサーカス)までもを失ってしまったのであった。
巨大であるということはパワーということ。幽霊のような人間であるアウステルリッツにとって、記憶が留まることの許される場所が減っていってしまうことは本能的な危機だし、少なからず記憶に生きている私たち皆に及んでいくものだということなんでしょうかね。
 
幽霊のような語り手アウステルリッツという人のこの後、つまり、アウステルリッツの幸せとは何なのだろうか? 
アウステルリッツが幸せそうであったのは、3つの場面だった。1つ目はジェラルドやアンドロメダ荘での生活。2つ目はマリーと見たサーカス。3つ目は記憶の彼方、ほとんど空想上でのチェコの家族。
 
本書の最後、アウステルリッツは「私」との別れ際にこんなことを言っている。これまたオーステルリッツ駅について。
この駅は、とアウステルリッツは語った。かねがねパリでいちばんの謎めいた駅だと思っていたところです。<中略>こうしたことがすべて何を意味しているのか、とアウステルリッツは語った。私にはわからない。だから父を、そしてマリー・ド・ヴェルヌイユを探し続けます。(pp278-279)
 
空間に何か痕跡やヒントが隠れている、という陰謀論めいたプロセスは、もはやアウステルリッツにとっておなじみの方法論であった。オーステルリッツ駅に何を見出すかについては多く語られていないが、マリーと、父と、「私たちの生がひとつに凝集される」ための出発点としてふさわしい空間だと思っているに違いないんじゃないか。
記憶に生きることというのは、誰かを渇望するということに類似している。
 
過去の幸せの中で、ジェラルドたちは未来のこととしては想定されていない。
もちろん、もうアンドロメダ荘には誰も集まらないことが分かっているからではあるのだけど、そればかりでなく、イギリスという場所のよそよそしさと、案外、アントワープで「私」と出会う前後あたりで丁度アウステルリッツの人生のフェーズが分断されているからではないかと思う。
 
と、ここまできて盲点だったために気付かなかった単純なことを思い出した。
1996年にグレートイースタンホテルのバーで偶然に「私」と再会したことは、まさに「生がひとつに凝集され」たような状態だったのではないのでしょうか。
「私」はなにもしていないように見えて、結構アウステルリッツの人生に関与することになっていった。かくも人の出会いとは不思議なものだということでしょうね。
そしてだれも望んだような形にはならず、思いもかけないところが繋がっていく、とも。