世界終末戦争(バルガス=リョサ著 新潮社 2010)

「包囲される前にどうして逃げ出さなかったんだ、こんな鼠捕りのなかにこもって殺されるのを待っているなんて、まったく気違い沙汰じゃないか」
「逃げる場所なんて、どこにもないんだよ」とナトゥーバのレオンが言った。「もうこれまで十分逃げまわってきたんだ。だから、ここに来たんだから。ここが最後の場所だったんだ。連中がベロ・モンテまで来たのならもう、どこにも行くところなんてない」 (pp591 第4部4章)

世界終末戦争

世界終末戦争

※以下の内容には『世界終末戦争』のネタばれが含まれます※
 
長いけど、非常に読みやすく、ストーリー色の強い作品だった。ただしこの小説には主人公はいない。冒険物語のようなものではないからだ。ストーリー展開の面白さや分かりやすさを考えた時、唯物史観的な情報を物語の骨子に交ぜることによって物事の因果関係がさり気なく上手に整理されていることに気付いた。改めてモノが持つ説得力を目の当たりにしてしまったのだった。
 
それもそのはずで、本書は実際にブラジルで有った大きな戦争「カヌードスの反乱※URLはwikipedia」を忠実にまとめた歴史小説という側面を多分に持っているからだ。
そういった意味では、本書について備忘録を残すまでもないという気もする。さらに訳者の方のあとがきでも、大きなテーマについては明晰さをもってほとんど必要なことは書かれている(ブラジルの社会情勢、都市とセルタンゥの歪み、男性主義について)。
というわけで、今後の参照のために最低限必要な要素は既にそろっているので、私のほうは別の側面を補足することにしたいと思います。
 
本書を一言でまとめるなら、
狂信徒コンセリェイロが信徒とともにカヌードスに街を作り、共和国と軍事衝突して鎮圧、解体される話。
 
まずはストーリー展開をざっくりとまとめてみたい。

本書は下記の4部構成になっている。
 
第一部:コンセリェイロたちの拡大、カヌードスに腰を据え2度軍を追いかえす。一方バイア州の野党インテリであるエパミノンダス・ゴンサルヴェスの2枚舌策略で、流浪のイギリス人革命家(自称)ガリレオ・ガルがカヌードスへの道すがら暗殺されかけるところまで。
第二部:エパミノンダス・ゴンサルヴェスの自作自演新聞。バイア州与党(地主カナブラーヴァ男爵の党)がカヌードス反乱の思想的首謀者では?と揶揄をする短い章。
第三部:国をあげてカヌードス反乱は本気で鎮圧にかかられる。共和国軍最強のモレイラ・セザルが新聞記者団を携えて出陣するも、戦場にたどり着くまでのゲリラ戦で消耗した後敗戦。セザル死亡の報にバイア地主のカナブラーヴァ男爵が政権をエパミノンダス・ゴンサルヴェスに譲渡する。
第四部:4度目の共和国の進軍による人海戦術で、カヌードスが鎮圧される。その過程とパラレルで、反乱鎮圧後の未来において、奇跡的にカヌードスから脱出した「メガネ記者」が政界を引退したカナブラーヴァ男爵を訪問して反乱の感想戦が行われる。
 
 
本書がストーリー的である要素の一つとして、多くの登場人物がそれぞれに強い目的と意志を持っていることが挙げられると思う。主要人物だけでも25人くらいを認めることができるけれども、誰の登場が最低限必須なのだろうか?とまずは考えてみた。
 

※人物相関図を簡易的に作りました。
コンセリェイロ:セルタンゥ中を布教して回り、信者とカヌードスに村を構える。共和国の税収を拒否したことをきっかけに軍事衝突。4度目の反乱中に病死。共和国軍により死体の首が解剖に回される。
モレイラ=セザル:3度目の反乱に出陣時点では既に伝説的共和国軍の英雄。貧しい出身で軍隊を実力で登りつめた。「首狩り屋」の異名を持つ。途中カナブラーヴァ男爵邸にて病気の治療を受けつつ進軍するが敗戦。自身も戦死し、首を見せしめに出される。
カナブラーヴァ男爵:バイア自治党の党首であり、カヌードスの所有者。2度目の反乱後にヨーロッパ外遊から帰国し、世論を察知し共和国軍支持に政策転換をするも、モレイラ=セザル敗戦により、反乱軍(パジェウ)にカルンビ農園を焼かれ追い出される。妻の精神衰弱とともに政権を受け渡し引退する。
エパミノンダス・ゴンサルヴェス:バイアの共和派新聞『ジョルナル・ジ・ノチシアス』発行者。カヌードス反乱に乗じてバイア自治党批判を扇動し、カナブラーヴァ男爵の地位を手に入れる。
 
この4人が物語を回すモーターになっているのではないだろうか。皆がはっきりとした立場の上に目的をもって推進力を生みだしている。他の人物はこういった「大局」に付随して生まれた副産物のようだが、史実をまとめると概してこのようになってしまうものだ。(他の人物については別テキストにて人物紹介予定です 2/1:最後に添付しました。)
本書では更に、中心のコンセリェイロという現象に他の人物がどう対処するか、という形で描かれるため、コンセリェイロは文字通り「神」視点であり、大義は存在するがその気持ちは不明瞭になっている。
だから、モレイラ=セザルは反乱を鎮圧したい、カナブラーヴァは地主クラブの最大幸福を維持したい、ゴンサルヴェスは政権を手に入れたい、という意志の下、その場その場で気持ちが揺れ動く一方、肝心のコンセリェイロは揺るぎない信仰があるということ以外の機微を掘り起こせないようになっている。(余談だが、コンサルヴェスが実在の人物かどうか良く分からなかった。調べるにルイス・ヴィアナ知事は実在の人物らしいけど。)
 
各人が目的のために行動していると、物語が進むにつれて色々な交代が生まれてくるものだ。
 
まずは権力の交代。カナブラーヴァからゴンサルヴェスに交代する。カナブラーヴァは地主として、鳥瞰視点からひとり見ている光景がある。これは、教室でいう所の教壇に立っているようなもので、独特な視点なわけである。
「ここの人間は秩序があると感じる時には、盗みもしなければ、火をつけもしない。世界がしっかりとまとまりをもっているように見える時には。彼らほど上下関係を尊重する人間はないからだ」(pp260 第3部3章)
しかし、何か諦念を感じとって引退を、と思ったのであろう。それはゴンサルヴェスがこれから感じることになるかもしれない世界の不条理である。
やつらはさそりみたいな連中だ。農園を焼くというのは自分ら自身に刃をむけることじゃないか、自らの死に手を貸しているんだ」(pp339 第3部5章)
物語の最後に、そのイメージを体現したようなシーンが出てくる。地主クラブの又聞きエピソードだ。
眼下に、かつてカヌードスの町だったものが広がっている地点まで来て初めて、その音が、何千という禿鷹の羽音、くちばしの音であることがわかったのだという。果てしない海のように灰色の黒ずんだ波が、食傷するまで貪り食いながら全てを覆っており<中略>もはや埋葬すべき人間などいない―鳥がそれをやってくれている―ことを理解するや、鼻と口をふさいで大急ぎでひきかえしてきたのだという。(pp648 第4部6章)
一方ゴンサルヴェスの方は、目的達成の充実感と共に本書(=カヌードスの反乱)から早々と姿を消していく。このようにして役が順繰りに回っていくが、いずれにせよ、バイアに限らず場所と歴史は誰かが引き継がなくてはならないものなのだ。
 
そして次の交代はインテリ語り部役。序盤からカヌードス周辺を取り巻く状況を整理し続ける人間はガリレオ・ガルだった。ガルは、完全にカヌードスに肩入れした状態でのレポートを作り続ける。もはや同胞のいない彼方ヨーロッパに向けて…
これまでずっと戦いのなかで生きてきたが、味方の側で見たことと言えば裏切りや分裂や敗北ばかりだった。ただの一度でいいから勝利というのを見たかったんだ。(pp275 第3部4章)
ガルはカヌードスには憧れを持っていたが、それを取り巻く人々については「理解できない」の一言で済ませてしまう不躾さがあったようだ。敵でも味方でもないが、敵にも味方にもなれるバイア人と足の引っ張り合いをしてしまった、という印象が拭えない。
バイア人カイファスからルフィーノへのセリフ
死だけでは十分ではない、死は侮辱を洗い流しはしないということだ。ところが、顔を手か鞭で打つというのならいい。顔というのは自分の母親や自分の女と同じくらい神聖なものだからだ(pp226 第3部2章)
ガルがこれを理解できたなら、生きてカヌードスで勝利を体感できたかもしれないなぁ、と思ったりもする。
一方の語り部はモレイラ=セザルに同行した「メガネ記者」だが、彼はバイア人そして共和国軍側の視点であり、ガルと全く対称的な位置から登場してくるのが興味深い。男爵が可愛がっているカメレオンも暗喩になっている(?)人物で、柳のような、しかし不器用な身のこなしで中盤以降の歴史的重要シーンに居合わせる役目を作者から負わされている。語り部が持っていい主張と悪い主張がある、といわれているような、そんな気持ちになる。ただし、後述しようと思っているが、そんなメガネ記者もカヌードスの本質は体感できなかったんじゃないかなぁ。なぜなら彼はインテリだったから。
 
反乱自体も多くの交代を伴っている。何しろ4度の会戦があったのである。4回の軍隊と4回の行軍ルートがある。行軍ルートを下記画像にまとめてみた。読中の印象よりも案外色々な場所から攻められたんだな、という感想に変わった所ですね。(なお、カヌードスの街マップは見つけられなかった。もちろん資料が残っているとも思えない。)

元データはこちらwikipedia:caudos_state_park記事に付随の写真より)
バイア警察義勇兵大隊長のジェラルド・マセードも、ジョアン・アバージを30年追い続ける過程で、社会的な役割のなか共和国軍に鞍替えしていったというのも広く見れば交代の一種だろう。余談だが、マセードは目的を達成することが出来なかった。大天使にその役目を奪われてしまったからだ。
中々会戦から交代してもらえない人物もいる。1回目の隊長であるピレス・フェレイラ中尉だ。物語全体が反乱軍の敗北を結果として残すなら、その中で共和国軍の敗北であるモレイラ=セザルとピレス・フェレイラが反乱の熾烈さを担っている。
 
 
ここでやっと反乱(戦争)が出てきたが、やはり反乱自体について大きく取り上げるべきであろう。戦場の情景の生々しさこそが本書の魅力の中核をなす部分だからである。
制服対ぼろ着、沿岸部対内陸部、新しいブラジル対伝統的なブラジル、この戦いがそんなふうに見えたとしてもそれは外見だけのことだった。本当は、これは深い所で行われている非時間的な永遠の戦い<中略>自分がその戦いにおいては単なるあやつり人形でしかないことに気づいていたのだ。(pp136 第1部7章)
 
これは当然ジャグンソ側(カヌードス戦士)の視点である。というわけで、ジャグンソからすればこれはいわゆる「戦争」ではないということが分かる。
ゲリラ戦だからでもあるけど、こうした理由によって、斬新で生々しい戦術が現れる。更には、むしろ一周回って美しすぎる戦闘シーンも強く印象に残っている。例えば、不吉な笛の音とともに「動物を二度殺す」シーン(pp264 第3部4章)や、少女を利用して兵士をおびき寄せようとした事後らしき場所にルフィーノがさ迷いこんでしまうシーン(pp292 第3部4章)など。少し長いが引用してみたい。
 
笛の音はある種の鳥の鳴き声に似ている。その不ぞろいな悲歌は耳を貫いて兵士たちの神経に突き刺さり、夜中に彼らをたたき起し、行軍中に奇襲をかけてくる。それは死の前奏曲だ。弾丸や弓矢が続き、かすめるようなうなりをたてながら、的に命中する前に、光あふれる空を背景に、あるいは星のまたたく夜空を背景に輝きたつ。<中略>ちょうど笛が兵士たちの耳―頭、魂―にねらいを定めているように、弾も執拗に動物ばかりを求めて飛んでくるのだ。<中略>―動物自身の命を奪い、同時に、それらを引き連れてきた人間たちの糧となる可能性をも奪うのだ。(pp264 第3部4章)
 
 
全く別の観点になるけれども、カヌードス陥落直前になり、ベアチーニョに連れられ投降する民をジョアン・アバージらジャグンソ達が発砲するシーンについてはどう考えるだろうか(pp672 第4部6章)。この倫理的な命題にたどり着くためにこそ600ページの文学があったのでは、と私は感じさせられたようなシーンだった。
ベアチーニョはコンセリェイロの遺言に閃きを得たのであろう。常に未来のためにしなくてはならないことがあるということなのだろうか。思い出してみれば、カヌードス以前のコンセリェイロも同じようなことを言う人だった。
各自家に帰るようにと求めた。自分と一緒に遍歴を続ければ牢屋に入ることになるか、今では父なる神のもとにいるあの五人の兄弟と同じように死ぬことになるだろうから、と言うのだった。が、誰ひとりとして動かなかった。(pp047 第1部3章)

ジョアン・アバージはどうだろうか?
ここでは生よりも死の方が重要だとされているのだ。すべてから見放された状態で生きてきた彼らの望みといえば、立派に葬られることだけなのだ。<中略>死こそが唯一、苦しみを埋めあわせてくれるもの、コンセリェイロの言う「お祭り」ということになるのかもしれない。(pp584 第4部4章)
 
 
この引用が何か回答になっているだろうか?この独白はメガネ記者のものだが、個人的には、これを次の問いに繋げてみたい。
コンセリェイロの目的は半ば不明瞭なままであった、しかしそれにしても、なぜセルタンゥの人々はコンセリェイロに付き従い、カヌードスに集まったのだろうか?
 
 
この物語に巻き込まれてしまった人たちは、それぞれの立場から推論をすることになったのだが…。
オスカル将軍の推論。
カヌードスを説明するのは何なのか?インディオと混血した連中の血に欠陥があるのか?教養の欠如か?それとも、暴力に慣れ親しんでいる連中の野蛮な本性が、隔世遺伝によって表面に現れ、文明に抵抗しているのか?宗教や神と何か関係があるのだろうか?どう考えても満足のいく説明はつけられない。(pp605 第4部4章)
 
これは物質の問題なのだろうか?メガネ記者。
幸福、不幸の感覚は今では大部分、腹具合にかかっていた。この単純な真実がカヌードスの原則なのだ、が、ではここの人たちは物質主義者と呼ばれるべきなのだろうか?(pp451 第4部 2章)

もちろん物質主義者ではないことは自明だっただろう。そして、メガネ記者は最終的にカヌードスの反乱を「誤解の物語(pp559)」だとし、帝制の奴隷解放への反対者が共和国を作り、奴隷制を復活させる動きだと捉えた人々によるものだ(pp560第4部4章)と結論付けている。
それはその通りなのだろう、恐らく。ただしマクロ的にはそうまとめられるという事にすぎない。それはそれ、である。つまり、これで行間が埋まったようにはどうしても思うことが出来ない。
 
そこで冒頭引用のレオンが出てくる。彼らは物質的にももちろん困窮していたが、追い打ちをかけるように精神も行き場をなくした呪縛霊であった。神が創造した神の無い場所=悪の住まう場所と自分自身が現実性を伴ってオーバーラップしていた。ジョアン・アバージも『悪魔ロベルトの物語』を小人が語って聞かせるシーン(pp675第4部6章)では、罪の苦しみに苛まれている様子が描かれる。
 
それまで恐怖と憎しみと飢えと犯罪と略奪しか知らなかった連中に人生を変えるよう説得したがゆえに、やつらは次々と軍隊を送ってあの人たちを根だやしにしようとしている。こんな不公正をはたらくとは、いったいブラジルは、世界はどうしてしまったんだ?(pp537第4部3章)
 
他人にとっては不都合なことではあるが、当事者たちにとっては抵抗することもまた、障害の多い世界の中で生を全うするための方法論だったのだろう。皆が何に向かっていいか分からない中、自然な役割分担がされ、自然と人が増え、組織ができていく。こんな当たり前だが予定調和的な事があるだろうか。
その組織が鎮圧された状況を清濁併せ呑んでどう咀嚼するのがいいだろうか。
心して知るべきなのであろう、ドグマの信憑性を疑うよりも、概念的秩序が壊された空間の中に禿鷹の海だけが残ったという事実自体の姿を。
 
 
2/1:P.S.
※人物紹介別紙の3ページ分です(DLして見て下さい)


アウステルリッツ(W.G.ゼーバルト著 白水社 2003)

どんな因果によってかかつての所有者よりも長生きして破壊の作用を免れ、テレジンの小道具屋に打ち寄せられた装飾品や道具類や記念の品々もまたことごとくが時を止めているのであり、それらのあいだに、今、私自身の影が幽かに、あるかなきかに写っているのを認めることができるのです。(pp191-192)

アウステルリッツ

アウステルリッツ

 
※以下の内容には『アウステルリッツ』のネタばれが含まれます※「ジャンルを特定できない散文小説である」とのことらしいが、これは口頭伝承の口語書き下しなんだと思う。それもブルースのような類の。もしくは鎮魂歌。
 
とはいうものの、人に何かを訴えようというそぶりは全く見せる気がない。堆積したチリを見るような空気感の中で、がらんどうの空間に分散し、充満する静謐で潔癖な空想がただ広がっている。
本書の本体であり、語り手の側である人物アウステルリッツにとって本意であるかは定かではないけど、それは例えばヴァルヌーイ湖に沈んだ町の風景が体現している。
両親も、兄弟姉妹も、親戚も、隣人も、村民も、ひとり残らず深い水底に沈んでいる、まだ家に至り、そこの通りを歩き回ったりしている、でも口を利くことは叶わず、両の目を大きく瞠っているばかりだと、そんな風に思えてくるのでした。<中略>夜、冷え冷えした部屋で眠りに引き込まれる前には、自分も暗い水底に沈んでいるような気のすることがよくありました。ヴァルヌーイ湖の哀れな魂と同じく、眼を大きく瞠って、頭上はるか、幽かに射しこむ薄日を仰ぎ見ているような、鬱蒼と木の茂る岸辺に恐ろしげな様相でぽつんと立っている石塔の、さざ波に見え隠れする水影に目を凝らしているかのような気がしたものです。(pp052)
イライアスの父親の町があったヴァルヌーイ湖は恐らく想像より少し和平的移住が行われたであろうとは想定することができる。なぜなら、ダム湖であるから。しかし、子どものアウステルリッツにとってはこのような解釈なのであり、つまりアウステルリッツとはこのようなある種ナーバスな人物なのであった。
 
本書を一言でまとめるなら、
幼少期に孤児となった建築史家アウステルリッツが語る、アイデンティティを探る人生の回想録(進行形)
ということになるだろうか。
 
本書の大部分が壮年期を終える人間の回想録であり、それゆえ話題が子細の記憶のパッチワークのように飛散している。行間の無い密集した文字塊の中で、隣の文が30年前の話だったりする。
というわけで備忘録のために、これを年代順に並び替えました(アウステルリッツ目線)。
 
 
1934 アウステルリッツ誕生。チェコにて。
1939 「子供だけの特別移送」チェコからイギリスへ
   バラでの育ての親イライアス夫妻との生活(説教師の生活)
1946 ストーワ・グレインジ学校寄宿生になる(グェンドリンの病気が原因?)
   歴史の先生ヒラリーに学ぶ。自分の名前、孤児であることを知る
   上級寄宿生になってから、後輩ジェラルドとの交流
   休みがあるとジェラルドの家でアデラやアルフォンソの知己を得る
   コートールド・インスティチュートで建築史を始める
1957 パリで研究
   オックスフォードに進学
1965~ ジェラルドの事故死(「私自身の下降のはじまり(pp114)」)
1967 アントワープで「私」と初対面、数日連日で出会う
<<それから「私」はロンドンのアウステルリッツ研究室に何度か行った>>
1968 パリに研究のため滞在、マリー・ド・ヴェルヌイユと出会う
   獣医学博物館で倒れ一時記憶喪失になる
   オーステルリッツ駅でマリーとサーカスを見たり…
1972 マリーとマリーエンバートへ旅行
1975 「私」がドイツから手紙を送るが返事無し(この後連絡取らず)
1991 大学を早期退官、自身の研究をまとめようとするが…
   リヴァプールストリート駅でリュック姿の自分を思い出す
1992 大英博物館近くの古書店のラジオで「子供の移送」を知る
→  そのまますぐチェコへ発ち、ヴェラと会う。
→  テレジンや、子供の移送の経路を列車で追憶する
→  帰省し家の隣のクレメンテ病院に倒れる。庭仕事をする。
1996.11. 「私」と偶然グレート・イースタンホテルのバーで再会
<<ここから回想録が始まる>>
1997頭   2度目のプラハ、アガータの写真を見つける
1997.3.19 アウステルリッツの自宅に招待される「私」
<<ここで回想録と「私」との会話の時間軸がクロスポイントを迎える(pp243)>>
 
1997.9.  アウステルリッツの新しいパリの住所から手紙、会いに行く
その後   パリの国立図書館がオーステルリッツ駅に移籍
→     アウステルリッツの父親の消息あったとの連絡あり。
→     「私」はその足でもう一度アントワープに立ち寄る

 
思い出話の情感を蹂躙して整理してしまったけど、一方アウステルリッツとは、時間というものを疎みすぎるゆえに時間や過去といったものにがんじがらめになってしまった人であり、肥大化した概念が叫びとなってパッチワークが生成され続けている。
 
アウステルリッツアントワープ駅を評価するに、帝国主義時代の大きな国家事業の一つであり、最も高く中心部に置かれているものは時計であるという。
時計はアントワープ駅の中心点であり、<中略>いやがおうにも時計に合わせた行動をとらざるえを得なくなる。<中略>十九世紀の半ばに統一時間が導入されてからというもの、時間は疑いもなく世界を仕切っているのです。(pp012)
グリニッジでの「私」との対話の中でも、時間についてのブルースが物悲しい調べを奏でる。
私は時間が過ぎなければよい、過ぎなければよかった、と願っていたのです、時間を遡って時のはじまる前までいけたらいいのに、すべてがかつてあったとおりならばいいのに、と。<中略>私はあらゆる刹那が同時に並存して欲しいと願っていました。(pp099)
 
そうであるべき、というよりは願いなのだとここに来て理解する事ができるということなのでした。
くどいようだけど、もう一文アウステルリッツの時間についてのコアイメージを引用しておきたいです。時間についての願いがあるのだとすれば、その形而上学的な概念とは。
…私はだんだんこう思うようになったのです。時間などというものはない、あるのはだたさまざまな、高度の立体幾何学にもとづいてたがいに入れ子になった空間だけだ、そして生者と死者とは、このときどきの思いのありようにしたがって、そこを出たり入ったりできるのだ、と。(pp178)

具体的には、建て直し中のリヴァプール駅の中、新旧入り混じった空間のひずみのような場所で、自分の過去を思い出した経験などに象徴される経験則から生まれたものだろう。
面白いのは、そう言いつつ、話している場所がグリニッジだったりするところで、いくら時計を持たない主義だとか言ったところで、しっかり時間に束縛されているじゃないか!もちろん、本人も気づいてはいるけど。
 
ここへきて2つの考えが浮かんでくる。1つは、こうした時間についての考えは究極的には自身の過去にかかわっているということで、2つ目は、自身の思考と自身の身体のある空間を同一視しているということ。これを1つずつ考えていきたい。
 
1つめ;時間にしても建築史家的な知見にしても、あたりまえだけど全ては自身の経験に結び付くものであって、とりわけアウステルリッツについては、家族がWW2時代の動乱にユダヤ人として巻き込まれていった過去に強く結び付いているといえる。だからこそチェコを訪れテレジンや「子供の移送」の経路をたどってみる。
 
2つめ;これは話が飛躍しているかもしれないが、アウステルリッツにしても「私」にしても、動物やモノによくスポットを当てているように思う。自身を覆う空間の表情が自身の表情であり、逆に自分の思考の中に時々ちらつくものが即ち、入れ子になった空間の間で干渉するものとして表出するというような。相互に影響する有機的な状態というか何というか。
このレバー色をした瘡蓋に覆われた柱頭の入り組んだ形を、ほんとうに一九三九年夏、子供の移送でビルゼンを通過した私は憶えているのだろうか、ということであるよりは、ばかばかしい考えながら、肌をかくも瘡に覆われてなにやら生き物めいてきたこの鋳鉄の柱のほうこそ、むしろ私を憶えているのではないか、(pp214)
 
この2つの点がまさに可視化される形で示されたのが、冒頭に引用したテレジンのショーウィンドウに映るアウステルリッツ自身の姿だったように思えるし、果して本当はどちらもアウステルリッツの頭の中だけの出来事かもしれないとも敷衍できる所まで考えが及ぶ中、ゼーバルト作品の特徴である写真、ショーウィンドウの写真が載っているわけです。
 
アウステルリッツにとっては、「私」とのグレートイースタンホテルで約20年ぶりの再会の瞬間も、やはり同様に過去から現れた自身の記憶のように感じただろうと思う(pp044参照)。
父親の痕跡を探しているパリでの話がこれを裏付けているように思われる。
何十年間と少しの変化もないひっそりした裏庭などをのぞきこむと、<中略>私たちの生のあらゆる瞬間がただひとつの空間に凝集しているかのような感覚をおぼえる。まるで、未来の出来事もすでにそこに存在していて、私たちが到着するのを待っているかのようなのです、ちょうど私たちが、受け取った招待に従って定まった日時に定まった家を訪れるのとおなじように。(pp248)
 
話は変わってしまうけど、建物についてもアウステルリッツは独自の考え方を呈示してくる。それは、アウステルリッツの自己の投影が大きな無生物にも及ぶからなのか、空間に根付いたものだからなのか、単に建築史家だからなのか、その全てが入り混じっているからなのでしょう。
例えば、ベルギーのブレーンドンク要塞が兵法的に理想的要塞である一方実践では一切使われなかった経緯と共鳴するように、ユダヤ強制収容所として果した機能と、テレジンの街が重なるようにページを追うごとに誘発されていくしくみになっている(これはアウステルリッツではなくむしろゼーバルトの仕業と言えるけど)。
 
この国の建物でふつう以下の大きさのもの―たとえば野中の小屋、庵、水門のわきの番小屋、望楼、庭園の中の子供のための別荘―がいずれも少なくとも平和のはしくれ程度は感じさせてくれるのに、<中略>ブリュッセル裁判所のような巨大建造物について、これを好きだという人は、まともな感覚の持ち主にはまずいないでしょう。驚くというのがせいぜいのところで、そしてこの驚きが恐怖に変わるのは、あともう一歩なのです。なぜなら、途方もなく巨大な建築物は崩壊の影をすでにして地に投げかけ、廃墟としての後のありさまをもともと構想のうちに宿している…(pp018)
 
このセリフは1967年アントワープでのものだけど、アウステルリッツの生涯で後にこれを自ら体現するかのような出来事が記されていて、予言めいた発言なのだった。それはオーステルリッツ駅のあたりのこと。
唯一伴侶になり得たかもしれないマリーと見た小さなテントのサーカスがあったあたりに、近年国立図書館が移転してきた。これによって、オーステルリッツ駅がユダヤ人から没収された物品の倉庫であった歴史が抹消されてしまっただけではなく、アウステルリッツの2つの思い出(マリーと出会った国立図書館とサーカス)までもを失ってしまったのであった。
巨大であるということはパワーということ。幽霊のような人間であるアウステルリッツにとって、記憶が留まることの許される場所が減っていってしまうことは本能的な危機だし、少なからず記憶に生きている私たち皆に及んでいくものだということなんでしょうかね。
 
幽霊のような語り手アウステルリッツという人のこの後、つまり、アウステルリッツの幸せとは何なのだろうか? 
アウステルリッツが幸せそうであったのは、3つの場面だった。1つ目はジェラルドやアンドロメダ荘での生活。2つ目はマリーと見たサーカス。3つ目は記憶の彼方、ほとんど空想上でのチェコの家族。
 
本書の最後、アウステルリッツは「私」との別れ際にこんなことを言っている。これまたオーステルリッツ駅について。
この駅は、とアウステルリッツは語った。かねがねパリでいちばんの謎めいた駅だと思っていたところです。<中略>こうしたことがすべて何を意味しているのか、とアウステルリッツは語った。私にはわからない。だから父を、そしてマリー・ド・ヴェルヌイユを探し続けます。(pp278-279)
 
空間に何か痕跡やヒントが隠れている、という陰謀論めいたプロセスは、もはやアウステルリッツにとっておなじみの方法論であった。オーステルリッツ駅に何を見出すかについては多く語られていないが、マリーと、父と、「私たちの生がひとつに凝集される」ための出発点としてふさわしい空間だと思っているに違いないんじゃないか。
記憶に生きることというのは、誰かを渇望するということに類似している。
 
過去の幸せの中で、ジェラルドたちは未来のこととしては想定されていない。
もちろん、もうアンドロメダ荘には誰も集まらないことが分かっているからではあるのだけど、そればかりでなく、イギリスという場所のよそよそしさと、案外、アントワープで「私」と出会う前後あたりで丁度アウステルリッツの人生のフェーズが分断されているからではないかと思う。
 
と、ここまできて盲点だったために気付かなかった単純なことを思い出した。
1996年にグレートイースタンホテルのバーで偶然に「私」と再会したことは、まさに「生がひとつに凝集され」たような状態だったのではないのでしょうか。
「私」はなにもしていないように見えて、結構アウステルリッツの人生に関与することになっていった。かくも人の出会いとは不思議なものだということでしょうね。
そしてだれも望んだような形にはならず、思いもかけないところが繋がっていく、とも。

黒い時計の旅(スティーヴ・エリクソン著 福武書店 1990)

二十世紀の外に?と彼女は考え、父親の胸の内を思ってぞっとした。「でも秘密の部屋には何があるの」と彼女はそっと訊ねた。しばらく間をおいてから、父はようやく「良心だ」と答えた。 <中略> 優しい眼差しで、彼女は父親の狂気を見つめた。この人は二十年間、これが二十世紀の見取図だと信じてきたのだ。どこかにその良心の隠し部屋があるはずの、二十世紀の見取図だと。(92章 p178)

黒い時計の旅 (白水uブックス)

黒い時計の旅 (白水uブックス)

(私が読んだのがuブックス版ではないので、引用ページ数は参考にならないでしょうけど、一応記載します…)
 
※以下の内容には『黒い時計の旅』のネタばれが含まれます※

この作品の特筆すべき素晴らしさは、何と言ってもヴィジュアル的な美しさにあるように思えます。死人が出ると死体を木にぶら下げるチャイナタウンでは、製氷機が年中音を出し続けている。なぜヴィジュアルが美しく機能しているのか?
おそらくそれは、本書が因果律での結び付けから解き放たれて、でもモンタージュに支えられているからではないか。そこには、1つ1つの作者のドグマが埋め込まれているからではないか。そう思えてならないのです。

「あたしが踊るたびに、いま誰かが死んでいる、とあなたは思ってた。でも全然そうじゃなかったかもしれないのよ。<中略>あたしが踊るのをあなたが見るたびに誰かが死んでいたのかもしれないのよ」(102章p214)

これは統計学上で気を付けるべき誤謬として良く知られているけれども、物語はこの誤謬と相補関係にある。だからスティーエリクソンは違う方法で本懐を積み重ねていった。
紙が破れそうだと思った時、セロテープを貼るでしょう。傷より少し大きめのセロテープ。そして時が経ち、古びたセロテープの上からさらにセロテープを重ねる。それはもとのセロテープからはみ出した形で重ねられるのです。こういった感じで堆積した厚みで覗く虫めがねのようなものとしてのモンタージュ
 
この辺で一度本書の流れをまとめておくと、大きくみて三つの区切りとして捉えられるでしょう。
1.チャイナタウンと本土の境界を生きるマーク
2. バニング・ジェーンライトの半生
3. デーニアの半生
 
一言でお話を表すとすると、こんな感じ。
Zのための物語を起こしたジェーンライトが、Zへの恨みを具現化するためにデーニアを懐妊させマークが生まれる話。 
各人の詳細は以下の通り。
 
【ジェーンライト】
養子として不遇な生活をした後、ひょんな義理兄弟のいたずらから実の母親がインディアンであることを知る。家を燃やし、恐慌時代のニューヨークを裏ルートで登り詰め、顧客のついた作家となる。親殺しの指名手配でウィーンに亡命し、結婚子どもをつくる。顧客Zを取り巻く環境のせいで妻子を失う。
時が経ち、イタリアでの幽閉生活でZの存在に気づく。漁師のジョルジョの助けでZと亡命を果たす。遂にニューヨークに至り、デーニアの父親の青写真を手にする。ニューヨーク時代の事務所でヒントを得てダウンホール島に至る。
 
【デーニア】
ロシアから亡命した父親とスーダンのプヌドゥールクレーターに住む。銀の短い毛の牛が現れ、母弟を無くし、ウィーンに住む(ダンススクールでホアキンと出会う)。父親がスパイのライメスに殺され、自らもライメスを殺める。戦争が終わり、ホアキンに招かれロンドンのバレエ団に移り、ニューヨーク遠征をする。ホアキンとポールが死んだことをきっかけにしてダウンホール島に移る。探偵のブレーンがデーニアに会いに来るが、ジーノに殺される。ダウンホール島で懐妊する。
 
【マーク】
子どもを産むような年ではないデーニアから生まれた。ジェーンライトの死体を部屋で見て、ダウンホール島を出ることを決意する。島を離れられず、ジーノの舟で生活を続けるが、壮年期のある日、青いドレスのカーラと接触し、デーニアに会いに行く運命となる。また、デーニアの死後にはカーラの後を追い、島を遂に永久に離れることとなる。カーラの死後、北極圏を抜け20世紀の初めに到達し、死を迎える。
 
張りつめた糸が一気に一つの死に向かって動き出すシーンは、どれも凄まじく統制されたエネルギーを感じて、本書の良さの一つなんだけれど、良い作品には良くあることだけど、捉える命題の多さが枚挙にいとまがないので、いくつかを抜き出して考えられればなぁ、と思います。
 
まず、1つの重要な気付きがあります。それは、デーニアは様々な中間媒介者でありながらにして、全ての因果律から隔たれた、部外者であるというところ。彼女が生死にかかわる時、それは彼女の知らない所で進められるものであったと言えます。デーニアは自分の子どもが何故自分の体から生まれてきたのか、ついぞ知らずに終わったとも解釈できるのです。
彼女のとって、彼はいわば理論上の子どもという感があった。自分の想像力が生んだ途方もない虚構を見守るかのように、彼女は子供を観察し、吟味した。(2章p006)
皆が当てつけのようにデーニアを利用するが、間接的な交わりによってデーニアの意志が曲げられるということもない。デーニアは幸福な人生を送ったわけではなかったけど、結果的に誰かに人生を踏み倒されたわけではなかったように見える。これは見かけ上の事なのかもしれないし、実際にはかなり際どい部分もあるが、その意味では彼女は普通の20世紀の亡命者だったと言えるかもしれない。
一つだけ、彼女がライメスを撃ち殺したとき、何を思っただろう、と考える。土壇場で銃の引き金を引く度胸のある人間は、運命への使命感を背負うことが出来る人であっただろう。そこに幼少期のライメスとの思い出がオーバーラップするとすれば、それはデーニアの記憶とは関係のない、潔白な第三者のパズルゲームにすぎないんじゃないかな。
 
デーニアは親の仇をその場で晴らすことが出来た。その場に立ち会う事が出来たからであるし、全世界の人類の中で、親を殺した人間はライメスただ一人だったからであった。母弟への弔いはあくまで形式的な物に過ぎなかったはずだと思います。
ところが、ジェーンライトはそうはいかなかった。妻と子どもを殺したのは、人ではなく構造だったからなのだった。
もう生きるために書く必要はなくなったが、今度は復讐のために物語を書くことにしたのであった。すなわち、ジェーンライトはZにとっての神になることにしたのであった。
ところが、ジェーンライトは図らずも、Zを支配する、という領域を越してしまったのだった。実際にデーニアが懐妊したのであった。
結局のところ、たったひとつのちっぽけな命を仕返しとして絞殺することができるにすぎないのだ。それではとても復讐には足りない。<中略>おのれの悪を忘れてしまった男を殺して、それが何の復讐になるだろう?(112章p226)
最終的に、これを敷衍すれば、やはり何のかんのと言ったところでデーニアの子どもを殺すことは出来ない道理であった。これは、彼が神に一歩近い立場で強いられた分別でもあったと思う。
 
一方密度の高い感情が詰め込まれた胎盤で育ち生まれたマークはこう思うわけである。
だが、あの初めての瞬間、霧が四方から追って水と蒸気以外には世界に何ひとつなくなったあの瞬間、新しい船長は老人のことをまだ忘れてはいなかった。一人取り残された彼は、僕は宇宙のどこにいるんだ?とみずからに問う。だがそれはいままでいつでも問いえた問いだ。生まれてずっと、彼はチャイナタウンという名の、水上に漂う船の上にいたのだから。(10章p014)

全ての人と同じように、彼が何者であったかは分からないのである。分かっていることは、彼はジェーンライトの人生の後で、20世紀をさかのぼり、百の幽霊たちの記憶がふわふわと漂うように空へ上がってゆき、ついには空しく破裂(164章p281)したのであった。
しかし、これはダウンホール島で洪水が起きた時に地表から流れ出たたくさんの死体たちと同じで、それをマーク少年は見届けているところは興味深いところなのだった。
 
また、マークを結果的に牽引した青いドレスの少女カーラは何であっただろう。これがまた分からないのである。カーラはダウンホール島には「埋めるために来た」のだけど、何だろう。
ジェーンライトはとっくの昔にデーニアが埋めてしまったし、デーニアを埋めたのもマークだった。もちろん、カーラがきっかけを与えたのではあるけど。
とすると、やはり二つの20世紀の溝を、と考えるのが妥当だろうか。
だとすれば皆が成り行きで関わっていった20世紀に対して、カーラは唯一的を見据えた上で行動した主体だと言えるだろう。ところが、マークだけではなくテキストにおいてもカーラを見つけることは難しい。何かを埋めた彼女自身は、展望台のもと、意図的に埋められなかったということが分かるばかりである。
極まっている場の流れを、先導する一点の特異点は物語の主役になり得ない。それは光のように質量のないただの軌跡である。
 
大局を振り返ってみると、ジェーンライトが20世紀への言われも無い恨みを背負った所からのスタートなのだと改めて感じさせられる。この大男の受けた150km/hのレシーブ。ジェーンライトを責める気になれないのはこういった事情もある。つまり、本書全体が20世紀の鎮魂歌であると同時にジェーンライトの鎮魂歌でもある、とそう思う。
 
青写真の事もかなり気になる。
ロシアから亡命する時に持ちだしたデーニアの父が世界に残していったものである。父だけでなくデーニア自身も見つけられなかった「秘密の部屋」をジェーンライトが見つけたというのは大いなる皮肉である。さらに、Zに与えられたメモとなることはもっと大きな皮肉である。
説明でも墓碑銘でも弁明でもなく、ただの謎を書く。"Aber ici liebte sie.(だが私は彼女を愛していたのだ)―A.H."(151章p268)
良心。
 
ジェーンライトの世界とデーニアの世界が交わったことは、実は少ないのではないか。ジェーンライトとデーニアの交わりはいつでもどこでも、といった感じがあるので混同しそうになってしまうけれども。
デーニアに白いあざが出来た時でさえ、2つの世界は形而上的な交わりしかもっていなかったように思えるのである。ジェーンライトが中年になって、20世紀がピークを越えてからやっと世界が交わったかのようでもあるが、初めの形而下での交わりは、妻子を亡くしたジェーンライトの散歩の先、もはや誰もいないデーニアの住んでいた家だろう。
 
そして意外とその次は青写真の忘れ置かれた部屋かなぁ、と思う。ジェーンライトの作業部屋でありブレーンの事務所部屋。このあたりから、つまりZが死に絶えてからは、急ピッチで二つの世界は距離を縮めていくようだ。
と、いうのはいかにも私たちが望みそうなシナリオであって、もしかすると世界が交わる本当の理由は、誰も見つけられなかった青写真をジェーンライトがたどることが出来たからなのではないか。そう思うのも悪くはないと思うんですよね。
 
だって、多くの人が真に求めているのは、独裁者の死にざまではなく、良心の隠された秘密の部屋のはずですから。